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喫茶室ルノアールで契約書を結ぶ青春



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夕方近くの放課後に訪れたのは、学校近くの駅にある雑居ビル二階の喫茶店だった。
お店の名前は「喫茶室ルノアール」と書いてあり、都内の大きな駅の近くではよく見る白地に黒い文字の看板が目に付く事があったが、入るのは初めてだった。
ふとカフェと喫茶室の違いはなんだろうかと高校生の中神立隆晃(なかかんだたかあき)は店内を見渡す。
古い欧風とでも呼べば良いのか、白い壁紙と古風な木枠を組み合わせて構成された壁面と、四角い白いテーブルを囲むように緑色の少しくたびれた一人掛けの緑色のソファーが整然と並び、何人かのスーツ姿の大人が仕事の話をしていたり、一人で本を読んだり、喫煙ができる場所では天井を見ながらただタバコを吸ってるだけの人も居る。
声は聞こえるがあまり笑い声などは無く静かな店内だった。
一方で流行のカフェと呼ばれる店のことを思えば壁は白く、木目が美しい茶色のテーブルと柔らかな大きめの白いソファーが並んでいるイメージだ。
そんな明るくて開放的な店内で一人で本を読んだり課題をこなす学生、友達と楽しそうに笑い声を上げながら会話する人など店内には明るい雰囲気に満ちているイメージだ。
それに比べてこの喫茶室ルノアール店内の落ち着いた雰囲気はどうだろうか?
場所も繁華街の雑居ビルの二階で、窓も少なく昼過ぎなのに店内は薄暗い。
制服の上着の下にパーカーを着込んだ隆晃は、自分の姿がなにか場違いだと思った。
初めてくる店で落ち着かなく周囲を見渡し、やっぱりここは喫茶店と呼ばれるようなところなのだなあと隆晃は薄暗い店内を凝視した。
「どうしたの隆晃くん?」
声を掛けられて隆晃は目の前を向くと、そこには薄暗い室内とは不釣り合いな明るい笑顔。
上着を脱いで白いシャツに明るく柔らかい長髪が肩を撫でている。
制服のネクタイが膨らんだ胸に沿っている。小さい顔に不釣り合いな大きな瞳は光を集めて輝いていて見つめられると吸い込まれそうになる。
「別になんでもない」
隆晃の目の前に座る美少女はクラスメイトの筑紫野星楽(つくしのせいら)だった。
「そう?なんだか落ち着かないみたいだったから・・・・・・」
誰もが目を奪われるクラスで一番の、いや学校イチの美少女かも知れない筑紫野星楽の直視に耐えられなかったので隆晃は店内の様子に目を泳がせていた。
「あなたルノアール来たことないの?」
あえて視界に入れてなかった隆晃の隣、通路側の席に座る長い黒髪の女の子から声をかけられた。
星楽とは違う真直ぐな黒髪が耳を隠していて横からだと表情が見えにくいが、背筋が延びて声は凛として声量が小さくても良く聞こえた。
黒いタイツの長い足を組んで星楽と比べると偉そうで近寄りづらい雰囲気を出しているのは同じクラスメイトの神蔵恵瑠(かみくらめぐる)だった。
「こんな渋い店初めて入った」
「そうなんだ、私はよくメグちゃんと一緒に課題やるときとか来るよ」
「こんな所で?」
「静かで良いところだし、コーヒー頼んだ後に良いタイミングでお茶も出てくるんだよ」
「はぁ?」
どうにも状況が飲み込めない隆晃は目の前と通路側の隣の席に座る女の子を交互に見る。どちらも魅力的であるのは間違えないのだが正反対の魅力で星楽は白い天使で恵瑠は暗い悪魔に見えた。
「それで今日の用事ってのは?」
「そうだった、今日は隆晃くんにお願いがあるんだ」
そう言って星楽は持っていた通学鞄から書類を取り出した。
「今日はねコレにね、サインをして欲しくって」
紙の左側を白い製本テープで閉じてある冊子を取り出した。
冊子には文字が紙面いっぱいに書き込まれていて、最初のページにあるタイトルには「契約書」と書いてあった。
