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逆選択:レモン市場と効率的市場の間を往く


考察に至る背景

ゲーム理論ゼミのテキストとなっている岡田のゲーム理論の5章で、中古車市場の逆選択を扱った応用例がある。そこでは情報集合の大きさで市場参加者の間での情報の非対称性を表現し、逆選択が起きるメカニズムが説明されていた。

情報集合の大きさ = 情報の非対称性であるならば、情報集合を大きくしたり小さくしたりすることで、情報の非対称性が解消されたり導入されたりして、市場参加者の振る舞いが変わるはずである。より具体的には、情報集合への操作により、逆選択が起こるレモン市場と効率的市場を連続的に推移させることができると考えられる。

テキストでの議論をベースに、逆選択が起こるレモン市場と効率的市場をつなぐための理論を構築することを試みるのが本投稿の趣旨である。

逆選択

ミクロ経済学でのよくある問題設定では市場は効率的とされている。つまり財の価格には市場が利用できる情報を全て反映し、財の価格は常にその価値に近い値を示す(安ければ悪いもの、高ければ良いもの、ということ)。

一方、需要側と供給側でその財に関して得られる情報に非対称性があるときに、価格が財の価値を表さなくなる。その結果、良質な財が市場から排除され、市場に出回る財の質が低下することを逆選択という。

逆選択の具体例は、保険の文脈で現れることが多い。例えば、保険加入者だけが知っている自己の疾患があり保険会社がそれを知らない、などの状況である。

  • 情報の非対称性:

    • 保険を購入しようとする人々は、自分自身の健康状態やリスクプロファイルを詳しく知っているが、保険会社はそれを完全には把握できない。

    • 健康状態が良くない人やリスクが高いと感じる人は、自分が保険に加入することで得られる利益(例えば、医療費の補償)が大きいと考え、保険に加入する可能性が高くなる。

    • 一方、健康でリスクが低い人は、保険に加入しても保険料を払うだけで、受ける利益が少ないと感じ、保険に加入しない可能性がある。

  • 結果としての市場への影響:

    • 逆選択が進行すると、保険会社はリスクの高い顧客ばかりを引き受けることになり、その結果、保険金の支払いが増加し、収益性が低下する。

    • これに対処するために、保険会社は保険料を引き上げざるを得なくなり、高額な保険料は健康でリスクの低い人々にとってさらに魅力を減じることになる。

    • このサイクルが続くと、ますます健康な人々が市場から退出し、最終的に保険会社はリスクの高い顧客しか引き受けられなくなり、保険市場自体が効率的に機能しなくなる。

レモン市場

レモン市場とは、情報の非対称性が原因で逆選択が行われ品質の低い財だけが取引され、品質の高い財が市場から排除されるような市場を指す。
対照的な市場として効率的市場がある。レモン市場と比べると、下記のように整理ができる。

$$
\begin{array}{|l|l|l|} \hline
\textbf{特徴} & \textbf{レモン市場 (Lemon Market)} & \textbf{効率的市場 (Efficient Market)} \\ \hline
\text{情報の非対称性} & \text{存在する。売り手が買い手よりも多くの情報を持つ。} & \text{存在しない。全ての参加者が同じ情報にアクセスし、情報格差がない。} \\ \hline
\text{情報の解釈} & \text{買い手が情報を解釈する能力が欠けていることが多い。} & \text{参加者全員が情報を正確に解釈できる。} \\ \hline
\text{価格形成} & \text{情報の非対称性により、価格が低品質の商品の影響を受けやすい。} & \text{全ての情報が価格に瞬時に反映され、価格は真の価値を反映する。} \\ \hline
\text{逆選択} & \text{頻繁に発生。低品質の商品が市場に残り、良質な商品は市場から排除される。} & \text{逆選択は起こりにくい。良質な商品も適切に評価され、市場に残る。} \\ \hline
\end{array}
$$

