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自分らしく生きたある若い女性の話、としてのリンドグレーン。【その2】

出産と別れ

コペンハーゲンに降り立ったアストリッドを出迎えたのは、ステウンス夫人の息子カールだった。彼は中央駅から、Håbets Allé (コペンハーゲンの養母が暮らしていた通りの名前。直訳すると「希望の道、希望通り」となる)の自宅までアストリッドを案内した。

路面電車で、二人はまだ緑の残るブロンスホイ(Brønshøj) 地区へと向かった。電車を降りて向かった先は、二階建ての一軒家。ここはアストリッドがその後生涯に渡って何度も訪れることになった家だ。ちなみに一番最後に訪れたのは1996年。誰が住んでいるかも知らず訪問したアストリッドは、驚く家主に自己紹介し、事情を話して中に通してもらう。そして当時、生まれたばかりの息子に授乳していた二階の部屋で、しばし一人座って過ごしたという。

養母のマリアは当時もう一人小さな男の子、エッセ(Esse)を育てていた。マリアは常に数人の子どもを育てており、出産前の若い女性たちを産前産後自宅に住まわせた。優秀で使命感に満ちた養母のマリア。彼女はスウェーデンからやってくる多くの若い母親たちを救った養母の一人だった。

12月4日、陣痛がひどくなってきたアストリッドは、マリアの息子カールとともに車で王立病院内にある産院へと向かった。陣痛に苦しむアストリッドの気分を紛らわせようと、道すがら、銅でできた牛の頭(肉屋の看板)を数えながら向かった先は、当時の北欧で未婚の女性が匿名で、また子どもの父親の名前も明かさずに出産できる唯一の産院だった。妊娠を9か月間隠し続けた若い女性が自力でひそかに出産し、子どもの首を絞めて殺すということもめずらしくなかったこの時代。この産院はそんな女性たちが医者のもとで、安全に子どもを出産できる場所だった。

生まれた男の子の名前はラース(Lars)。アストリッドはその子をラッセと呼んだ。ラッセが誕生した12月4日から12月23日まで、ラッセと過ごしたアストリッドは幸せに満ちあふれていたが、クリスマスには一人実家へと旅立った。それは、前年の秋に忽然と消えたアストリッドについて地元の人々のうわさを払拭するため、そして父と母のためでもあった。しかしそれは寂しさで心が痛み、悲しみに満ちた帰省でもあった。

クリスマスが終わると、何事もなかったかのようにアストリッドはストックホルムへと戻って行った。都会の狭い部屋で、ベッドと当面の服、そして母が持たせてくれたたくさんの食べ物。アストリッドの孤独な暮らしだった。

1927年1月、学校を再開。しかしストックホルムでの暮らしは孤独で寂しく、時には自殺願望さえ頭をよぎる。父と母への手紙には、元気に頑張っている娘を演じていたが、親しくしていた兄と友人にはそんな自分の気持ちを書き綴った。

だれもいない日曜日の街をあてどなく歩くアストリッドの心に、ラッセへの思いがとめどなくあふれ、普段は忙しさでひた隠しにしてきた寂しさ、感傷的な思いがわき出てくるのだった。アストリッドはまた、当時読んだ本から、人が持ち合わせた孤独は、それがたとえ男女の愛によってしても取り除くことはできないという思いが、確信へと変わっていった。

「女性から生まれたあらゆる生き物は、孤独でしかないのです。突然だれかがあなたのものへやってきて、わたしたちはわかり合えるのだと言ったとしても。そして自分の心の中でそうだと思ったとしても。(中略)わたしはこれまで、そう言ってくれる人々と出会ってきたけれど、同時に今までにないほど寂しくなるのです。とにかくどうしようもないほど寂しさを感じ、そしてそれはきっと変わることはないでしょう」


実家から届く食糧が底をつき、空腹が続くと深い寂しさやすべてが無価値だという感覚にも襲われた。

学校を卒業したアストリッドは1927年に就職。仕事は順調だった。またこの年、レインホルトの離婚調停が成立。喜び勇んで家の改築案を見せ求婚したレインホルトに対し、アストリッドは暗に拒否。故郷で後妻として彼の子どもたちと暮らすことに、アストリッドは気が進まなかった。また、レインホルトが彼女のストックホルムでの暮らしに干渉したり、彼女の心を常に支配しようとしていたことに、アストリッドは反発していた。2人はその翌年別れることになる。

アストリッドは時間を見つけては、コペンハーゲンの息子に会いに行く生活だった。レインホルトも息子に会いに出かけたが、アストリッドの旅費、そして養育のための支払いをしていた。アストリッドの当時のパスポートには、所せましと出入国のスタンプが押されている。2,3か月に一度、時には5か月に一度となったコペンハーゲンへの訪問は、金曜の夜行列車でストックホルムを発ち、翌午前中にマルメから船でコペンハーゲンに到着。正午にブロンスホイの養母宅に到着。帰路は日曜の夕方遅くに養母宅を発ち、月曜日の朝ストックホルムへという慌ただしいものだった。24-25時間だけ息子と過ごせる貴重な時間。養母のマリアは、アストリッドのためにラッセの成長を毎月手紙で伝えた。カールは時にラッセの写真も同封していたが、ラッセの成長も、写真の一枚でさえ、アストリッドは両親に送ることはなかった。それは、アストリッドがまだ両親からラッセのことを歓迎されていないと感じていたからだった。

