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子規の写生文(2019)(4)

第4章 日本語のリテラシーから見る子規の写生文
 ここで実際の子規の写生文を検討してみよう。写生文の登場は1898年(明治31年)10月刊行の『ホトトギス』第2巻第1号に掲載された子規の随筆「小園の記」や「土達磨を毀つ辞」、および高浜虚子の随筆「浅草寺のくさぐさ」だとされる。「小園の記」は子規が自宅の庭の様子を扱った随想である。また、「浅草寺のくさぐさ」は虚子が戦争時の境内の情景を観察しながら、文章にしている。ただ、いずれも文語体である。言文一致運動の盛り上がりを受け、子規は文語体よりも口語体の方が詳細な描写に向いているとし、『ホトトギス』の掲載作品もその文体で記すようになっていく。なお、当初、この新しい試みは「美文」や「小品文」、「叙事文」などと呼ばれ「写生文」という名称が定着するのは子規の晩年である。 

 子規の写生文の実例としてしばしば引用されるのが次の随筆『飯待つ間』である。これは、1899年、『ホトトギス』第3巻第1号に掲載されている。

 余は昔から朝飯を喰わぬ事にきめて居る故病人ながらも腹がへって昼飯を待ちかねるのは毎日の事である。今日ははや午砲が鳴ったのにまだ飯が出来ぬ。枕もとには本も硯も何も出て居らぬ。新聞の一枚も残って居らぬ。仕方がないから蒲団に頬杖ついたままぼんやりとして庭をながめて居る。
 おとといの野分のなごりか空は曇って居る。十本ばかり並んだ鶏頭は風の害を受けたけれど今は起き直って真赤な頭を揃えて居る。一本の雁来紅は美しき葉を出して白い干し衣に映って居る。大毛蓼でというものか馬鹿に丈が高くなって薄赤い花は雁来紅の上にかぶさって居る。
 さっきこの庭へ三人の子供が来て一匹の子猫を追いまわしてつかまえて往ったが、彼らはまだその猫を持て遊んで居ると見えて垣の外に騒ぐ声が聞える。竹か何かで猫を打つのであるか猫はニャーニャーと細い悲しい声で鳴く。すると高ちャんという子の声で「年ちャんそんなに打つと化けるよ化けるよ」とやや気遣わしげにいう。今年五つになる年ちャんという子は三人の中の一番年下であるが「なに化けるものか」と平気にいってまた強く打てば猫はニャーニャーといよいよ窮した声である。三人で暫く何か言って居たが、やがて年ちャんという子の声で「高ちャん高ちャんそんなに打つと化けるよ」と心配そうに言った。今度は六つになる高ちャんという子が打って居るのと見える。ややあって皆々笑った。年ちャんという子が猫を抱きあげた様子で「猫は、猫は、猫は宜しゅうござい」と大きな声で呼びながらあちらへ往ってしまった。
 飯はまだ出来ぬ。
 小さい黄な蝶はひらひらと飛んで来て干し衣の裾を廻ったが直ぐまた飛んで往て遠くにあるおしろいの花をちょっと吸うて終に萩のうしろに隠れた。
 籠の鶉もまだ昼飯を貰もらわないのでひもじいと見えて頻りにがさがさと籠を掻いて居る。
 台所では皿徳利などの物に触れる音が盛んにして居る。
 見る物がなくなって、空を見ると、黒雲と白雲と一面に丑寅の方へずんずんと動いて行く。次第に黒雲が少くなって白雲がふえて往く。少しは青い空の見えて来るのも嬉しかった。
 例の三人の子供は復我垣の外まで帰って来た。今度はごみため箱の中へ猫を入れて苦しめて喜んで居る様子だ。やがて向いの家の妻君、即ち高ちャんという子のおッかさんが出て来て「高ちャん、猫をいじめるものじャありません、いじめると夜化けて出ますよ、早く逃がしておやりなさい」と叱った。すると高ちャんという子は少し泣き声になって「猫をつかまえて来たのはあたいじャない年ちャんだよ」といいわけして居る。年ちャんという子も間が悪うて黙って居るか暫く静かになった。
 かッと畳の上に日がさした。飯が来た。

 この文章は現在形を多用している。また、断定の「だ」・「である」が限定的である。これは興味深い。西洋近代小説は動詞の時制を過去形に統一することが標準である。加えて、言文一致運動の最大の争点は「です・ます」や「だ・である」など文末をどうするかである。ところが、子規はいずれも積極的に導入していない。それはこの文章に独特の機能を持たせ、写生文の目指すものを明らかにする。

