【史跡巡りレポート】板碑の功徳とは…⁉〔徳蔵寺 板碑保存館〕
2020年12月27日(日)に「南北朝時代を楽しむ会」主催の史跡巡り【東村山に眠る動乱と南北朝】に参加したレポートです。(https://enjoy-nanboku.jimdosite.com/)
〔以下の本文は、2020年12月28日にSNSのグループに投稿した記事です。〕
徳蔵寺の板碑保存館にて、板碑を用水路などの橋にしてしまっていた写真があり、『太平記』でも新田軍にいた怪力の者たちが、大卒塔婆を引き抜いて橋にした話があるということを何人かにお話したりしたのですが、巻第十五の「三井寺合戦の事」にありました。
残念ながら、板碑(石の卒塔婆)ではなく「面(=幅)三尺」「長さ五、六丈」の大木の卒塔婆でしたが、すでに南北朝時代に卒塔婆を橋利用していたという豆知識でご容赦ください。
本文では、脇屋義助が城の堀の橋が引き上げられて渡れない状態であったのに対して〝この程度のことはどうにかならないのか〟と言ってあおったところ、栗生(くりう)・篠塚という2人が近くの塚の上に立っていたバカでかい卒塔婆を見つけて、「これこそ究竟(くっきょう)の橋板はありけれ。卒塔婆を立つるも橋を渡すも功徳は同じ事なるべし。いざや、これを取つて渡さん」と言うが早いが、難なく引き抜いて橋にしたと語られています。
上の写真はあわれ、橋に利用された板碑の写真です。南無阿弥陀仏。
おそらく、栗生・篠塚が引き抜いたのは、善光寺御開帳で登場する「前立本尊」くらいの卒塔婆だったのでは……?と推測。(写真は善光寺の公式HPからです)。
全集(小学館の新編日本古典文学全集)の挿絵の卒塔婆のサイズ感は違う気が……。挿絵はおそらく近世のものですよね。
先に引用した栗生・篠塚のセリフの中に「橋を渡すも功徳」とあるのですが、全集の注によると「架橋は民衆に利便をもたらし、悟りの功徳を得る因になる善行である、という福田(善行の種をまいて功徳の収穫を得る田地)思想に基づく考え。」とあるので、板碑を用水路などの橋として利用したのも、民衆にとっては功徳という見方もできますね。毎日何回も、阿弥陀仏と縁が生じます。ありがたや。
史跡巡り【東村山に眠る動乱と南北朝】で、この他に訪れた場所はこちらをご覧ください。
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