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反復と比喩─詩とリテラシー・スタディーズ(2)(2009)

2 美味しゆうございました
 詩も長くなると、ホメーロスやフリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストゥラはかく語りき』のように、描写的表現や説明的記述、物語的構成が入り込む。けれども、そうした場合でも、比喩や反復が中心である。

 比喩を極小化、反復を極大化していくと、詩は言葉遊びに近づく。言葉遊びに隣接した詩は聴覚的に読者に訴えるだけでなく、時として、視覚的ないしその融合として表われる。

   みずえ
  一本の楡の木
 恋の本恋の本恋の本
 モーツァルトを聴いた夏
 愛さないの愛せないの愛さな
  いの愛せないの愛さないの?
   ぼくは口笛を吹けなかったんだ
   一羽の蝶も哲学をするだろうか
  いの愛せないの愛さないの?
 愛さないの愛せないの愛さな
 ローランサンを読んだ夏
 恋の本恋の本恋の本
  一本の楡の木
   みずえ
(寺山修司『ハート型の思い出』)

 逆に、反復を極小化、比喩を極大化させると、「エッセイ」に近接する。

良心とはなに。
あの青ざめた顏をした良心といふものほど、近代の人間にとつて薄氣味のわるいものはない。
われわれの心に忍び足をするあいつの姿をみると、幽靈の出現のまへに起るやうな恐ろしさをかんずる。
むかし、道徳の權威が認められてゐたころには、良心は神の聲であつた。
しかし、今ではなにものの聲だらう。
およそ得體のわからないものほど恐ろしいものはない。人が幽靈を恐れるのは、そのものの正體がわからないからである。
ああ、良心とはなに。
あの人種の血脈に、一種の醜惡な人種病が遺傳されて居るやうに、思ふに『良心』とは、我我人類の先祖の腦神經系統を犯した一種の黴毒性疾患が、われわれ末代の子孫にまで執念ぶかく遺傳したものに外ならないのであらう。
われわれは、理性の上では、良心といふ迷信を輕辱しきつてゐる。それにもかかはらず、私どもの感情はそれをどうにもすることが出來ない。
神も、佛も、未來も、道徳も、人道も、私どもはこの世のなにものの權威をも信じてゐない。それにもかかはらず、ひとびとは何故にあの舊弊な迷信からのがれることはできないのか。
良心とはくさりかかつた腦黴毒性の疾患である。良心は人類の神經にするどい有毒の爪をたてた。
あまつさへ、良心は手に血だらけの細い鞭をもつた裁判官である。
不幸にして良心の命令に背いた罪人は、青ざめた懺悔體となつて鞭うたれなければならない。その罪のもつとも重いものは、曲つた樹木の枝にくびをつるされたりする。
いまの世に、するどい良心をもつて生れた人ほど、いたましいものはない。
さういふ人たちは、いつでも、つめた貝に食はるる蛤のやはらかい肉身の痛みをかんじ、しのばなければならない。
わたしはわたしの自由意志を愛する。そしてあの青ざめた幽靈のまへには、熱病やみのやうにふるへをののいてゐる。いつも、いつも、わたしはさうである。
(萩原朔太郎『青ざめた良心』)

 エッセイは物語性の弱い告白である。告白は、傾向の面では内向的・知的、扱い方においては主観的であり、精神性が高い文学ジャンルである。近代の自由詩は、韻律や定型から離れる意志を見せており、明らかにエッセイと呼んでいい作品さえある。ステファヌ・マラルメの批評詩はそれを推し進めた試みである。

 比喩と反復という基本原理に則りながら、各詩人は形式・構成・技法・語法・語彙・修辞などで独自の文体を形成する。詩の読解には、リテラシーを顧みつつ、その詩の特有さに拡張していく必要がある。

 詩に属する各分野には、さらにそれ特有のリテラシーがある。今日、最も身近な詩である歌詞を例にとってみよう。

 一般の詩と違い、歌詞は歌われるため、発音のしやすさを考慮する必要がある。発生するとき、音のつくる場所は大きく二つに分けられる。唇や舌先を使う音とのどの方で出す音である。前の方の音と後の方の音がリズミカルに組み合わされていると、発音しやすい。しかし、前前後前後となれば、途端に難しくなる。「誰」という単語は前前であるため、歌詞に使った場合、早口に聞こえる。それを避けるには、「だあれ」と伸ばして発音し「だ」と「れ」の間に「あ」を入れ、前後前にすればよい。逆に、ラップのように、早口に聞こえるようにしたいのなら、こういう発音しにくい音の並びを多用すると効果的である。なお、母音を発音するときの舌の位置は「イ」が最も高く、「エ」、「ア」、「オ」、「ウ」の順で下がっていく。舌の動きが忙しくなると、発音しづらくなる。また、前の方でつくる音は歌い出しにもってくると、自然に入りにくい。「あなた」から始まる歌が多いのに対し、「わたし」は非常に少ない。しかし、その音からあえて始めると、意志を印象づける。「私は今日まで生きてきました」。「また逢う日まで 逢える時まで」。「僕らはみんな生きている」。歌詞には、こういったリテラシーがある。