 子規のこの文章の特徴を英語と日本語の文法の違いから検討してみよう。

 英語で単純過去形の用法を説明する。英語の過去時制の動詞には単純形・完了形・進行形がある。この中の単純形は過去の状態や動作、事件、出来事を表わす際に用いられ、その情報は現在において必ずしも有効ではない。英語の新聞記事の動詞の時制は過去形である。すでに起きた事件・出来事をニュースとして伝えるが、その状態が新聞発行時にも継続しているかどうかは不明である。

 過去時制で小説を書くと、その世界はすでに過ぎ去っており、それが物語る情報が今も有効であるかどうかは定かではない。舞台が未来であったとしても、語り手にとってそれはあくまで過去の世界である。

 ところが、日本語の動詞の過去時制は英語のそれとニュアンスが異なる。日本語の過去形は、概して、英語の現在完了形に相当する。

 例を二つ挙げよう。

 (a) ああ、食ったなー。
 (b) ペンギンが飛んだ。

 前者は、今まさに発話者が食事をし終え、満腹の状態が継続していることを示している。また、後者はペンギンが飛び立ったのみならず、飛行を続けている可能性も示唆する。これらを英語の単純過去形に翻訳すると、次のようになる。

 (c)  I ate it.
 (d) A penguin flied.

 両者共にいつかわからないが、過去に私が食事をしたり、ペンギンが富んだりしたことがあったと告げているだけである。現在も私が満腹であるかやペンギンが飛行中であるかの可能性は低い。

 この二つの文を現在完了形にして見よう。

 (e)  I have just eaten it.
 (f)  A penguin has just flied.

 いずれも、副詞の”just”を加えたが、日本語の過去形のニュアンスに近い。英語の単純過去よりも現在完了形の方が日本語の過去形に対応する。ただし、このような文は通常の英語の会話で使うことはあまりない。

 次に、英語と日本語の現在時制の違いについて検討してみよう。新聞記事は過去形であるが、英文の学術論文は現在時制が標準である。論文は、科学哲学の議論はさておき、普遍的真理を前提にして執筆されている。その主張は超時間的であることを希望しており、永遠の現在を指向する。そうした暗黙の前提から動詞の時制は現在形が標準である。

 他に、単純現在形は瞬間的な出来事を扱う実況中継で用いられる。ただ、日本語の場合、こうしたシチュエーションでは過去形の使用が標準である。

  一例を挙げよう。

 (a) Willie Mays catches the ball!
 (b) ウィリー・メイズ、ボールを捕りました!

 先に述べた通り、英語の単純過去は現在もその情報が有効とは限らない。そのため、過去形は使えない。捕球は瞬間の出来事だが、状態は続いているので、現在形がふさわしい。他法、日本語の過去形はその情報の有効期限が今も継続している。だから、過去形を用いる。

 実は、英語の単純現在形で最も一般的な用法は、日常や習慣、比較的継続する状態などを指し示すことである。

 例を挙げよう。

 (a)  She plays tennis.
 (b)  She is a tennis player.

 前者の和訳は「彼女はテニスをする」ではない。それでは日本語として何のことやらさっぱりわからない。「彼女はテニスをしている」なら理解できるが、それは現在進行形の役である。この「彼女はテニスをする」は、後に言及するけれども、日本語の現在形のニュアンスに関わっているため、意味がうまく取れない。

 英語の単純現在形には日常的習慣のニュアンスがある。前者は、そのため、「彼女は習慣的にテニスをする」という意味がある。日常的にテニスをしている人は、当然、プロのプレーヤーということになる。だから、後者と言わんとする内容は同じである。いずれの文も彼がテニス選手だということを示している。前者の和訳も「彼女はテニス・プレーヤーだ」が適切である。

 もちろん、単純現在形でも副詞が修飾すれば、その動詞文は名詞文と同じ意味ではない。”She sometimes plays tennis”は「彼女は時々テニスをする」であって、「彼女は時々テニス・プレーヤーだ」ではない。名詞文が比較的持続する特徴や自己同一性を示すのに対し、動詞文は修飾によってそれが揺らぐ。

 日本語の現在形について考えてみよう。先に、「彼女はテニスをする」が意味不明だと述べたが、それは時間の修飾語がないからである。「彼女はテニスをする」だけでは不十分で、「いつ」という情報が不可欠である。日本語の動作動詞の現在形は近い未来のことを表すニュアンスがある。「彼女はテニスをする」は未来に向けられた文であるので、いつのことなのかという情報がないと、意味がうまく取れない。

