秋の夜に
夏の暑さにうんざりして早く秋にならないかしらと思っていたのに、急に寒くなってきたことが心細い。
その上雨の日は全部がおしまいの気持ちになる。
夜中に目が覚めて、かつて恋人だった男のことを思い出すなんて馬鹿みたいだ。
どうしようもなく世間知らずだけど愛情をたくさん受けて育ってきた、快活な 声の大きな男だった。
熊のような大きな身体でわたしを抱きしめるといつも安っぽい柔軟剤の香りがした。
君は他の誰にも似ていない とわたしのことを褒め、賢くて可愛らしいと甘やかしてくれた。
よく2人で食事へ行った。
寿司屋のカウンターではいつもより饒舌になり 誇らしげにしていたのが可愛かった。
静かな鉄板焼きの店でメニューを読むのが面倒になり、店員に「1番いいやつ」を恥ずかしげもなく大声で頼むような粗雑な男。
良いスーツと良い靴を履きブランド物の財布を身につけて武装していたが、私服のセンスが絶望的にない男だった。
自分はポジティブなので、なにかに悩んできたことが無いといつも語っていて自信過剰だったが、ふと毎日よく頑張っているね と抱きしめて頭を撫でてあげると 誰かに頑張っているねと認めてもらったのは初めてだと泣いていた。
こんな男の前でわたしが泣けるはずがない。
車で家の前まで送ってもらい、口付けをして またねと別れるお決まりのルーティン。車が去るといつも魔法が解けたようにシャンとした気持ちになった。
奥さんとの間に2人の子供がいる男だった。
粗雑で粗暴で自分勝手で目の前の女をモノにするまで全身全霊でぶつかってくるようなところに惹かれた。
頭の良い男としか話したくないがその中に軽蔑する要素を持っている人としか付き合わないように注意を払っていたのでとても「ちょうどいい」関係だった。
軽蔑する要素を一つ持っていてくれれば、可哀想にという気持ちでその時だけは思い切り愛してあげられる。
慈悲深い気持ちになることが重要なのだ。
彼に会う時は気を抜かずなるべく綺麗な女でいられるようにしていた。良い服を着て、良い靴を履いて、良い匂いで自分の中で精一杯の可愛い女で会うようにしていた。
美しい物はいつだって刹那だから。
依存と愛は似ているようで全く別物だってこと、わたしもこの歳になればわかっている。
彼にとって、わたしは例えるなら旅先で買った置物だ。
旅の高揚で「良いかも」などと思って買ってみたものの、家へ帰るとなぜこんな物を?部屋の雰囲気とも合わないな…となり、部屋にそれがあるのが段々気味悪く 疎ましく思えてきて、見えないところに仕舞い込まれる。
普段は忘れられているが思いもよらない時に手に取られ、気まぐれに少しの間飾られたかと思えば呆気なく捨てられたりする。
愛ってどういう事だろう。
長年一緒に暮らしていて、ちゃんと子供がいる夫婦にも愛なんてとっくにないよと彼はうっすら笑う。
今いる場所に甘んじている事 。変化が面倒臭くなってしまった事に対しての諦め 。世間体 。
それでも一緒にいることを選ぶのは紛れもない愛なのではとわたしは思ってしまう。
側で幸せを祈る事 。何があっても受け入れたいと思う事 。もし離れ離れになっても一生時々思い出してしまうだろうなってこと。
そんな悲しい愛があるなら、いっそわたしをさらって逃げて欲しいなんて馬鹿みたいなことが頭をよぎる。
そんな無茶な願望も覚悟も本当のところは全然無いのに。
愛なんて無いよと言った彼の清潔なシャツからは安っぽい柔軟剤の香りがする。
わざわざ指輪を外してわたしに会うのは彼の良心だったのだろうか。
かつて愛した女が彼を思い選んだであろうきちんとアイロンのかけられた上等のハンカチでわたしの涙を拭こうとしないで欲しい。
ますます眠れなくて何も考えたくなくなって起き上がり、焼き菓子を焼く。
しんと澄んだ真夜中の空気の中で集中していると、何もかもを忘れていられるが 結局焼き上がりを待つ薄暗いキッチンで、男とのどうでもいい思い出が幾つも浮かぶ。
いつか、眠る前に私のことを思い出してほんの少しだけ切なくなればいいのに。
わたしのことをさらって知らない街へ逃げることをちょっとだけ想像して、そんな馬鹿げた夢を一瞬だけ見てくれたらいいのに。
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