問題設定

取引は

  1. 売り手が買い手に中古車とその価格 $${p}$$ を提示する

  2. 買い手は中古車の品質 $${\theta}$$ とその価格 $${p}$$ から購入の意思決定をする

という展開形ゲームの形で行われるとする。
買い手は中古車に関する情報を得ることができ、それを用いて品質 $\theta$ を推定できるとする。
買い手は $${\theta}$$ が $${[0, a_1), [a_1, a_2), ...,[a_{n-1}, a_n]}$$ のいずれの範囲に属するかまで推定できるとする。買い手の情報処理能力 $${n}$$(ここでは中古車の鑑定スキルに相当)の不足により $${\theta, \theta' \in[a_i, a_{i+1})}$$ を区別できないとする。つまりそれぞれの範囲内では一様分布とする。
ここで

$$
a_i = i\Delta,\Delta=\frac{\theta_1}{n}
$$

とする。買い手が精度良く品質を推定できる(買い手が中古車鑑定のプロ)場合、$${n\rightarrow\infty}$$ に相当し、素人の場合 $${n\rightarrow 1}$$ になる。後者のケースは元の問題と一致する。
このゲームでの売り手と買い手の戦略は

  • 売り手:価格決定 $${s(\theta)}$$

  • 買い手:購入の意思決定 $${b(\theta, p)}$$

である。

情報処理能力による買い手の情報集合の推移。処理能力が向上すると情報集合が小さくなる。

また取引が実施されたときの売り手と買い手のそれぞれの効用は

$$
u_1(\theta,p)=p-\theta\\ u_2(\theta,p)=q\theta-p
$$

とする。ただし $${1\le q<2}$$ とする。品質を価格と同じ尺度で表現していることに注意する。
ここで $${q}$$ は買い手の品質を好む度合い(品質選考パラメータと呼ぶことにする)であり、大きいほど品質が効用に与える影響が大きくなる。売り手の効用が非負である $${p\ge\theta}$$ の範囲で、どのような価格を提示されても $${q<1}$$ だと取引が成立しないので $${q \ge 1}$$ としている。

理論的解析

期待利得の分析

まず売り手の立場で取引を分析する。戦略 $${(s,b)}$$ によって取引が行われるとき、売り手の期待利得は

$$
Eu_1(\theta, s)=(s(\theta)-\theta)b(\theta,s(\theta))
$$

である。戦略 $${(s^*,b^*)}$$ がベイジアン均衡点である場合、$${s^*}$$ は最適行動になっていなければならないので価格 $${p\in R^+}$$ に対して

$$
(s^*(\theta)-\theta)b^*(\theta, s^*(\theta))\ge (p-\theta)b^*(\theta,p)
$$

が成り立たなければならない。

次に買い手の立場で取引を分析する。買い手に提示された価格が $${p}$$ だったとき、取引が成立した場合( $${b(p)=1}$$ )の買い手の期待利得は

$$
Eu_2(\theta, p) = \int_0^{\theta_1} (q\theta-p)P(\theta|s,p)d\theta
$$

である。期待利得が負の場合、取引は成立しない( $${b(p)=0}$$ )ので $${Eu_2(\theta,p)=0}$$ になる。ここで $${P(\theta|s,p)}$$ は確率密度を表し、価格戦略 $${s}$$ の下で $${p}$$ が提示されたときに、品質が $${\theta}$$ から $${\theta+d\theta}$$ にある確率を表す。よって

$$
\int_0^{\theta_1} P(\theta|s,p)d\theta = 1
$$

が成り立つ。$${\theta}$$ は一様分布だが価格戦略はこの時点で不明(= 品質と価格の結びつきは不明)なので

$$
E(\theta|s, p) = \int_0^{\theta_1} \theta P(\theta|s,p)d\theta
$$

とおく。この式は買い手から見たときの品質の期待値を表している。$${s(\theta)}$$ は売り手の反応によっても決まってくるので、この時点では形が定まっていない。買い手の期待利得は結局

$$
Eu_2(\theta, p) = qE(\theta|s, p) -p
$$

のように書ける。大雑把に捉えると買い手の利得は品質(の期待値)と価格の大小関係で決まる。今、ベイジアン均衡点にあるとする。買い手の効用が正なら取引成立、負なら不成立なので

$$
\begin{align*}
&b^*(\theta,p)=1,&({\rm for}~E(\theta|s, p)>p/q)\\
&b^*(\theta,p)=0,1&({\rm for}~E(\theta|s, p)=p/q)\\
&b^*(\theta,p)=0&({\rm for}~E(\theta|s, p)<p/q)
\end{align*}
$$

である。品質と価格の大小関係で、品質の良さの感じ方が価格を上回った場合、取引が成立する構造になっている。

ナッシュ均衡の導出

ある価格戦略 $${s}$$ のもとで価格 $${p}$$ を提示されたときの、買い手から見た品質 $${\theta}$$ の期待値を

$$
E(\theta|s, p) = \int_{a_i}^{a_{i+1}} \theta P(\theta|s,p)d\theta
$$

のように表す。買い手は品質の範囲を推定できるので、積分は品質の推定範囲内で行う(あるいは範囲外ではゼロとする)。

[取引が成立する → 価格は常に等しい]