 例を挙げよう。

 (a) 彼女は旅に出る。
 (b) 私はあなたを愛する。

 前者の彼女はまだ旅行に出かけていない。これからそうするに違いないというニュアンスがあるので、未来のことを語っている。また、後者の私のあなたへの愛は将来に向けられて継続していく。今の私の気持ちを示したいなら「愛する」ではなく、「愛している」になろう。いずれも近い未来のニュアンスがある。このように、日本語の現在形には英語の未来形に相当することが少なくない。

 スポーツの日本語による実況中継は過去形が標準であるけれど、現在形のみが使われている放送がある。それは主に視覚障碍者を対象にした解説放送である。音声多重放送を利用して場面を解説するテレビ番組で、民放もあるが、NHKが多くを実施している。語りは現在時制だけである。

 ある状態・動作が継続しているか、それが今まさに行われようとしているのかの場面が映し出されている。座る行為を例にするなら、解説は「座っている」の継続と「座る」の実行のみで、「座った」の完了を使わない。流れている映像の解説であるから、その行為を完結させて伝えると、カットやシーンと同期せず、それが途切れる。実況中継と同様の過去形を用いるなら、その解説は現在完了形のニュアンスがあるので、画面を見ている晴眼者とタイムラグが生まれてしまう。

 動作動詞に「時々」や「頻繁に」、「気が向いたら」といった就職があると、日常の習慣を表わす。修飾によって日本語の現在形も英語のニュアンスに近くなる。

 中には、日本語にも動詞文と名詞文の意味が共通している次のような場合がある。

 (a) 彼はタバコを吸う。
 (b) 彼は愛煙家だ。

 両者の意味は同じである。二つの文ともにそのまま次のように英訳できる。

 (c) He smokes.
 (d) He is a smoker.

 もっとも、タバコをめぐって人類は二種類しかいない。タバコを吸うなら喫煙者、吸わないなら非喫煙者であり、その中間は存在しない。こうした二分法が成立する場合、日本語でも動詞文と名詞文は意味が同じになる。

 このように、英語と日本語の動詞の時制のニュアンスは必ずしも一致しない。西洋近代小説の時制は単純過去形が標準だからと言って、それを日本語の過去形に置き替えたらおかしなことになる。

 先に引用した子規の『飯待つ間』の動詞の時制を現在形から過去形に次のように置き換えてみよう。

 余は昔から朝飯を喰わぬ事にきめて居る故病人ながらも腹がへって昼飯を待ちかねるのは毎日の事だった。今日ははや午砲が鳴ったのにまだ飯が出来なかった。枕もとには本も硯も何も出て居なかった。新聞の一枚も残って居なかった。仕方がないから蒲団に頬杖ついたままぼんやりとして庭をながめて居た。
 おとといの野分のわきのなごりか空は曇って居た。十本ばかり並んだ鶏頭は風の害を受けたけれど今は起き直って真赤な頭を揃えて居た。一本の雁来紅は美しき葉を出して白い干し衣に映って居た。大毛蓼というものか馬鹿に丈が高くなって薄赤い花は雁来紅の上にかぶさって居た。

 このように過去形にすると、文章が断片的になる。日本語の過去形は現在完了形のニュアンスがあり、各々の文が完結し、前後との連続性が弱くなる。解説放送が実況中継に変わってしまう。

 『飯待つ間』には現在形と過去形が混在している次のような段落もある。

 さっきこの庭へ三人の子供が来て一匹の子猫を追いまわしてつかまえて往ったが、彼らはまだその猫を持て遊んで居ると見えて垣の外に騒ぐ声が聞える。竹か何かで猫を打つのであるか猫はニャーニャーと細い悲しい声で鳴く。すると高ちャんという子の声で「年ちャんそんなに打つと化けるよ化けるよ」とやや気遣わしげにいう。今年五つになる年ちャんという子は三人の中の一番年下であるが「なに化けるものか」と平気にいってまた強く打てば猫はニャーニャーといよいよ窮した声である。三人で暫く何か言って居たが、やがて年ちャんという子の声で「高ちャん高ちャんそんなに打つと化けるよ」と心配そうに言った。今度は六つになる高ちャんという子が打って居るのと見える。ややあって皆々笑った。年ちャんという子が猫を抱きあげた様子で「猫は、猫は、猫は宜しゅうござい」と大きな声で呼びながらあちらへ往ってしまった。

 絵画の時制が現在であるから、子規が現在形を多用したと短絡的に考えるわけにはいかない。前半は現在形だが、後半に過去形が入っている。過去形の文には完結性があり、一連の出来事がそこで小休止する。文をショットの単位と見なすなら、現在形のそれがひとまとまりのシーンを構成し、過去形が来ると、それが切り替わる。

