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【『逃げ上手の若君』全力応援!】㊺父代わりの頼重、年少の頼継でも、非は見逃さずにはいられない時行…忖度なし!の北条DNA

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。  鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……? 〔以下の本文は、2022年1月9日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕 


 「子供の嘘だとわかりますよねさっきの」「私の太腿がちょいちょい犠牲になってた事は?
 「…見てみぬふりをしてました

 『逃げ上手の若君』第45話、諏訪頼重と時継のダメ親っぷりに苦笑。……とはいえ、私は長く教育の現場にいたので実感があります。子どもに対して何らかの負い目のあるというか、向き合えない親御さんほど、肝心要のところでしちゃいけない選択をします。つまり、それは子どもの側からはファイナルアンサーを迫る無意識的な態度、心の叫びであることも多いのですが、子どもが真に望んではいない選択であることが少なくありません。

 しかしながら、このシリーズでも何度も書いていますが、神官であり武士であり「神」であり、かつ、北条氏の有力な御内人であった諏訪氏の特殊な状況は、現代的な家族や親子の理論を当てはめての解決ができそうにもありませんね……。
 頼重と時継の、親として救いのある点をあえて言うとすれば、頼継が時行だけには「《《本音の敵意》》を向けている」と気づき、「本音を吐ける友達になってやって下さいませ!」と、恥をしのんで(?)お願いできるという態度ではないかなと思います。

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 「かけがいのない父と祖父があれを許せば 彼は平気で人を陥れる神様になってしまうのでは?

 時行は、「居候いそうろう」である自分のことを「頼継殿に申し訳ない」としながら、親子の問題にとどまらない、諏訪氏の存在意義にもかかわる重要な問題まで指摘する、相当賢い子どもであることに気づかされます。

 北条氏は、「法」(ここでは、単なるルールや掟というだけでなく、物事や宇宙をつかさどる道理をも含んでの概念ととらえます)を重んじた一族であることは、このシリーズの第28回でも紹介しました。その時も、今回もそうなのですが、時行が顔をしかめてイライラいたりピクピクしたりするのは、おそらく大人による、この「法」に反する言動を目の当たりにした時なんですね。

 松井先生は、〝北条DNA〟の継承者として時行を描いているのだなあと、北条推しの私としては、とてもテンションの上がる作品内の設定でもあります。

 「1232年(貞永1)執権北条泰時のイニシアティブのもとに、太田康連、矢野倫重、斉藤浄円ら法曹系評定衆を起草者として制定された」という「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」は、その後の長き武家の世において、基本の「法」であったということです。

 式目は立法者の意図にはかかわりなく,他の幕府法よりはるかに卓絶した効力を空間的にも時間的にも発揮するようになる。式目以後(正確には以前のもの若干を含む)発布されたいわゆる追加法のほとんどが,法の受容者である御家人にも周知されることなく,ごく限られた範囲と時間内に効力が限定されていたのに対し,式目は短期間に全国的に有名な法となり,裁判でしばしば引用適用されたのはもちろん,相続法や年紀法は社会的に生きた規範としての効力をさえもつようになった。鎌倉末の河内金剛寺の評定規式に式目末尾の起請文がほぼそのまま引用され,南北朝時代にある寺院の仁王像造立に際して,胎内に納める結縁者の交名(きようみよう)に式目写本の紙背が用いられる,などの例は式目が個々の条文のみならず,総体として一種の社会的尊崇をうけるに至ったことを物語るものといえよう。法理的にも室町幕府法や戦国大名法にも大きな影響を与え,さらに読み書きの手本として式目写本が用いられたため,おびただしい量の写本・版本がつくられ現存している。〔「世界大百科事典」の「御成敗式目」の項目より一部を引用〕

 また、金沢文庫を設立して和漢の書物を集めて知を極めようという北条氏の姿勢にもやはり、「法」の探求と重視という意識を感じます。

金沢文庫(かなざわぶんこ)
 武蔵国久良郡六浦荘金沢郷(現 横浜市金沢区金沢町)に北条氏の一族(金沢北条氏)の北条実時が1275(建治元)年頃創設したといわれる文庫。実時は多年にわたり優れた書物を集めその基礎を築いた。その後、顕時、貞顕、貞将と受け継がれ、金沢北条氏滅亡の後は称名寺が管理してきた。最も充実していた頃には2万点から3万点の蔵書があったと考えられる。しかしその後は時々の権力者が多くの蔵書を持ち去り、文庫は衰退した。1930年に神奈川県が再興し、1990年以降歴史博物館として公開されている。文庫所蔵の書物が祖本となって伝写され今日まで伝わった貴重な文献は数多い。
〔図書館情報学用語辞典 第5版〕

 「累祖代々己れを責め、礼儀に滞らず、いにしへに学び、仁政にわたくしなし

 これは、『太平記』において語り手が北条氏を評価している一文です。「北条氏は先祖代々自らに厳しく、礼儀を尊び、古に範を求め、仁政を敷いて自分の利益を計らなかった」というのです。
 『太平記』は、北条びいきなところがあり、物語の最後には〝北条氏が執権であった鎌倉幕府の時代はよかった〟というので、「青砥左衛門あおとさえもん」という伝説的な役人も登場します。彼は、「法」に照らして裁判を行い、北条執権側を相手取った裁判でも、執権に非をつきつけて敗訴にします。ーー忖度そんたく一切なし!

 「沙汰の理非を申しつるは、相模殿を思い奉る故なり
 ※沙汰(さた)…裁判。
 ※相模殿…相模守。ここでは、青砥左衛門が仕えた執権・北条時宗と貞時。

 理にかなわないことをすれば、主君の悪評が立ち、結果的に主君の不利益になる……主君にも非をつきつけるのは、主君を思うからだと言うのです。
 真偽のほどはさておき、こうしたエピソードが残っているということが重要です。青砥左衛門のような人物を優れた部下として手元に置いているのであるとすれば、主君である北条氏がどんな一族であるか(歴史的に、人々が北条氏にどんなイメージを抱いていたか)がわかりますね。

 『太平記』における北条氏の描かれ方については、先に作成した動画のシリーズも参考にしてください。


〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)を参照しています。〕


 私が所属している「南北朝時代を楽しむ会」では、時行の生きた時代のことを、仲間と〝楽しく〟学ぶことができます!


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