「これなんだ?」
「契約書」
それは漢字が読めるので隆晃にもわかった。
なぜその書面が今机の上にあって、自分にサインを求められてるのか状況が分からなかった。
「あのね、この前私たち付き合うって約束したよね?」
「そうだけど・・・・・・」
告白したのは星楽の方からだった。
学校でも随一の美少女に告白されて隆晃はもちろん困惑した。
特に顔が良いわけでもなく、金持ちの子供でもないし、スポーツができる訳でもない。
ゲームをしたり漫画を読んだりアイドルを追っかけたり、趣味っぽいこともしてない。クラスでは目立たずに後ろの席で一人で居ることが多い。
だから目の前で休み時間になると多くのクラスメイトに囲まれて、中心で笑っている星楽に告白されたときは何かの罰ゲームで冗談で言っていると思った。
だから特に何も考えずに告白された時は付き合うのを了解した。
具体的に付き合うというのは何をするのかよく分かってなかった隆晃は、言われるがまま今日、初めての放課後デートという事でこの少し薄暗い喫茶店に連れてこられた。
「どうしたの隆晃君?」
天井に顔を向け、うめき声を上げようとしたが店内で声を上げるのも迷惑だと思ったので隆晃は口を開けたまま天井を見た。
声にならない声を上げた後、今度は深々と頭を下げて右手で眉間を押さえた。
「あーそういうことなのか?」
苦々しい顔で隆晃は顔を上げて目の前の星楽と、隣に座る恵瑠に目を向ける。
「なによそういう事って?」
不機嫌そうに恵瑠が答えるので隆晃はため息を付く。
「俺、テレビで見たことあるんだけどコレってマルチ商法って奴だろ?」
隆晃は腕を組み直してソファーに腰を深く降ろしなおす。
「可愛いくて美人のクラスメイトに誘われて、喫茶店に入ってみると、変な契約書にサインさせられて、高額なものを買わされるとかそういうことなんだろ?」
隆晃は自分で声に出してみるとなんてしっくりくる状況だと思った。
「可愛いって言われると照れるね」
目の前の星楽は顔に手を当てながら照れ笑いを浮かべる。
「ちょっと私を変なことに巻き込まないでよ」
隣に座る恵瑠は初めて隆晃の方へと顔を向ける。
「だってアレだろ、神蔵が通路側に座って俺が逃げられないようにしてプレッシャーかけてるんだろ?」
「違うわよ。私も星楽から貴方と一緒に並んで話を聞いて欲しいって言われたからここに座ってるの」
切れ長の瞳で抗議の目線を送られると隆晃は簡単に怯んだ。
「私は別に変な商売しなきゃいけないほど困窮してないわよ」
良くは知らないが恵瑠の家は由緒正しい家柄で、金持ちらしいという話は何となく聞いたことがあった。
確かに隣でコーヒーを飲むとき、カップを持って口元に持って行ったりと細かい仕草が丁寧だった。
「じゃあこの契約書ってなんなんだよ?」
「星楽がさっきキンコーズに寄って行ったのはこれを印刷するためだったのね・・・・・・」
恵瑠は机の上に置かれた書類を見る。
すこしズレていたがテープで端を閉じて冊子のようにしてあるところに契約書類としての本気度を感じた。
隆晃と恵瑠はお互い顔を見合わすと、恵瑠は隆晃に手で貴方への書類でしょと、手に取るように催促した。
隆晃は契約書を手に取る前にもう一度星楽の方を見た。
可愛い。
隆晃はそれ以外感想が出てこない星楽の笑顔。大きな星を宿しているかのような輝く瞳に吸い込まれそうになりながら、その瞳から目をそらして、細かい文字が並ぶ契約書に目を落とした。
「高校三年間における恋人契約を甲(中神立隆晃)と乙(筑紫野星楽)の間において結ぶことを目的に・・・・・・」
「声だして読まれると恥ずかしいよ・・・・・・」
書類を読み始めた隆晃の顔の前に手を出して星楽は書類を読むのを止めた。
「わかったよ」
隆晃は声に出すのを止めて机に契約書を置いたまま文字を読み始める。
恵瑠も同じように髪を撫でながら文章をのぞき込んだ。