複数の価格で取引が成立するならば $${\theta \neq \theta'}$$ に対して $${b^*(\theta, s^*(\theta)) = b^*(\theta,s^*(\theta'))=1}$$ が成り立つ。

売り手の最適行動の条件から

$$
(s^*(\theta)-\theta)b^*(\theta,s^*(\theta)) \ge (s^*(\theta')-\theta)b^*(\theta,s^*(\theta'))
$$

より $${s^*(\theta) \ge s^*(\theta')}$$ である。$${\theta, \theta'}$$ を入れ替えると逆も成り立つので結局 $${s(\theta)=s(\theta')}$$ となる。

すなわち、取引が成立するならば価格は等しい(品質は等しくないかもしれない)。

[背理法]

ナッシュ均衡における価格決定ロジックを $${s^*}$$ とする。

背理法により $${\theta\in[a_i, a_{i+1})}$$ のとき取引が成立するのが $${\theta=a_i}$$ に限られることを示す。

ある品質 $${\theta' \in (a_i, a_{i+1})}$$ で取引が成立したとする($${a_{i+1}\le\theta_1}$$)。このときの価格を $${p'}$$ とおく。

売り手の効用関数から取引が成立するならば

$$
u_1(\theta', p')=s^*(\theta')-\theta' = p'-\theta'>0
$$

になるので $${p' >\theta'}$$ である。よって取引される中古車の品質は $${\theta\in(a_i, \min(p',a_{i+1})]}$$ であることが分かる。

さらに取引価格はいずれも同じなので、この範囲の品質に対して価格は同じ値を取る。すなわち

$$
s^*(\theta)=p', \forall\theta\in(a_i,\min(p', a_{i+1})]
$$

となる。よって、この品質の範囲で確率密度関数から $${s}$$ 依存性を取り除くことができる。

ここまでで積分範囲のうち $${\theta\in[a_i,\min(p', a_{i+1})]}$$ の部分の考察ができた。

$${p'>a_{i+1}}$$ の場合、積分範囲は $${\theta\in[a_i,a_{i+1}]}$$ なので、常に $${u_1>0}$$ より取引は成立する。

一方、$${p'\le a_{i+1}}$$ の場合、$${p'<\theta \le a_{i+1}}$$ の範囲では $${u_1<0}$$ となるので取引が成立しないため、品質に関する条件付き確率密度関数はゼロとなる。

よって、いずれのケースでも積分範囲として考えるべきなのは $${\theta\in[a_i,\min(p', a_{i+1})]}$$ である。

これらの考察から買い手は

  • 品質は $${[a_i, a_{i+1})}$$ の範囲に一様分布している

  • $${\theta>\min(p', a_{i+1})}$$ の範囲に売り手が価格を設定すると取引が成り立たないので、品質がその範囲にはない

ことが分かるため、結局品質は $${[a_i, \min(p', a_{i+1})]}$$ に一様分布しているとみなす。よって買い手から見たときの取引が成立するときの、中古車の品質の期待値は

$$
E(\theta)=\int_{a_i}^{\min(p', a_{i+1})}\theta \frac{1}{\min(p', a_{i+1}) - a_i}d\theta =\frac{1}{2}(\min(p', a_{i+1}) + a_i)\le\frac{1}{2}p'
$$

右辺を見ると、買い手は自分で推定した品質の下限と、価格またはその上限の平均をとっていることが分かる。

買い手の最適行動の条件より、これは $${1\le q<2}$$ では取引が成立しない。

よって背理法により取引が成立するのは $${p'=a_i}$$ に限る。

結論

ある中古車が提示されたとき、買い手が推定した品質の下限でのみ取引は成立する。

買い手が中古車の品質を $${[0, a_1), [a_1, a_2), ...,[a_{n-1}, a_n]}$$ のいずれかの区間に属するところまで推定できる場合、品質 $${\theta\in [a_i, a_{i+1})}$$ の中古車が売りに出されるとその中古車は均衡点で価格 $${a_i}$$ で取引が行われる。

