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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(102)鎌倉での穏やかな時を破る、足利家時の「謎の自害」と出陣前夜の「大風1335」

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年3月25日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 『逃げ上手の若君』アニメ化決定! これまで何度も述べていますが、私は北条氏が大好きなので、去年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が終了してしまい〝またしても北条氏は忘れ去られるのか…〟と落胆しました。しかし、終了から3か月が経たない間にこの朗報がもたらされました。松井先生が時行や頼重や数々のキャラクターに託したメッセージ、そして、北条氏と諏訪氏の絆がもっとたくさんの人に届けられることを願っています。
 ちなみに、皆さんはキャラクターの人気投票はされていますか。一日一回投票できます(4月10日まで)。ラインナップを見て、時行が名乗りを上げた際に登場(?)した北条四郎時政、義時、泰時、時宗を発見した時は噴き出してしまいました。得宗殿まで「キャラクター」にしてしまう集英社って…とか思いながら、すでに時宗に投票しました(笑)。

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 さて、本編ですが、鎌倉観光案内をしながら、〝うわ、やられたっ…〟と思った大きな展開が二つばかりあったのでそれらについて触れてみたいと思います。

鎌倉大仏殿
 もはや四十年以上経った自身の小学校の時の遠足で、鶴岡八幡宮と鎌倉大仏を訪れた記憶が残っています。今でも変わらず鎌倉屈指の観光名所ですが、鎌倉時代からあった、さらには奈良の大仏様のように大仏殿が存在したというのに驚いた覚えもあります。
 そして、今回の第102話の最後でまた登場しますが、中先代の乱の〝シンボル〟的な存在となります…。

鎌倉大仏として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。
その造立が開始されたのは1252(建長四)年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。
その後、大仏殿は台風や大津波のため倒壊し、室町時代の末までには、今の「露坐の大仏」になりました。

〔「鎌倉大仏殿高徳院」HPより〕

十王岩
 「十王岩」ですが、初めて知りました。今もこんなにたくさんの人がお参りしているとは思えませんが…。「隠れパワースポット」とあるので、やはり人気観光地ではなさそうですが、一度は訪れてみたいですね!

 鎌倉の北外周の(ママ)なぞる天園ハイキングコースのなかほど、鎌倉の街を不自然なほどまっすぐに見下ろす場所に十王岩があります。
 風化が進んでいるものの3体の仏像(如意輪観音・血盆地蔵・閻魔大王)が彫られているこの岩は、夜毎不気味な音をたてていたことから「喚き十王」とも呼ばれてました。
 一方、岩の上に登ると、この場所が鶴岡八幡宮のちょうど真裏に位置するため、鶴岡八幡宮から海まで続く若宮大路がはっきり見えるとても不思議な場所です。このことからここは鎌倉防衛の戦略的な位置だったということもわかります。

 もしかしたら防衛上重要な場所だったので、当時にこのような噂を流したのかもしれませんね。

〔「鎌倉トリップ」HPより「十王岩」〕

銭洗弁財天
 ここは県外の観光客の方にも有名なのではないでしょうか。私も何十年も前に訪れた際にキャッシュカードを洗ったのですが、その口座にはたくさんお金が貯まりました(笑)。研究者の方には、銭洗弁天のお金が増えるといった信仰は江戸時代からだと言われましたが、頼重が時行のために使ったお金は増やしてあげてほしいです…。

第5代執権北条時頼もこの神を敬い、
人々に参拝させました。
そして「銭をこの水で洗い清めれば
福銭となり、一家は栄え、
子孫は長く安らかになるであろう」と、
自ら持っていた銭を巳の日に洗って祈ると、
人々もそれにならって
銭を洗い清めるようになりました。
いつしか銭洗いの水と呼ばれるようになり、
今でもこの水でお金を洗う人が絶えません。

〔「鎌倉観光公式ガイド」HPより「銭洗弁財天宇賀福神社」〕

長谷寺・かきがら稲荷
 こちらも初めて知りました。長谷寺のことは、個人的には小町通りみたいなお寺(←解釈は読者の皆様に任せます…)と思っていましたが、境内にはこんなユニークなお稲荷様もあるのですね。

当山本尊の縁起譚に付随する伝承として、本尊が海中を漂流していた際、その御尊体にかきがら(貝)が付着し、漂う尊像を長井浦へお導きしたという話が伝えられております。その「かきがら」を珍重し、お祀りしたのがこの稲荷社であります。鐘楼脇を抜けると、信者の方々が奉納した赤い幟旗が目に付くかと思います。

〔「鎌倉 長谷寺」公式HPより「かきがら稲荷」〕

鎌倉高校前踏切(700年後)
 ここは、週刊少年ジャンプが生んだ超人気漫画『SLUM DUNK』の聖地なのですね(だから弧次郎がバスケットボールを手にしている!)。それだけではなく、数々の映画やドラマのロケ地やアニメの舞台になっているそうです。