隆晃と恵瑠は二人で文章をのぞき込む、星楽も最初は肩を揺らした少し気恥ずかしくしていたが、そのうち一緒に契約書をのぞき込んだ。
「これってさあ・・・・・・」
「これって・・・・・・」
ページをめくり一通り見終わって隆晃と恵瑠は顔を上げると、同じように契約書をのぞき込んでいた星楽の顔を見る。
「なに?」
「なんなの?」
隆晃と恵瑠は同時に星楽に疑問を投げかけた。
「恋人契約書」
「ああ恋人契約書なのか・・・・・・だからなんだよ恋人契約書って!」
隆晃は自分でも驚くくらいすんなりとノリつっこみをした。
「だって私たちこれから付き合うんだから必要かなあって思ってがんばってお父さんのパソコン使って調べて作ったの」
大人しいと思っていた隆明がのりつっこみをするので隣に居た恵瑠は驚いたのだが、星楽は特に驚きもせずに説明した。
「毎回こんな契約書作ってるのか?」
「えっ初めてだよだって男の子と付き合うの初めてだもん」
「えっそうなのか?」
星楽は大きく一回頷く。
「そうなのか?」
隆晃は隣に座る恵瑠に同じ質問をした。
「そうよ。小学校の頃から友達だけど星楽は男の子と付き合うのは初めてよ」
ため息つく恵瑠の顔を見て、だから何であんたみたいな冴えない男なのか不思議よねという不満が見えた。
「あのさあ俺も初めて告白されて、今まで彼女とか居なかったからあんまりよくわかんないんだけどさ」
白いテーブルの上に置かれた契約書を見ながら隆晃はもう一度顔を上げて星楽の方を向く。
「付き合うからって契約書いるのか?」
「必ず必要なものじゃないけどあった方がいいかなあって思ったんだけど・・・・・・」
恥ずかしいのか胸の前で指をあわせながら星楽は身体を少し後ろに倒した。
「どうして契約書が必要になるんだよ?」
「だって「付き合う」てっずっとお互いのことを考えてないといけないんでしょ?」
「うん、まあそういうものか?」
「なんで納得いかないのよ」
恵瑠が呆れて顔を傾げる。
「いや、まあ付き合う相手の事を大事にするってのはわかるけど・・・・・・」
「なに照れてんのよ」
恵瑠の指摘に隆晃はいらつきながらもこらえて両膝に手を当てて踏ん張った。
「この契約書に書かれてる事ってつきあってる間にやらなきゃいけないことが書いてあるのか?」
「うん、毎日連絡することとか、学校休みの日は必ずお互いの予定がなかったら一緒にデートするとかがつきあってるの最低ラインかなあって」
説明しながら星楽はまた前のめりになって、契約書のページを開いた。
「ここの第十条(実施内容)の所に書いてあるんだけどね、やっぱり今日何してた?とかお互いの近況報告をするのが付き合って行く上で不信感とか出さない方法だと思うんだ」
「細かいな」
「最初は朝と昼と夜の連絡を書かさないとか、交換日記するとか色々考えたんだけど、私あんまり文章書くの苦手だし、やっぱり寝る前とかの一回ぐらいがちょうど良いかなあって」
「毎日連絡なんてめんどくさくないか?」
「そう?」
「だって学校で会うんだろ?」
「でも席遠いいよ、じゃあお昼一緒に食べる?」
「俺は昼は寝たいんだよね、誰かと一緒に毎回飯食うのも面倒くさいっていうか」
いつも女子がたくさん集まって昼を楽しそうに食べてるのを見てめんどくさそうだなあと隆晃は思っていた。
「よかった、学校のお昼は一緒に食べるっていう項目も入れようと思ったけど、隆晃君苦手そうだったから下の努力目標の項目に入れておいたんだよ」
「それは助かったって何が助かるんだよ!」
隆晃はめんどくさくない自分に有利な条件で一瞬助かったと思ったのだが、完全に星楽の術中にはまってると我に返った。
「なんで合うからって昼一緒に食べるとかそういう細かいこと決めてかなきゃいけないんだよ?」
「えっお昼食べないの?」
「昼は食べるよ」
「こんな可愛い彼女と一緒にお昼食べないってどういう事なの?」
