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さわだコミティア20年反省文「10万字の壁のあとさき」

かれこれコミティアに出るようになって20年ですが小説・・・のようなものを書いていますが、未だに自分の作品を冷静になって読み直すということが自分にはできなくて、これは「反省」しなければいけないと思って書き始めたのがこの文章です。

本題に戻りますが他の人はどうか分からないけど、僕は自分の作品があまり好きではない、というか嫌いだ。

嫌いというのは本当に感情的な部分の事で、例えるならば「野菜が嫌い」と言いながら、温野菜だったら食べるとか、そういう食わず嫌いというよりは「まあ進んで選択しない」という範囲のそれ程ハッキリとした潔癖ではない「好き・嫌い」の話だ(因みに自分はポテトサラダからキュウリを抜いていて友達に怒られた事があります)。

そんな過去を振り返らない焼き畑農業のような創作活動を続けているが、ふとたまたまみていたPixivにコメントがついたと通知が来ていた。

火道を渡りて宙を視る | sawada04 #pixiv

読了したという短いコメントだったのだが、こんな何年も前に書いた素人の小説を読んでいただいて凄く頭が下がる思いだった。
そしてどんな話だったっけなあと自分もすっかり内容は忘れていたので読み直してみた。

「あれ、意外と面白いなあ」

今ではめんどくさくてすっかり書かなくなったファンタジー小説で、何かと若いヤングにバカうけのソ連邦をモチーフにした「筆記長」という独裁者が支配する国家で行われた宇宙開発にて、事故でコントロールを失った若い宇宙飛行士が、海のない大陸中央の草原地帯、そこには地中から噴き出すガスをコントロールして草原での道を失わないように灯台を立てていて「火道」と呼ばれる道を旅する遊牧民達が暮らす世界で、降り立った宇宙飛行士はそこで親を無くて一人で旅する遊牧民の少女と出会う、一緒に旅する内に惹かれ合う二人、だが宇宙飛行士を追いかけて来た政治将校達に見つかって引き裂かれる二人の運命は・・・・・・という話なんですが、10年近く前に考えた話にしては中央アジアのガスが豊かで経済的な利益追求と伝統的な遊牧生活、新しい世界への挑戦としての宇宙開発、その反対である封建的な支配制度を分かりやすく対比として並べてる辺り若いなあ自分!

とか思ったりもしましたが、自分で言うのもなんですが誤字がありながらも頑張って書いてるなあ背伸びして書いてるなあ感が伝わってきて、読んでて意外と面白かった。

久しぶりに、10年近く前の過去作を読み、こういう風に時間を置いて読むのも悪くは無いかと思って、色々と自分の作品を見ていると、ひとつの作品が自分の中では顔を背けたくなるというか、地面に額を擦り付けて土下座したくなるような作品があったのを思い出した。

『宇宙おきらく所沢』

ふざけたタイトルであるが、これは友達の大沖さんが当時所沢にあった駅前の書店に飾ってあった色紙に「宇宙、地球、所沢」と書いてあったところからパクったタイトルで、内容は宇宙開闢の軌跡と匹敵する確率で生まれた重力と時空を操る謎の超宇宙生命体が女の子になって、大学受験に失敗した男の子の部屋に現れて、他の女の子(隣の美人のお姉さん、妹などテンプレ通り)にも絡まれながら、イチャイチャしながらグズグズするという自分が好きな要素を詰め込んだ話。

当時はまってた宇宙物理学(よく見てたのはNHKの番組神の数式とかだったかな? 重力波の検出とか始める頃の時代だった)を交えつつ、地元でフットサル(これも当時はまっていた、今でもやるけど最近は益々動けなくなって選手生命が危ぶまれている)やるとか宇宙開闢のマクロな話と女の子の前でカッコつけたいミクロの話を混ぜ込みやってみようと思った話だった。
リンクを貼った最終版には当時忙しいのを承知で友達に頼んで愚鈍にも対したお返しもせずにいるのに、超素晴らしい自分の作品には分不相応にも(そんな概念あるのかなあ、個人の感想です)素敵なキャラクターイラストを描いて頂いてこれだけでも価値があるというか、この絵だけ見れて満足だなあと言う気持ちになりながら、何度みても自分の作品かと疑ってしまうくらい素敵な本の形になった、他にも校正してくれた数名の方には感謝しかない。
自分が好きなものをたくさん詰め込んで、その上で「本」としてしっかりと完成させれば、今まで漫然とやってきた事も何か新しいことに繋がるんじゃないか?

当時はそんな事を思ってたのか、ただ何となく何とかしなくちゃと悪あがきをしていた気がする、自分はこの作品、自分が書いたこの小説を前にするとどうしても頭が重くなってしまう。

詳細はまあ読んでいただければ分かると思うが(ダイレクトマーケティング)、読んだ人も、自分も「もうちょっと面白くなったんじゃないかな?」という感想が浮かんでくるのでは無いだろうか? あるいは「何がしたかったの?」というところだろうか?

自分が少し、ほんの少し後悔してるのはこの小説はだいだい8万字ぐらいで、一般的な長編コンクールでの基準である***10万字、***400字の原稿用紙で250枚ぐらいに2万字ぐらい届かなった。

当時の自分としては精一杯お話として完結させようとしてエピソードを繋いで書いたのでこれ以上何か書くのは蛇足というか出来ない気がした。
でも書き終わった後で、あと2万字書けばこの「もう少し」の部分をしっかりとした構造で物語を支えて、読んだ人におっと思わせる部分が出たのかも知れない。

でも僕はその作業をやらなかった、色々言い訳は思いつくけど結局は逃げただけだった。

あれから10年近く逃げ続けても、まだあの時の後悔というよりも自分のだらしなさが嫌で目を背けている。

なんて意思の弱い人間なのだろう、本当に嫌になる。

それでも恥ずかしくもなくこうやって文章を書き、まだコミティアで毎回自分の作品を発表し続けてる僕はずっと「作品を完成させる」という壁を見上げて、色々とぶつくさいってるだけなのだ。

「宇宙おきらく所沢」は書いた時の所沢の風景をたくさん書いた。
舞台の一部になったフットサル場は再開発でなくなり、大きなショッピングモールが建つ、その横には当時はなかった億ションが建っている。
タイトルの由来になった大沖さんの色紙が置いてあった本屋はとっくに無くなっている。

変わってしまったものと変わらない自分を対比してどうすると、そこに関係性があるように見せるのは如何なものかという気もするのですが、なんとなく昔の自分の作品を見直して、ふと考えたことをメモに残すというのはどうかなあと思って書いてみました。

書いておいて、あれどっかでこんな事書いたような気がするけど、初めて自分の作品に言及したような気もするので、まあ特別な意味は全く無いんだけど書いて置いておこうと思います。

これがまた10年後蘇ってくるのかは自分次第。

10年やっても見つからず、10年かかったけど達成できてない。

でも10年、20年続けたから自分に残ってる有り難い経験がある。

他人に迷惑を掛けて得た自分のエゴが確かにある。
開き直りじゃなくて、奪うこと以外で人が何かを得ることなんてないのだと思うのだ。

ここからまた新しい10年が始まったとして、

生きてるのかなあ?

まだコミティア出てるのかなあ?

フットサルやってるのかな?

全部できてたらそりゃあまあ凄い。

そんな気がしましたが皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

END


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