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典拠と類書(2009)

典拠と類書
Saven Satow
Nov. 18, 2009

「もっともぼくは、文章を引用するのがおそろしい」。
森毅『一刀斎の古本市』

 著作権法32条は「引用」について次のように定めている。 

1 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。  

 執筆する際、先行文献からの引用を必然性のある最小限度にとどめ、しかもその部分が従で、それ以外を主としなければならない。しかし、古の東アジアの名文家たちはこの規定をまったく理解できないだろう。それどころか、彼らにしてみればこんなものは無教養な駄文家の戯言としか思えないに違いない。

 漢文では、先行する古典籍から佳句を縦横無尽に引用し、それらを再構成することが執筆である。古典籍に学識豊かに精通し、その内容を本質的に理解して、当代に生かす洞察力に満ちた引用こそが名文に値する。典拠もなく、自分の言葉で記すなどというのは無教養な駄文の見本でしかない。書き手も読み手も典拠を理解の共通基盤、すなわちリテラシーとしている。

 引用に頻繁に用いられる章句を選定し、その内容に応じて整理・分類して編纂した書物を「類書」と呼ぶ。代表的なものとしては唐代の『藝文類聚』全100巻や宋代の『太平御覧』全1000巻が挙げられる。類書は、現代風に言うと、アルゴリズム集である。類書はたんなる用語集ではない。当該字句だけでなく、その前後も出典から掲載されており、意味内容と作者の意図も知ることができる。

 また、原典がすでに散逸している古典籍もあり、類書に頼らざるを得ない場合も少なくない。漢文を書く際に、古典籍を直接当たって章句を引用するだけでなく、類書の関係項目を検索してそこから引くこともよく行われている。

 東アジアの古典を読む際に、神話比較や物語構造の分析がしばしばとられるけれども、むしろ、辞典や類書を開き、出典を探る必要がある。漢文のリテラシーを知らないで、そういったテキストの読解をするならば、恣意的なものに陥る危険性が高い。無教養や無知蒙昧なままでは、書を読む資格さえかつては認められなかっただろう。

 日本書紀の中でも最も知られている箇所の一つである巻第一の冒頭部分は、古典籍からの引用によって占められている。しかも、それらは類書『藝文類聚』を用いたと推測されている。

 古の作品はこのようなアルゴリズムの利用によって構成されている。ところが、この伝統は、近代に入ると、急速に廃れてしまう。

 吉田健一は、『日本で文学が占めてゐる位置』において、近代日本文学には典拠がないと次のように批判している。

 作品に出て来る言葉にしてからさうである。「私のやうなものでもどうかして生きてゐたい、」といふのは、引用は正確でないかも知れないが、藤村の何とかといふ作品にある言葉であつて、藤村の文学に就て何か教へてくれることはあつても、ただそれだけである。
 併し例へば、「ゲルマントの方」の書き出しLe pépiement matinal des oiseauxがどうかしてFrançoiseといふ言葉は、極めて自然にアナトオル・フランスのJe vais vous dire ce que me rappelle……といふあの何とかといふ本の書き出しと同じフランス文学の、或はフランス文学に限らない文学といふものの伝統の上に立つてゐることを感じさせて、同じ聯想の作用によつてヴァレリイのentre la coupe et les lèvres……だとか、comme de mesurer deux longueursだとかいふ言葉がそれぞれの背景になつてゐる作品を競つて雑然と頭に浮かんで来る。
 勿論、これはフランス文学の場合だけのことではない。ジイドが作品の題詞に使つてゐるQuid nunc si fuscus Amyntas?といふロオマの詩人の句は、ジイドの作品から切り離す必要がないのである。だからこそ比較文学が比較文学ではなくて文学の常道なのであつて、エリオットに「荒地」のやうに、他所の国語で書かれた名句を目茶苦茶に自分の詩の中に入れる方法も、さういふ点で認めてやらなければならない。

 西洋においては近代文学でもその先行文献の踏襲が続いているのに、日本の近代文学は文学の世界から孤立した個々の作品しかない。それを読んでもその作家のことは理解できても、文学の世界に入るための地図や道標の役割も果していない。日本近代文学は典拠を拒んでいる。だが、吉田健一は典拠の積極的活用が文学には必要だと説く。

 それは文学に限った話ではない。映画であろうと、音楽であろうと、政治家の演説であろうと、昨今の日本の表現行為には、パクリと推測される部分は多々あるのに、典拠に基づいた作品が少ない。たまにあっても、理解していなかったり、恣意的だったりする。表現行為に必要なリテラシーの習得・理解・活用が不十分なまま、創作をしている。それよりも、典拠と類書の伝統の復活の方がはるかに望ましい。執筆はその後でいい。
〈了〉
参照文献
杉浦克己、『改訂版書誌学』、放送大学教育振興会、2003年
森毅、『一刀斎の古本市』、ちくま文庫、1996年
吉田健一、『吉田健一集成1』、新潮社、1993年
社団法人著作権情報センター
http://www.cric.or.jp/

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