夜空
眩い街灯のオレンジが漆黒の空に滲んでいる。懐かしい電球色が目の前に続く一本道を照らし、それでも溢れる光が空に散らばる。微かなガソリンの臭いが鼻についた。単調な、けれども軽快なテンポのエンジン音が繁華街から外れたカンボジアの街路に響いている。
「トゥクトゥクってさあ」僕は声を張り上げる。
「なになに?」隣りにいる彼女の耳になかなか届かない。
屋根付きの三輪オートバイの後部座席で僕らは肩を寄せ合い、デコボコ道に揺れながら飛び込んでくる景色と音に身を預けていた。一枚板の屋根からはみ出す頂上の空に夥しい光の点が瞬く。湿気と昼間の暖かさを含んだ夜風が僕らを包み込み、話しかける声はエンジン音とその湿った空気に吸いこまれてしまう。
「だからあ、トゥクゥクってさあ、名前の由来がわかったよ。このエンジン音だよ」
「あはは。そうかもね」
楽しそうに応えながらも、彼女の視線は飛び込む風景に釘付けだった。若い運転手がハンドルにぶら下げた携帯ラジオからは、聴いたことのないロックバンドの演奏が流れていた。蒸し暑い夜のせいか刺々しさを欠いていた彼らの演奏も、このエンジン音のBGMには心地良く聴こえる。
やがて僕達は復興目覚しい途上国の象徴とでも言うべき国一番の繁華街に辿り着いた。比較的最近の建物が立ち並ぶ一角で、昼間のような光を放ちながら雑踏と喧騒を形成していた。
「下町の飲み屋街って感じだね」
「それでもすっごく近代的に見える」
僕らは外国人旅行者ばかりの、ハワイにでもありそうな『おしゃれ』なバーを見つけてそこに入った。
「あたし、ここに来るまでのトゥクトゥクの旅、結構面白かった」
「実は俺も」
「やっばり?あのワイルド感がよかった。でも結局は清潔で安全そうなバーに来ちゃったけどね」
「そりゃね。俺としては『安全第一』だから。一応結婚前の女性を連れてきてるんだし」
「『一応』って何よ」
「そう来ると思った」
乾杯をしながらじゃれ合い、再びトゥクトゥクの話で盛り上がった。そして、今回の目的であるアンコールワットの復習をして、厳しい彼女の親の目を盗んで強行した、スリリングな『お忍び旅行』を締めくくろうとしていた。
五年後のその彼女が、今、僕の隣りで寝ている。
「寝れないなら起きてれば」
僕がそわそわしているせいか彼女も気が散って眠れないらしい。決してこっちを見ようとせず、背中で話しかけてくる。
僕ら夫婦は完全に冷め切った夫婦関係をお互いなんとかしようと、引越しをしたり、犬を飼ったり、普段は縁がないレストランに行くなど様々な努力を重ねてきた。今回は仕事で『忙しい』合間を縫って、東京近郊に一泊二日の温泉旅行に来ていた。それでも事態は何ら変わらず、人前では仲の良い夫婦を演じ、二人になった途端に口数が少なくなっていた。僕は眠れずにそわそわしている時に考えた、ひとつのアイデアを口にしてみた。
「起きてる?」
「隣でうるさいから眠れないの!」
「あのさ、今から旅館のカブ借りてツーリングしようよ」
「は?何時だと思ってんの」
「深夜だよ。だからだよ。真っ暗な山道をさ、二人乗りで疾走するんだよ」
僕は、ひとつの可能性に賭けてみた。
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