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 さて、時行たちの訪れた順番通りでなく最後に取り上げたいのが「報国寺」です。確かにお寺の公式HPのトップページに「特筆すべきこと」の一つとして「足利家時(尊氏祖父)外 足利一族の墓」とあります。

〔「功臣山 報国寺」公式HP〕

 「我から数えて三代後の子に天下を取らせよ …そう神に願って腹を切ったと

 お寺よりも気になるのは、「足利家時」なる人物ですね。

足利家時
あしかがいえとき
生没年不詳
鎌倉時代後期の武将。頼氏の子、尊氏の祖父にあたる。母は上杉重房の女。字は太郎。式部丞、従五位下伊予守。室は六波羅探題北条時茂の女。今川了俊の『難太平記』に、足利家には遠祖八幡太郎義家の置文なるものがあり、「我七代の孫に吾生替りて天下を取べし」とあった。たまたま義家より七代の孫は家時にあたっていたが、家時は時節いまだ到来せず、「我命をつづめて三代の中にて天下をとらしめ給へ」と祈念し、事の次第を書き置いて切腹したという。高氏に伝わる遺書があったらしいが、前述の所伝は確認できない。『足利系図』は時に文保元年(一三一七)、家時三十五歳であったとするが、『倉持文書』に文永三年(一二六六)の下文があるので、符合しない。足利市鑁阿(ばんな)寺の位牌では延慶二年(一三〇九)二月二十一日没。法号報国寺殿義忠(『尊卑分脈』は義忍とする)。鎌倉報国寺裏山墓地の奥に、口伝足利家時の墓地と称する五輪塔がある。
〔国史大辞典〕

 頼重の話を聞いて「ぞっ」とする時行と弧次郎ですが、これは決して少年漫画的な設定ではなく、なんと事実だというのです。この話は有名で、家時の「謎の自害」に始まり尊氏やその後の室町幕府の将軍たちの言動を見て、かつては〝足利家には心の病があるのではないか…〟という説を唱える学者までいたというのを聞いたことがあります(もちろんこの説は、歴史上の人物に現代の心の病の判定をする検査ができるわけではないため、支持されていないということを断っておきます)。

 それに関連して、頼重は少し不思議なことも言っていますね。

 「神が弱まり人が強まるこの時代 神力は生命力に変換され人に行き渡る これ自体は時代の自然な流れです

 西洋のざっくりな話で恐縮ですが、科学技術の発展は、人類が神の叡智とした奇跡のような物事を、科学上の説明できる現象に置き換えていったからだということです。こうしたあり方が「神が弱まり人が強まる」「神力は生命力に変換され人に行き渡る」ということなのではないでしょうか。やはり週刊少年ジャンプで私が大好きだった連載漫画『Dr.STONE』の主人公・石神千空は、科学の成果は、個々に不足する能力を補い、人を平等にするというスタンスだったかと覚えています。
 キリスト教と科学の関係がわかりやすいので例としましたが、古典『太平記』では、神をも恐れぬ婆娑羅者たちの、自身の可能性を信じたふるまいが魅力的に描かれています。『太平記』には、『平家物語』などの有名な人物たちを語るのに使った表現を踏襲していると言われる部分があるとされるものの、登場人物ひとりひとりの個性、一族一族ごとの個性はやはり際立っています。

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 「若ちゃん 液状になったあんたを見せて

 ラストの見開きで黒衣の魅摩登場、…って『鬼滅の刃』の堕姫並みに衣装の露出が際どいっす(そこではないですね、すみません)。

 尊氏が鎌倉を目指し下向するとの報は、時行たちの元へも伝わった。『太平記』によると、尊氏襲来に備え、迎撃戦ではかなわないから先手を取ろうとの時行の意見によって、名越式部大夫を大将として軍の派遣を決定した。名越が八月三日の夜の鎌倉を出立しようとしたところ、大風が起こった。時季から見て台風だっと考えられる。
 ※名越式部大夫…日本古典文学全集の頭注には「伝未詳」とある。『逃げ上手の若君』では名越高邦をあてたか。

 上記は、鈴木由美氏の『中先代の乱』から引用しています。「台風」である裏付けとして、「武蔵国南部、現在の日野市にある高幡不動尊たかはたふどうそんは、中先代の乱のころには十院不動堂」と言っていたそうですが、その十院不動堂が鎌倉を襲ったのと同じと考えられる「大風で壊れた」という記録が残っていることをあげています。
 以前に私は、鈴木氏の講演会でこの話を伺っていたとはいえ、出陣前夜の「大風」と魅摩の神力を結び付けたのには正直〝やられた!〟と驚愕しきりでした。
 鈴木氏は、日本で一番時行の好きな研究者と言っても過言ではないと思いますが、その鈴木氏が〝大風は時行にとってかなりのダメージだったはず〟と述べられました。その時の講演会のタイトルは「大風1335」でした。ーー続きはまた次回にしたいと思います。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)を参照しています。〕〕

 

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