「だって女子と昼食べてたらなんかクラスで目立つっていうか・・・・・・」
隆晃はそこまで言ったあと、目の前に座る星楽の方を見た。
目の前の美少女はどこにいても目立つ、その彼氏となれば自分も衆目に晒されることに今更気がついた。
「なにめんどくさいって顔してるのよ、あんたは誰もが羨む権利を手に入れておいて、それを面倒だと思えるなんて傲慢にも程があるわね」
「おれは別に嫌だって言ってるわけじゃなくて・・・・・・」
「メグちゃんそんなに隆晃くんをいじめないで」
「私が悪いんじゃなくてコイツが悪いんでしょ?」
ソファーに深く腰掛けてた恵瑠も身体を前に倒す。
「隆晃くんはいつもクラスで誰とも話さなくても、ぼーっとできるんだよ。だから周りに声かけられたり、誘ったりとか凄く苦手だから私もそういう社交性は期待してないから良いの」
「そうは言うけど、私たちの近くに立つんならもう少し身なりに気を使ってもらいたいわ」
隆晃の髪もボサボサで肌も艶がなくて吹き出ものすら見える顔を恵瑠は不満げに見る。
「あのさあ、俺が身なりに気を使ってないのはそりゃあ悪いと思うよ、よく姉ちゃん達にも怒られるし」
「貴方は二人お姉さんが居るのよね?」
「なんで神蔵が知ってるんだ?」
三人兄弟で一番下の弟だという話は始まったばかりの学校でも誰にも言っていない気がした。
「調べたのよあんたの家の事」
「なんで?」
「星楽が貴方に興味持ったから」
家族構成ぐらい調べるでしょうという顔をする恵瑠を見て、こいつもやべえ奴だったのかと隆晃はあたまを抱えた。
「お前等もしかしてずっとそうなの?」
「なにが?」
「いや、付き合うとかそういう事を契約書つくったり家族構成調べたりなんか大人っぽいやり方でやるの?」
隆晃は頭を抱えながら緑のソファーに腰を下ろした。
「別にあんたの家族構成なんて、同じ中学校出身の子に聞けば良いだけでしょ?興信所で調べることではないわ」
「その前に本人に聞けよ!」
「聞こうと思う前に星楽が告白してたのよ」
恵瑠はこの日一番深いため息をした。
「隆晃くんごめんなさい」
大きな瞳を潤ませて星楽は隆晃の方を見る。
「なんか話が急でおどろかせちゃったよね」
「いや別に」
驚くよりも困惑の方が先に来ている現状をどう説明すればいいのかわからなかったので、隆晃は言葉に詰まった。
「私ね高校生になってずっと楽しい高校生活を過ごすのにどうしたら良いかなあって考えていたんだけど、クラスのみんなも色々な事を考えて私に声かけてくれたり一緒に部活やろうとか友達になってとか、付き合ってくれとか言ってくる子が多くて毎日どうしたら良いんだろうなあって考えていたんだけど・・・・・・」
そういえば昼だけじゃなくていつも星楽の周りには人混みが絶えることはなかった。近くにはいつも恵瑠も居て、なんだかキラキラした集団だなあと勝手に隆晃は思っていた。
だがその中心に居る星楽はなにか居心地の悪さを感じていた。
「たくさんの人の話を聞いてるとなんだかよくわからなくなって、これがずっと続くのかなあと思ってたんだけど、そしたらクラスで一人だけ私に興味のない人が居るなあって気がついたの」
「俺の事か?」
星楽は小さく頷いた。
「うん、隆晃くんは私の事本当に興味がないんだろうなあって、私のこと絶対見てなかった」
「別に興味がなかったわけじゃないけどな」
星楽の周りにはいつも人が居て、たくさんの人間が集まっていたのでそこに自分から進んで関わるという気が起こらなかっただけだ。
「隆晃くんが私に興味が無いっていうことに気がついたら、なんだか急に気になっちゃって、それから時々授業中とか後ろ振り返って隆明君の事を見たり、休み時間に集まった人の肩越しに覗いてみたりしたんだけど、全然こっち気がつかないなあって」
「俺のこと見てたの?」
「気がつかなかったの?」
恵瑠に言われて隆晃は首を横に振った、隆晃は全く気がつかなかった。
