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昔ばなしと社会的メッセージ(2)(2018)

第3章 昔ばなしの定義
 『まんが日本昔ばなし』は、94年の終了後、再放送が続けられています。それは昔ばなしが社会にとって共有の文化財産だと認知されているからでしょう。しかし、昔ばなしは身近ですからわかったつもりになりがちです。検討する意義は依然としてあります。なお、以下で伝承地域に言及する際、主に「まんが日本昔ばなし~データベース~」を参考にします。
 
 昔ばなしは口承文学に属します。文学は自分を含む誰かに語ることを前提にした実用以上の言葉の組織化と定義できます。この実用はその対象の直截的な利用のことです。口承文学はその行為の際に文字に依存しないものを指します。昔ばなしは、前近代に生まれ、非専門家による口承の短い物語です。
 
 昔ばなしの「昔」は近代以前の時代を意味します。しかし、この時期区分は厳密ではありません。柳田國男は『遠野物語』に明治期の話も収めています。人々の前近代的な認知が明治維新を迎えた瞬間に近代的なものに切り替わるはずもありません。
 
第4章 非専門家の口承文学
 口承文学には、語り手が専門家である場合と非専門家である場合があります。創世や道徳を伝える神話・叙事詩は、途切れないために、それを語り継ぐ専門家集団を共同体・国家が保護します。往々にして特定の一族が担っています。また、情緒に訴える物語や抒情詩は、しばしば放浪する専門家集団がそれを各地に伝播させます。琵琶法師や吟遊詩人がそうした例です。
 
 この口承文学は、どこかの時点で、さまざまな理由によって文字に記録され、現代人も知ることができています。文字を持たない言語の口承は、外部の文字によって、時に翻訳を伴いつつ、テキスト化されています。
 
 口承に比べて、文字記録は社会的・歴史的変化への対応力が上です。遺跡の中で発見された石板に死語になった言語で記されていても、後世の人によって解読されることがあり得ます。一方、口承は伝承が途絶えたら、そこで消えざるを得ません。変化が少なく、安定している社会・時代であるほど、語り継がれやすくなります。しかし、乱世になると、口承の専門家の生活基盤が失われるなど継承の条件が悪化し、途絶える可能性が高まってしまいます。
 
 公開を目的とした受注の碑文には誤表記の想定は不要です。しかし、筆記用具によって記された文字記録は書き写されて共時的・通時的に伝えられます。その際に、誤字脱字や欠落、誤挿入など間違いが起こる可能性があります。長い年月を経て伝わると、それが既成事実として正典化し、当初の間違いは気にされません。後に、文献学・書誌学の研究者が現存するテキストを吟味し、かつての姿の再現に取り組むことがあります。ただ、その成果が聖典を覆すまでには至らないことが多いものです。
 
 口承文学も伝承の際に、変形が生じる可能性があります。ですから、専門家はそのリスクを回避する工夫をしています。専門家は暗記しやすいように繰り返しを多用したり、韻律を使ったり、節をつけたりします。概して、洗練され、巧みなレトリックに覆われ、文法的なミスはほとんどありません。
 
 一方、昔ばなしの語り手は非専門家です。主に担っているのは一般の高齢者です。特別の能力や訓練を必要とせず、それで生活してもいません。土地の言葉が使われ、話している途中で文法的誤りも起こり、論理的に飛躍し、レトリックは素朴で、内容の理解に教養など要りません。語る相手はたいてい近親者です。専門家集団による交渉に比べて、伝承の際の変形が大きいと推測できます。しかし、それが起きても、気にされることなどありません。そもそも確かめようがないのです。
 
 昔ばなしには近現代の小説に勝るとも劣らないものも少なくありません。青森県の『かくれんぼ』や岩手県の『とうせん坊』、福島県の『姥清水』、長野県の『ひともし山』、島根県の『影ワニ』などこのリストはさらに続きます。語り手の中に文才に恵まれた人がいたり、大勢で推敲したりしたので、面白く心を打つお話ができあがったのでしょう。
 
 昔ばなしは、語り手と聞き手の記憶力・集中力の都合上、だいたい5分から10分です。昔ばなしの語り聞かせは、日常会話よりも、話す速度が概して遅くなります。インタビュー音声を文字起こしで記事にする際、1分当たり400字詰原稿用紙1枚を目安にします。昔ばなしの分量はそれよりも短くなります。語り手は声色を変えたり、話す速度に緩急をつけたり、間をさしはさんだりします。また、聞き手の反応を確認したり、途中でお話をめぐる会話をしたりします。
 
 昔ばなしは夜寝る前など日常生活の合間に語り聞かせられるものです。一度に語られる話の数は1、2話です。1話当たり10分とすると、2話で20分となります。子どもの眠る前の儀式としては長すぎるくらいでしょう。比較のために挙げると、今日の演芸場での漫才の時間が15分、落語が30分程度です。
 
 就寝前のお話は物語と言うよりも、筋のないエピソードということもあります。岩手県に伝わる『古家のもり』にそうした様子が描かれています。この家では、孫を寝かせるために祖父母がお話を語り聞かせているのです。ある雨の降りそうな晩、孫がこの世で一番怖いのは何かと尋ねます。それに対し、祖父母は、人間なら泥棒、動物ならオオカミだけれども、もっと怖いのは古家のもりと答えます。これは古い家の雨漏りのことなのですが、その家にちょうど潜んでいた泥棒とオオカミが勘違いして喜劇が巻き起こるのです。
 
 一人の語り手が50話も覚えている必要は必ずしもありません。昔ばなしは、古典落語と同様、同じ話を何度聞いても面白いものです。確かに、それは語り手の話芸の巧みさ、すなわちお話が人格かされているからでもあるでしょう。ただ、繰り返し語る=聞く相互作用の過程で、話が推敲されたことを見逃してはなりません。どんなに語り手が高い話術を持っていたとしても、聞き手が面白くないと言えば、そのお話は手直しされない限り、口に上ることはありません。昔ばなしは日々の改善を経て口承されています。
 
 実際、伝統的な昔ばなしは今でも幼児からの反応がよいのです。保育園でしばしば読み聞かせが行われます。現役の保育士によると、最近の絵本よりも昔ばなしの方を幼児が好むので、それを使うことが多いとのことです。
 
 今日でも多くの人は20ほどの昔ばなしを挙げることができるでしょう。『桃太郎』や『浦島太郎』、『金太郎』、『一寸法師』、『三年音太郎』、『花咲か爺さん』、『舌切り雀』、『おむすびころりん』、『さるかに合戦』、『カチカチ山』、『ぶんぶく茶釜』、『こぶとり爺さん』、『かもとりごんべえ』、『鶴の恩返し』、『笠地蔵』、『ねずみの相撲』、『力太郎』、『しょじょ寺の狸ばやし』、『はなたれ小僧』、『天狗のかくれみの』、『うばすて山』、『雪女』、『三枚のお札』、『牛方と山んば』、『古家のもり』、『ききみみ頭巾』、『大工と鬼六』、『耳なし芳一』などがすぐに思い浮かびます。これらは、パロディも含めて、絵本やテレビ、映画、マンガでおなじみです。多くの人々はだいたいの内容を知っているに違いありません。

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