 この部分をすべて現在形に入れ替えると、次のようになる。

 さっきこの庭へ三人の子供が来て一匹の子猫を追いまわしてつかまえて往ったが、彼らはまだその猫を持て遊んで居ると見えて垣の外に騒ぐ声が聞える。竹か何かで猫を打つのであるか猫はニャーニャーと細い悲しい声で鳴く。すると高ちャんという子の声で「年ちャんそんなに打つと化けるよ化けるよ」とやや気遣わしげにいう。今年五つになる年ちャんという子は三人の中の一番年下であるが「なに化けるものか」と平気にいってまた強く打てば猫はニャーニャーといよいよ窮した声である。三人で暫く何か言って居たが、やがて年ちャんという子の声で「高ちャん高ちャんそんなに打つと化けるよ」と心配そうに言う。今度は六つになる高ちャんという子が打って居るのと見える。ややあって皆々笑う。年ちャんという子が猫を抱きあげた様子で「猫は、猫は、猫は宜よろしゅうござい」と大きな声で呼びながらあちらへ往ってしまう。

 すべてを現在形で統一すると、一連の出来事が連続して流れていく。スケッチをしているのだから、文章に流れは確かに不可欠である。しかし、シーンが切り替わらないので、子どもたちの間の葛藤や逡巡の印象が弱くなっている。現在形で統一して、小休止のニュアンスを出すとしたら、段落を変えるなどの工夫が必要だろう。

 先に指摘した通り、『飯待つ間』では断定の「だ」・「である」の使用が限定的である。それを多用すると、文が完結する。文章が流れではなく、文と文の組み合わせになる。スケッチが進行していると言うより、後から整理して描いた印象を与える。

 「だ」は断定の助動詞だ。「である」はその「だ」の連用形「で」に補助動詞「ある」がついたものである。これは事実や意見を述べる時に用いる。

 『飯待つ間』の第一段落の文末を「である」に変更すると、次のようになる。

 余は昔から朝飯を喰わぬ事にきめて居る故病人ながらも腹がへって昼飯を待ちかねるのは毎日の事である。今日ははや午砲が鳴ったのにまだ飯が出来ぬのである。枕もとには本も硯も何も出て居ぬのである。新聞の一枚も残って居ぬのである。仕方がないから蒲団に頬杖ついたままぼんやりとして庭をながめて居るのである。

 断定を使うと、文章がそこで一旦切れる。各文の連続性が途絶えるので、文章が動的な流れではなく、静的な配置になってしまう。段落をひとまとまりにして描写するのでなしに、各文を逐次的に描くことになる。それは、細部にとらわれず、全体を大づかみにするスケッチの発想に反する。

 最初の文委は「である」が用いられている。これはエスタブリッシュ・センテンスである。この断定の文は場所や時間、関係などといった状況を設定する帰納がある。これにより作者と読者は作品の場面をロジカルに共有する。以下はこの設定に則って話が進む。ところが、断定を多用すると、センテンスがシークエンスにならない。一枚のスケッチの描く過程ではなく、複数のものを見るような印象である。

 現在形を多用、断定の助動詞の使用を限定的にすることにより、文章が解説放送のようなになる。それは、目の前の出来事を事後的に整理するのではなく、ポイントだけに絞って即興的に大づかみに描写するものだ。スケッチの思想を具現、私的嗜好が公的規範に優先される。ただ、文章が流れていくので、読者に文章が迫ってこない。「余裕派」と呼ばれる所以である。

 なお、「だ」・「である」の前に「なの」が入ると、事実ではなく、意見だけにしか使えない。「AはBなのである」は「AはBであると思う」のニュアンスがある。この文は論証後に結論を述べる尾括型の末尾に置くことはできるが、先に意見を提示してからそうする頭括型の冒頭に来ることはない。そのため、エスタブリ寝具・センテンスには向かない。この「なの」は形容動詞の連体形語尾「な」に凖体助詞「の」がついたものである。

 「なのだ」・「なのである」が冒頭に置かれるのは、意外性など特殊な効果を狙う時以外だけである。赤塚不二夫のマンガ『天才バカボン』のバカボンのパパは、「わしはバカボンのパパなのだ」と自己紹介する。自分のことを「バカボンのパパだと思う」と言うのだから、この人物はどこか頭のネジが緩んでいる。こうした効果を意図する際に、「なのだ」・「なのである」が文章の冒頭に配置される。


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