「それでね、クラスで唯一私に興味が無かった隆晃くんとだったらきっと私が過ごしたかった高校生活が送れると思ったの!」
テーブルに両手をついて星楽は前のめりになった。
「私ね、中学の時も周りにいつも人が居て、殆ど集団で動く事が多くて誰かと一緒に楽しいこといっぱいするのに憧れてたの、だから高校生活は誰かと一緒になりたかったんだ。だから隆晃くんの事を考えてたらなんか凄く合うなあって思ってね、それで告白したの」
照れているのか星楽は指先を絡めながら話を始める。
「だから隆晃くんが男の子と付き合うのが初めてなの、それで付き合ったらやりたいことがいっぱいあるけどちゃんとするのに自信がなくて、どうするのが良いのかお父さんに相談したら「誰かと何かを始めるときは目的を明確にして、文章にまとめて契約書を作って取り交わすのが良い」って言われたの!」
握り拳を作って星楽は力説する。
「星楽のお父さんIT企業のCEOやってる人なのよ」
恵瑠が隆晃に耳打ちする。
「それでお父さんにパソコン借りて文章でやりたいことまとめていって作ったのがこの契約書なんだけど、なんかちょっと暴走しすぎちゃったかも」
柔らかい髪に触れながら照れると、星楽はもう一度上目遣いで隆晃の方を見る。
「もっと細かい事を決めても良かったんだけど、たぶん隆晃くんはめんどくさいかも知れないけど、細かいことはあとで覚え書きで結び直せばいいってお父さんも言ってたから、とりあえずこの契約書にサインしてもらって、これから時間かけて決めていければきっとお互い納得できる素敵な青春を、高校生活が送れると思うの! どうかな?」
「あーこれって高校三年間の契約書なんだ・・・・・・」
隆晃は契約書で大事な契約期間のところを読んで無かった。
「うん、とりあえずまずは高校三年間を楽しみたいと思って、その先の大学四年間も同じ大学に行ったら結べるけど、私あまり頭良くないから自信ないんだけど・・・・・・」
顔を赤くして星楽は柔らかそうな身体を捻って下を向く。
「その先の契約書はほら婚姻届って書類になるかもしれないから・・・・・・」
星楽は両手で顔を隠した。
「私何言ってるんだろ、ちょっとお手洗い行ってくるね」
一通り言いたいことを言ったからなのか、恥ずかしくなったのと併せて星楽は席を立った。
「今の筑紫野の話ってマジなんだよな?」
「貴方に星楽が嘘ついても何もメリット無いでしょ?」
恵瑠は疲れ切ったようにソファーに身を預けていた。
「神蔵は幼なじみなんだろ?」
「小学生から一緒なだけ」
「なんでああいう風にしちゃったんだよ」
「いいじゃない星楽は可愛いから、静かに一人で居たくても周りが放っておかないのよ。だからいつも気を張って疲れちゃうのよ」
目の前の誰も座っていないソファーを見ながら恵瑠は寂しそうな顔をする。
「だからもう星楽は誰かと誰かの間にたって、取った取られたの恋愛ゲームに参加したくないのよ。彼氏が居れば変なちょっかい出す男女からも減るでしょ? 楽しいと決めたことを淡々とこなしていく、そんな高校生活がしたいのよきっと」
「そんなのただ決めたスケジュールをこなしていくだけで楽しいのか?」
「言ったでしょゲームはもうしたくないって、そういうのは中学校で散々巻き込まれてきたし、それで嫌な思いもしたし相手にもさせてきたのよ」
足を組み直して恵瑠は隆晃の方を見る。
「持ってない貴方には分からないけど、可愛い星楽には星楽にしかわからない悩みがあるのよ」
「だからって紙にまとめてもなあ、これって法的な拘束力あるのか?」
「詳しくは知らないけど無いでしょ? 私たち未成年に何か賠償を払う能力があるわけじゃないし、それに人を契約で縛る、たとえば奴隷になってくれとかそういうのは民法の強行規定に反するから無効なのよ」
「なんで神蔵はそんなに契約書に詳しいんだ?」
「昔ね奴隷契約が結べるかについて調べたことあるの」