ラッセ、スウェーデンへ

1929年冬、アストリッドに一通の手紙が届く。そこには養母のマリアが心臓病のため、これ以上ラッセを育てることはできないと書かれていた。この時のマリアの手紙にはこんなことも書かれていた。

「ラッセママ(アストリッドのことはコペンハーゲンでこう呼ばれていた)、わたしは今すぐ死ぬわけではありませんが、もう小さなお子を連れてお帰りなさい。そして、自分の目の届くところにおくのです。もうデンマークで寂しい子どもにしないであげてください。そうしてくださったら、わたしの人生も無駄ではなかったと思えます。」

ラッセは既に別の養母宅へ移され、マリアによると更に別の家に移される予定だという。12月28日にコペンハーゲンへ向かったアストリッドは、マリアとともにラッセのいる養母宅へと向かった。

マリアの姿を見たラッセは、幸せそうな笑みをうかべた。それを黙って見つめるアストリッド。ラッセは既に3歳になっていた。マリアを"mor" (デンマーク語で「お母さん」の意味)と呼び、自分の母親として慕って生きてきたラッセ。3人はマリアの自宅へ戻ったが、その数時間後、アストリッドとラッセは、マリアの姉妹の自宅へと向かった。その時ラッセは即座に、もうマリアと暮らす日々は終わったのだと悟ったのだという。

その夜のことをアストリッドは「わたしの人生で最も辛い夜だった」と語っている。70年代に当時のことを振り返ったアストリッドは、カールへの手紙の中でこの時のことを綴っている。

「そこに着いたとき、ラッセは自分が思い描いていたこととはもう何もかも違うこと、そしてそれがもう望めないことがわかったようでした。そして椅子にうつ伏せになり、静かに泣きました。本当に静かに。あぁ、もう大人はぼくのことを好き勝手にするんだと悟ったようでした。その泣き声は今でもわたしの心の中にありますし、ずっと消えることはないでしょう。もしかしたら、その泣き声が、わたしにあらゆる面で子どもの味方をさせているのかもしれません。市の職員が子どもをあちこちたらい回しにするのが許せないのです。子どもなんて、きっとすぐ新しい環境に馴染むとでも思っているのでしょう。そんな簡単に適応できるはずがないのです。そんな風に見えるだけなのです。ただただ、大きな力に抵抗できないのです。」
「わたしは寝ずに、戸惑いながら、ラッセのためにどうすればよいのかずっと考えていました。そしてやはり、何もないけれど、彼をストックホルムに連れて帰らなければいけないと思ったのです。次の朝、わたしを見つけたラッセは確か驚いて「あ、ママがいる!」といったと思います。きっとまた、わたしが彼をおいていなくなっているだろうと思っていたのでしょうね。」

この頃、アストリッドは職場で出会った男性、のちに彼女の夫となるストューレ・リンドグレーンと交際していた。ラッセを連れて帰ることを速達で伝えた彼女は、ラッセより一足先にストックホルムへ戻る。そして1930年1月10日、ラッセはカールとともに初めてスウェーデンの母の元へとやってきたのだった。

ラッセとの日々

ストックホルムへとやってきたラッセは、ずっと咳が止まらなかった(後に百日咳だったことが判明)。寝室で咳き込みながらも「もうお母さんも、エッセも、カールも寝てるだろうなぁ」と言っているのを聞いたアストリッド。カールへの手紙の中で「このことを書きながら、また涙が止まらないのがわかりますか」と綴っている。

問題は百日咳だけではなかった。突然、一人きりで小さな男の子を育てることになったアストリッド。それまではいつも、コペンハーゲンの「お母さん」がついていてくれたが、今では責任が自分だけにのしかかっていた。

ラッセはその後もずっと咳をし続け、アストリッドは夜ほとんど眠れずに仕事に行く日々が続く。

1930年3月、救いの手がスモーランドから差しのべられる。アストリッドの父と母が、ラッセを必要な期間預かる提案をしてきたのだった。4月、休暇を取ってアストリッドは実家へ初めてラッセを連れて帰った。その当時のことを、アストリッドは1976-77年のインタビューで答えている。

「デンマーク語を話す小さな孫が、Näsにやってきたのです。母は入り口で出迎えてくれたのですが、ラッセを抱き上げようとすると、パニックになったラッセは「ぼくを置いていかないで!」と言ったんです。きっとまた独りぼっちにされると思ったのでしょう」