図で表現すると下記のようになる。各情報集合の中で最も質が低い中古車だけが取引される。

買い手のそれぞれの情報集合のうち最も品質が低いものが取引対象になる。情報処理能力が増すと情報集合が増えるので取引対象も増える。

極限のケース $${n\rightarrow1}$$ (レモン市場)では1つの情報集合しか存在しないので、取引されるのは最低品質の中古車だけになる。一方、$${n\rightarrow\infty}$$ (効率的市場)ではそれぞれの情報集合に1つの中古車だけが含まれるので、どの取引もそれに応じた価格で実行される。

これらの極限を除いたケースはその中間に位置し、買い手は提示された中古車が自分の見積もった品質の範囲の下限を持つとみなし、価格と天秤にかけて取引の意思決定をする。

極限としてのレモン市場と効率的市場

買い手の情報処理能力が低いケースを考えてみよう。
これは $${n\rightarrow 1}$$ の極限と同じことなので、品質の取りうる範囲 $${[0, \theta_1]}$$ になり、取引は最低品質 $${\theta=0}$$ でしか行われない。つまり逆選択が行われ、レモン市場ができあがっている。

逆に、買い手の情報処理能力が高く、売り手と同じ精度で中古車の品質を鑑定できる場合は $${n \rightarrow \infty}$$ なので区間の幅 $${a_{i+1}-a_i =\theta_1/n \rightarrow 0}$$ となる。よって中古車が取引されない品質がなくなり、どの中古車でも取引が行える。「資産の価格がその真の価値を反映する」状態になっており、これは効率的市場である。

結果の解釈

中古車の品質に対する取引価格(つまり推定範囲の下限)を、推定範囲の粒度を決めるパラメータである $${n}$$ ごとにプロットしたものが下の図である。横軸が中古車の質、縦軸がその価格を表す。$${n=100}$$ を除いて丸印が取引が実現する価格と質の組み合わせを表す。

中古車の品質に対する取引価格を買い手の情報処理能力ごとにプロットしたもの。処理能力が低いうちは取引される中古車の品質が1つしかないが、それが処理能力の増大につれて取引対象が増え、取引価格も上がる。

情報の非対称性は買い手の情報処理能力の欠如によっても生じる

今回の問題設定では、買い手の情報処理能力を決めるのは、買い手の情報集合の粒度を決めるパラメータである $${n}$$ である。上で見たように、このパラメータを変化させ、買い手が識別できる情報集合の粒度を変化させることで、レモン市場と効率的市場が推移することが分かる。

重要なのは極端な2つの市場の間に様々な中間的な市場が存在することである。実際の取引では中古車(あるいは財)の情報開示がされないということはなく写真や状態評価などの品質推定の手がかりがあるため、この中間状態に近いと思われる。

買い手の情報処理能力があれば情報開示は市場拡大につながる

中古車の情報が開示された上で、買い手の情報処理能力があり $${n >1}$$ ならば最低品質以外の中古車も取引の対象になる。情報処理能力が高いほど取引対象になる中古車の数は増えるので、買い手のリテラシーを向上させることで市場を拡大させることができる、とも言える。

つまり

  1. [情報の対称化] その財に関する情報を買い手にも共有する

  2. [買い手の教育] 買い手の情報処理能力を向上させるために買い手を教育する

という2点を押さえることで市場のパイの拡大を狙うことができる。

情報の非対称性の解消が品質に応じた価格設定につながる

推定精度 $${n}$$ が大きくなる、つまり情報の非対称性が解消するにつれて

  • 成立する取引が増える

  • 品質 $${\theta}$$ に対して価格 $${p}$$ が増える

ことが分かる。情報の非対称性の解消に応じて、品質に対して適切な価格設定がされるようになり「高いものは良いもの」という常識的な価格設定が自然と現れる。

本結果からの類推

  • Amazon のマーケットプレイスは業者名とその評価、売り物の値段、品質評価くらいの情報だけが提示されている。比較的レモン市場に近い情報しか与えられていないが、それまでのカスタマーレビュー等で業者の評価を確実にすることでマーケットプレイスを効率的市場に近づけているものと思われる。

  • 品質に応じた価格が設定されるというのは、企業価値に応じて株価が決まる株式市場に近い側面もある。今回のモデルの範囲では情報開示する方が投資家からの資金を得やすい、という結論になるだろう。

  • 効率的市場への参加者の能力として仮定されている「情報処理を速やか、かつ正確に行う」という情報効率性への強い仮定を、ゲーム理論の範疇では情報集合の広さという観点で緩めて扱える可能性が本研究によって示唆された。

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