恵瑠は今日初めて隆晃に笑顔を向けた。やっぱりコイツは星楽の親友なんだなあと隆晃は感心した。
「あれなんか楽しそうだね二人とも」
戻ってきた星楽が声を掛ける。
「別に楽しくなんかないわ」
恵瑠は背筋を伸ばして反論する。
「そうだメグちゃんも私と契約結ぶ?」
「そうねそれもおもしろいかもね」
「友達契約になるのかな?」
「朝、迎えに行って準備ができてなかったら罰金項目をもうけるのは?」
「えーそしたら私お小遣いすぐなくなっちゃうよ」
楽しそうに会話している星楽と恵瑠を見て、隆晃はなんだか自分だけがこの流れに置いて行かれてる気がした。
まだ契約書なんて書いたこともサインしたこともない。スマホの契約も親名義だし、お店の会員証の申し込み書にサインするぐらいだから、文章に書いてある事を守る義務もよくわからない。
でも世の中、口約束だけじゃなくて文章に書いてお互いそれを守るように努力してるのはわかる。
「だからってこれから起こるかも知れないことを文章に書いてこなしていくってのもなあ」
「なにあんたまだ納得してないの?」
「わかってるよ。俺にとっては筑紫野っていう可愛い子と付き合う事ができる千載一遇のチャンスだって事はさ」
両手を組んで隆晃は納得しようとしているようだった。
「この契約書に書いてあるように毎日連絡して、デートして、夏休み、冬休み遊んで、一緒に勉強したりするのはたぶん楽しいことなんだろうとは思う」
「きっと楽しいよ!」
星楽は笑顔を浮かべた。
「でもさ、もしもこの三年間で筑紫野が他の奴を好きになったらどうするんだ?俺は契約違反だって言うのか?」
「そこはたぶん大丈夫だよ。私は他の人を契約結んだら好きにならないから」
「なんでそんなに自信あるんだよ」
「だって学校中の男の子で私に一番興味がないのは隆晃くんって確信があるから。私と付き合うのが一番バランスが良い」
星楽は胸を張り、自信を持って答えた。
「筑紫野が他の学校のヤツを好きになる可能性は?」
「他の学校の子と付き合ってもお昼休みとか会えないしおもしろくないからたぶんやらないよ」
星楽の答えは選択肢がある人間の強みなのか、冷静に損得勘定で考えているので回答にブレが無い。
「じゃあ俺が他の人を好きになったら?」
「えっ私より可愛い子が居るの?」
「いや、可愛いだけじゃなくてなんか別の所に惹かれるかも知れないだろ?」
「外見意外で惹かれるところって?」
「ほら趣味が合うとか・・・・・・」
「隆晃くん趣味あるの?」
「特には無い」
「じゃあ可愛い私でいいと思わない?」
星楽は胸を張ってアピールした。
「もう諦めたらいいじゃない?」
めんどくさそうに隣の恵瑠が声を上げる。
「でもなあなんか契約を結ぶってのはなあ」
「怖いの?」
「筑紫野は怖くないのか?」
「私はほっとしてる。かな?」
寂しそうに星楽は微笑んだので、隆晃は居心地が悪くなった。
「もうじれったいわね、さっさとここにサインしなさいよ!」
「やっぱり契約の強要じゃねえか!」
「あんだが男らしく一発サインしないのが悪いんでしょ?」
「プロ野球選手の契約更新じゃねえんだぞ。それに俺だけじゃなくて筑紫野の高校生活にだって本当にこれが必要かどうかって事も考えると、簡単にサインして良いのか俺は疑問だって思う!」
「私に?」
「筑紫野が色々考えてこの文章を書いてきたのはわかったから、なおのことじゃあ俺も考えなくて良いのかって思ったらなんか違うとおもうんだよ」
隆晃の発言に星楽は少し驚き、恵瑠は意外と考えてるのかと感心した表情を浮かべた。
「まあ未だに契約書に書くって発想はよくわかんねえけど、ようするに無駄な事をしたくないってことなんだろ?」
隆晃は契約書の上に手を置く。
「楽しい青春時代を過ごしたいって気持ちは分かるけど、最初っから何が「楽しい」ってやつを決めて、その通りにしていって本当にそれが楽しいのか?」
「隆晃くんは可愛い私と居て楽しくないと思うの?」