注意深く、時間をかけながら、ラッセはアストリッドの実家で少しずつ落ち着き始めた。この年の夏からラッセは動物や自然の中で、アストリッドと一緒に遊んだり、小さな子ブタに「バムセ」(Bamse)と名付けたりしながら16か月過ごした。この時のことを、のちにラッセは、まさにやかまし村の生活だったと語っている。
しかし始めの頃、親戚の誕生日会に出向いたラッセはその家に置いていかれるのか不安になったり、またある時は、養母に似た女性をマリアだと思い込んでその女性の自宅までついて行き、のちに別人だとわかるとショックで嘔吐するなど、辛いできごともあった。この頃のことをカールへの手紙にしたためながら、アストリッドはマリアへ改めて感謝の意を示す。

「ラッセがほぼ落ち着いたかなという状態になるまで、本当に長い期間を要しました。でもそれは決してマリアのせいだと言いたいのではありません。マリアはラッセの母親だった、ただそれだけのことですし、わたしは生きている限りずっと、マリアがしてくださったことに感謝し続けるでしょう。」

子どもを自分で育てるということ

コペンハーゲンの養母のもとでラッセとともに暮らしていた男児、エッセの母親から、ある日アストリッドに手紙が届く。エッセの母はアストリッドと面識があり、ストゥーレと新しいアパートに引越したことも知っていたエッセの母は、アストリッドとストューレに、エッセを養子縁組してくれないかと依頼してきたのだった。

返信の中で、アストリッドはきっぱりとその依頼を断る。23歳のラッセママは、手紙の中で、自身への戒めも込めてだろうか、子どもは自分で育てなければいけないという思いと、まずは子どもの立場で状況を見てみるように勧めた。

「きっとあなたは、小さな子どもがこちらからあちらへと移され、そこでまた根を張って生きていかなければならないということが、どれほど負担になるか、想像されたことがないのでは、と思うのです。わたしもラッセをスウェーデンに引き取るまでわかりませんでした。傍から見ていれば、それほどの痛みは伴わないように見えます。子どもは新しい人間関係をすんなりと嬉しそうに受け入れているように見えるからです。でも時に、そこに限りない悲しみと不安が隠れていることが垣間見える出来事が起こるのです。」
「わたしは非常に規律の正しい家庭で育ちました。両親は大変信仰深い人たちです。誰一人として家族の名誉を汚した者はいないのです。親戚中を見渡してもね。今でも覚えているのは、ラッセが生まれる前に、未婚で子どもを産んだ若い女性に対し、母が嫌悪感を示し憤慨していたことです。そうして、わたしも子を身ごもったわけでしょう。わたしは父と母の身を切るようなことをしたわけです。それにも関わらず、ラッセを連れて帰った。まずストックホルムへね。実家へは連れて帰って良いと言われてませんでしたから。その後認められるとすぐに、わたしはヴィンメルビーの実家にラッセを連れて帰ったのです。」
「あなたにも、ラッセと歩くわたしを見つめる人々の様子をお見せしたかったですよ。わたしたちは用があるときは堂々と町を歩いていました。ラッセは何かあると大きな声ではっきりと「ママ」と呼んでくれましたし、あの子がだれなのか、皆わかったはずです。無遠慮なまなざしやうわさする声なんて、全く気にならなかった。ラッセもわたしも自信に満ちあふれていたのです。その後しばらくして、人々はうわさをしたり、凝視することもなくなりました。そして少しずつ、人として敬意を示してくれているようにも感じられるようになりました。人にうわささせないためには、疑いがその通りだったということをただ証明すれば良いのです。よく聞いてくださいね。子どもがいることは何も恥ずかしいことではないのです。それは幸せであり、かけがえのないことで、人々は皆それを本当は知っているのです。」

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このたった10年ほどの出来事の中に、彼女が感じたそこはかとない孤独、愛、そして子どもの気持ちに限りなく寄り添い、彼らが感じる無力感、寂しさなど、様々な思いを大切にしていたことがうかがい知れます。そしてそれらが、彼女の多くの作品にも投影されていることを改めて感じます。また、女性としての生き方がまだとても制限されていた時代に、自分の心に忠実に生きることを実践していた、強い意志をもった女性としてのアストリッドの側面も多く表れていて、100年近く前の出来事とはいえ、彼女の生き方にとても共感を覚えます。

この2つの記事は主に"Denne dag, et liv" (Jens Andersen)の内容から紹介しています。特にアストリッドの若かった頃のことについては、今回初めて明らかにされた事実もあるというこの伝記は、日本語訳がまだ出版されていません。また、今後日本でも公開される(?)映画、"Becoming Astrid" もこのnoteで紹介している時代の出来事を描いています。こちらもお勧めです。
そしてこの伝記はまだ続きます(もちろんここに紹介しきれなかった10代のアストリッドについてもまだまだあります)。アストリッドの作家としてのキャリア、戦争時代の思い、そして後年の素晴らしい作品の背景や、死についてなど。もしまた機会があればご紹介できればと思っています(あるいは出版社さん、翻訳版を出していただければ…)。

"Denne dag, et liv" af Jens Andersen, Gyldendal, 2014.
"Astrid Lindgren -En biografi for børn" af Agnes-Margrethe Bjorvand & Lisa Aisato, Gyldendal 2015

※スウェーデン語の日本語表記に間違いがあればお知らせいただければ嬉しく思います。

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