 リテラシーから考察することを「リテラシー・スタディーズ(Literacy Studies)」と呼ぶことにしよう。リテラシー・スタディーズは「解剖学的読解(Anatomical Reading)」である。リテラシーから読解することは、詩の文法と照らし合わせて、その作品の正誤を判断する作業ではない。感動した場合、それが詩でなければ沸き起こらなかったことをそのリテラシーから明らかにする試みである。作者と読者は作品を通じてコミュニケーションをする。そのため、両者は共通理解であるリテラシーを認識している必要がある。しかし、近代以前は典拠や規則が重視されていたけれども、以降は往々にして暗黙知である。所見だけでなく、解剖してみなければわからないことも多い。

 言うまでもなく、評価されている作品であっても、リテラシーを無視しているため、実は詩ではないこともありうる。その共感は詩ならではではなく、まったく別のところから生じている。

 逆に、詩と見なされていないけれども、それを読んだ際の感動が、吟味してみると、詩のリテラシーに由来していることも少なくない。こういう作品は改めて詩の原点を考えさせる。

父上様、母上様、三日とろゝ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。
巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆうございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

 言わずと知れた円谷幸吉の遺書である。1968年1月9日、東京五輪男子マラソンの銅メダリストはこれを遺し、頚動脈を剃刀で切り、帰らぬ人となる。

 目上の人にお礼とお詫び、目下には諭しの言葉がかなり長く繰り返される。そこで触れられる物事は家族や親族の間での小さな心遣いである。「三日とろゝ」や「干し柿」などはそれ自身と言うよりも、銅メダリストではなく、幸吉としての日常の幸せの象徴である。日常的すぎて、言われなければ、思い出せないかもしれない。しかし、それはロマン主義的なアイロニーではない。立派なものではなく、あえてさもないものを選んで自意識の優越さを確認するいやらしさはここにはない。その間、進行しているだけで、詩は動いていない。しかし、この静けさと抑制が心の中にある思いを、不自由さを感じながらも、言葉にしようとしていることが伝わってくる。これがもう最後なのだから、大切な人たちに、上っ面だけの美辞麗句ではなく、自分の言葉で思っていることを言わなければならない。

 最後のパラグラフにくると、詩が急激に動き出す。抑えていた感情が一気に解放される。自分ではもうどうすることもできないと搾り出すように叫び上げる。しかし、その直後、先立つ不孝に対する両親へ頭を下げる。激しい起伏は心が磨り減っていることを告げている。親からもらった名前で自分を呼び、いつまでも一人の息子として両親の傍で暮らしたかったという願いの言葉で終わる。「死」や「命」、「自殺」に関する単語はまったく記されていない。全編を通じて見られる小さな幸せの言及に、そんなにも追い込まれていたのかとその孤独さにせつなくなる。これは、確かに、人の心をうつ詩である。

 近代以前の詩には、洋の東西を問わず、約束事が多いため、そのリテラシーを知らないと、読むことも書くこともままならない。詩のネイティヴ・スピーカーなど存在しない。つくり方を習得しておくことは、文学的な常識である。けれども、近代詩はその決まりごとを解体していく中で形成される。その分、リテラシーが見えにくくなっていく。こうした状況の中、リテラシーを明示化して、詩を考察するアプローチは、詩を再発見する営みである。
〈了〉
参照文献
金田一秀穂、『ふしぎ日本語ゼミナール』、生活人新書、2006年
金田一秀穂、『日本語のカタチとココロ』、日本放送出版協会、2007年
黒川洋一編、『杜甫詩選』、岩波文庫、1991年
谷川俊太郎、『空の青さをみつめていると 谷川俊太郎詩集1』、角川文庫、1985年
寺山修司、『寺山修司少女詩集』、角川文庫、2005年
萩原恭男編、『芭蕉 おくのほそ道』、岩波文庫、1979年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏他訳、放送大学出版局、1980年
DVD『エンカルタ総合大百科2008』、マイクロソフト社、2008年
青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
おじゃる丸
http://www9.nhk.or.jp/anime/ojaru/
日本自殺研究所
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/index.html
HAARETZ.com
http://www.haaretz.com/


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