「筑紫野を見ていてそりゃあ可愛いとおもうけど、見てたり一緒にいるだけよりもこいうわけわかんない事を聞いてる方が楽しい気がするけどな」
「私の事可愛いと思うの?」
「えっいやそりゃあまあ誰だって・・・・・・」
星楽は黙って隆晃を真っ直ぐ見つめる。
その瞳を見ながら隆晃は星楽の目からは何か溢れているような気がした。
「確かに筑紫野には選ぶ権利があって、高校三年間をこうしたいって決める力が有るんだろうけど、俺が付き合っていく中で約束を破ったところで筑紫野から怒られるだけだったら意味がないんじゃないか?だからコレはたぶん言葉にしないとこれからが不安なだけなんだろ? だったら契約書なんて形にするんじゃなくて、ただこうしたいああしたいって言ってくれればいいんじゃないか?」
「逃げたわね」
「そう思うならそうなんだろうけどな!」
恵瑠の指摘に隆晃は契約書から手を引いてソファーに身体を沈めた。
「俺は約束をしてそれを守る事は大事だと思うけど、そればっかり気にして高校三年間とか過ごすのは嫌だ。たとえ誰もが憧れる可愛い彼女と過ごせたとしてもやっぱりめんどくさい」
「がんばって作ったんだけどな」
寂しそうに星楽が自分が作った契約書をつまみ上げる。
「いや、その、この契約書はよくできてるとは思うけど」
慌てて隆晃は釈明する。
「書きながら楽しかった」
これからやりたいことを契約書にまとめている作業は可愛らしいような恐ろしいような気がした。
「筑紫野が付き合ってやりたいことはだいたいわかったから。これからなるべく出来るように努力する」
「約束してくれるの?」
「ああ、約束はするけど契約はしない」
「うん、わかった」
星楽と隆晃はお互い真っ直ぐ向き合う。
「ありがとう隆晃くん」
星楽の笑顔を見て何かいけないことをしている感覚に陥ったのは罪悪感からなのだろか?
それとも守れない約束をしてしまった後悔だろうか?
「でもせっかくがんばって契約書作ったから、これをつきあいながら直していけば凄く良い契約書になるんじゃない?」
「諦めてないのかよ」
しょうがないなあと隆晃は笑いながら首を傾げる。
「ごめんなさい、やっぱり不安かも」
「まあ、筑紫野みたいな自信ありそうな奴がそんな不安がるのも不思議な気がするけど」
「私だって不安になるよ。誰かとつきあった事なんて無いから、だから不安なのかな?」
「それは俺もだよ」
「そうなんだ一緒だね」
はにかみながら笑う星楽を見ると、本当にこんなにも可愛らしい子が自分に好意を抱いてくれる事に驚く。
「ずいぶんとこの場に相応しくない甘い雰囲気ね」
黙っていた恵瑠が口を開く。
余計なこと言うなと隆晃は睨む。
「星楽、今は契約書必要じゃないかも知れないけどそのうち必要になるかもよ?」
「そうかな?」
「そうよ。こういうサインする勇気が無い奴はいずれ貴方を傷つけるかも」
「でも二人で納得しないと契約書は結べないよ」
「だから納得するまではこれを結んでおけば良いのよ」
そう言うと恵瑠は自分の鞄の中からクリアケースを取り出して、白いテーブルの上にA4サイズ一枚の書類を置く。
「なんだこれ?」
隆晃が書類をのぞき込むとたちとにタイトルには「秘密保持契約書」と書かれていた。
「契約書を結ぶ前にまずその中身を検討する上で、お互いの秘密を共有して他の人にはその内容を他の人に教えませんっていう内容よ」
「ああNDAって書類だよね、お父さんもNDAは最初に結ぶって言ってた」
星楽は楽しそうに恵瑠の持ってきた書類をのぞき込んだ。
「なんでこんなもの持ってるの?」
「昔必要だったから作っていつも持ってるのよ」
隆晃はますます恵瑠の過去が気になった。
「とりあえず星楽と中神立はコレを結んだら?」
「なんでこんなもん必要なんだよ?」
「あんたに星楽が付き合う人に契約書を締結しようとするヤバイ女の子だって周りに言いふらさないでっていう契約よ」
「するかそんなこと!」
