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健康的な日課(2023)

健康的な日課
Saven Satow
Nov. 17, 2023

「人生の苦労を持ちこたえるには三つのものが役に立つ。希望・睡眠・笑い」。
イマヌエル・カント

 「旦那様、旦那様」。

 従者の声がして、イマヌエル・カントは目を覚ます。時刻はいつもと同じ5時5分前である。1年を通して変わらない。

 カントの暮らすケーニヒスベルクは北緯54度に位置する。夏至の日の出は4時頃、日の入りは21時20分頃、冬至の日の出は9時頃、日の入りは16時15分頃である。夏であれば、起床時刻の5時はすでに明るいが、冬はまだ暗い。

 着替えをしたカントは、ジャン=ジャック・ルソーの肖像画が壁にかけられた書斎で、パイプ煙草をくゆらしながら、コーヒーを2杯飲む。これが朝食である。その後、ケーニヒスベルク大学に通勤するまでその蔵書の少ない部屋で、講義の用意をしたり、読書をしたり、執筆したりするのが日課だ。

 カントは、1724年4月22日、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人の第4子として生まれている。彼は喘息のような苦しい息遣いをするなど健康面に課題がある幼少期を過ごしている。成人してからもこの身体的虚弱さはさほど変わらない。彼の身長は157cmである。18世紀の欧州人は、確かに、現代より平均身長が低い。だが、背が低いと言われるナポレオン・ボナパルトが168cmであることを踏まえれば、当時としてもかなり小柄だ。加えて、体格も華奢である。正装する際、服がずり落ちないように留め具が欠かせない。また、身長に比して頭が少々大きく、脊椎湾曲気味だったと伝えられている。

 カントは、この課題を克服するため、厳しい節制を自らに課し、規律正しい生活を送る。独自の呼吸法を考案し、息遣いの苦しさも改善している。もっとも、現代であれば、煙草をやめるように医師が助言するところだろう。

 午前中は大学で講義を始めとする公務をこなす。昼に帰宅、友人たちを3人から5人程度招待する昼食会を定期的に開いている。

 カントは肉1に対して野菜2の割合など栄養も考慮したメニューで友人をもてなす。歓談しながらの食事会は3時間を超えることもある。食事は栄養という身体的健康と社交という精神的健康の両方を満たしていなければならないと彼は考える。

 カントは、通常、15時半から散歩に出かける。これは哲学者が気分転換をするために外の空気を吸いに行くのではない。カントの日課にそのような隙間などない。むしろ、健康のためのウォーキングである。彼は決まった道を決まったペースで歩く。

 ケーニヒスベルクは亜寒帯湿潤気候に属している。年間を通した気温は、気候変動により現在では変わりつつあるが、摂氏30度弱から氷点下15度弱の間で推移する。平均気温は夏で20度以下、冬は氷点下5度弱である。だいたい札幌の平年程度だ。夏は快適だが、短い。他方、冬は降雪が多く、風も強いなど曇りがほとんどで、おまけに長い。

 夏の散歩は問題ないが、冬はタフな状況だ。しかも、3時半スタートでは日没時刻が近いので、辺りは暗くなりつつある。通過するカントの姿を見て道沿いの住民は自国を確かめたと伝えられている。

 カントはケーニヒスベルク大学で学び、教員生活もそこで送っている。実は、何度か他大学からの誘いを受けているが、すべて断っている。おそらくその理由の一つに健康もあるだろう。確かに、冬の気候は少々厳しいけれども、生活のリズムを崩さないためには慣れ親しんだ街で友人たちに囲まれて暮らす方がよい。実際、カントはケーニヒスベルクから出たことがほとんどない。風雨にさらされるのに咲く花の状況では彼の健康は維持できない。屋内の観葉植物の環境が必要だ。

 夕食は水やワインだけである。カントが固形物を口にするのはランチだけで、事実上、彼は1日1食である。

 カントは22時に床に就く。その際、繭に包まれた蚕のように、ベッドで眠っていなければならない。睡眠の状態も健康には大きい。

 この日課の繰り返しもあり、虚弱にもかかわらず、彼は大病を患うこともなく、当時としては長寿の79歳で、1804年2月12日に亡くなっている。

 ただ、認知症を患わなければ、もっと長生きできただろう。その病により即正しい生活が崩れたからだ。野菜をとらず、バターをつけたパンやチーズを繰り返し食べるようになったカントは通風を発症する。この持病では散歩も難しい。また、友人たちとの楽しい語らいもできなくなる。彼の健康は急速に衰えてしまう。

 カントの規律ある生活は彼の性格を物語るエピソードとして認識されてきたが、超高齢化社会の今は違って見える。規則正しい生活や適度な運動、バランスのとれた食事、豊かな社交は現代人にとって心身の健康に必須のものだ。また、最晩年のカントの姿は65歳以上の7人に1人が認知症の今日に通じる。カントは今やわれらの同時代人である。
〈了〉
参照文献 
ヤッハマン他、『カント―その人と生涯』、芝烝訳、創元社、1967年

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