「約束はしてくれるのは嬉しいけど、これくらいの契約書だったらビビらないでサインできるでしょ、ヘタレ」
恵瑠の挑発的な視線に絶えきれず、隆晃は大きなため息をついてテーブルの上にある書類を見た。
「わかったよサインするよ。どこに書けば良いんだよ」
「ここの下線引いてある所に名前書いて、一番下の署名欄に住所と名前ね」
恵瑠は指で契約書のサインの場所を隆晃に指示す。
「ねえメグちゃん、これって一枚だけあるの?」
「二部作ってお互いが原本保持だからもう一枚あるわよ」
「そしたら私コピー取ってくるから三人で秘密保持契約結ぼうよ!」
「星楽と私?」
「あとメグちゃんと隆晃くんとも」
「そこまでするの?」
「だって今居る三人で契約の話をしてるんだから、お互いが秘密保持契約を結んだ方が良いんじゃない?」
とても良い思いつきをしたと星楽は手を合わせて喜ぶ。
「私すぐに近くのコンビニでコピーとって来るね」
そういうとまだ名前が書かれていない一枚ぺらの秘密保持契約書を持って星楽はお店の外に出て行ってしまった。
「行っちゃたわ」
「結局契約書にサインする事になるのか・・・・・・」
「秘密保持くらい良いじゃない」
「やっぱりなんか文字に残るのは怖いけどな」
「そうかもね」
そういうと恵瑠は自分の鞄からペンを取りだして、名前と署名欄に自分の名を書き込んだ。
「先に貴方と私の契約書結びましょ」
渋々と隆晃は自分の名前を書いてサインをした。
「こんな書き方で良いのか?」
「ありがとう」
秘密保持契約書を持ち上げて恵瑠は口元を隠した。
「これで秘密は他言無用ね。貴方が教室で星楽じゃなくてたまに私の方を見ていたのは黙ってる」
「知ってたのかよ」
「知らない方が良かった?」
二人が沈黙するとルノアールの店員が見計らったようにお茶を三つ持ってきた。
白いテーブルに置かれた茶色い湯呑みを見て、隆晃は本当にお茶が欲しいタイミングでお茶が出てくるんだと感心した。
湯飲みを持ってひとくち飲むと、とても熱いお茶だった。
「ルノアール良いところだな」
現実逃避なのか素直な感想なのか隆晃の言葉の意味が分からなかったので、恵瑠は何も答えなかった。


END



あとがき


「さわださんのルノアール感古いですよね?」

そんな感想を頂いて、えっルノアールってなんか緑っぽい色多くて、まわりで「これからはSNSが流行るんだよ、一緒に儲けよう」(実話)とか、大丈夫かなって心配になりそうな話をしてる人がいたりする、ちょっとガチ勢が多い印象の場所だったのですが最近は違うのかなあと。

話的には自分でも気にっていて「法務に詳しい知人」に相談しながら、

強行規定に違反しないこと
自己に有利な契約書を作成する必要があると言いましたが、自己に有利であれば、どのような内容であってもよい、というわけではありません。
法律には、当事者の合意によって排除できる規定である「任意規定」と当事者の合意によっても排除できない規定である「強行規定」の二種類があります。
強行規定に反する契約をしても無効となります。
例えば、「相手方に奴隷となることを約束させる」旨の契約は、強行規定である民法90条「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。」に反するため、無効となります。

など、書いてあればなんでも良いということでは無いとか、その辺の話を聞いてるとちょっと契約書に興味が湧いてきて、僕の不器用だけど一生懸命な製本テープを貼った、仕事で見る契約書にも少し愛着が湧くようになりました。

そして1万三千字ほど書いてからクラウドサインとかドキュサインかAdobe Signとかの電子契約押印にしておけば今っぽかったのかなあとか思いました。


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