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小説家失格─石川啄木の小説(1)(1996)

小説家失格─石川啄木の小説
Saven Satow
Feb. 28, 1996

「え、文学的才能がないといわれるのか。若いのに思い上がった人だね、君は!」
リール・アダン『二人山師』

1 小説の時代を迎えて
  谷川俊太郎は、『石川啄木』において、啄木に関して次のような詩を制作している。

  涙をこぼれるがままにしておくには
  勇気が要る
  弱さをいつわらず歌うには
  強さが要る
  でたらめと嘘
  裏切りと虚栄
  その矛盾と混沌のさなかに
  ひとつの声が起ち上る
  さながら悲鳴のように時代を貫き
  どんな救いもないからこそ
  言葉は
  言葉であることで自らを救う

  黄ばんだ写真の奥から
  私たちをみつめる哀しげな顔
  青年は時代の傷口
  いつまでも癒えない傷口
  そこから流れ出る歌は
  私たちの血の
  途絶えることのない
  調べ

 谷川俊太郎は勘違いをしている。啄木を望郷の歌人、薄幸の歌人、青春の歌人と見なしているわけだが、それは見当外れである。啄木の生涯は、27歳で夭折したことを除けば、決して不幸ではない。彼は友人にも、教育にも、作品を発表する機会にも恵まれている。だいたい啄木は、弱冠25歳で、朝日新聞の朝日歌壇の選者に抜擢されている。それに、渋民村の僧侶の息子である啄木は、盛岡の中学生のころ、ビールを愛飲して、バイオリンを演奏し、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』に感激している。こうした光景は、彼の境遇を考えると、当時の世界を見ても、稀である。啄木が岩手県から東京にやってくることは、同時期のアメリカの黒人が南北を分かつメイスン=ディクソン線を越えることほど困難ではない。

 確かに、啄木は社会的不適応であり、極端なタイプだったから、安定した職につくことができない。彼自身も『歌のいろいろ』の中で「私の生活は矢張現在の家族制度、階級制度、資本制度、知識売買制度の犠牲である」と言っている。けれども、彼の生活を困窮に導いたのは、文学界が小説の時代に入ったにもかかわらず、そのジャンルを書けなかったことであろう。

 これを見抜けない谷川俊太郎は「言葉は 言葉であることで自らを救う」と自己完結している。小説の時代にを迎えたにもかかわらず、啄木は小説家になれない。それは「言葉は 言葉となろうとすることで自らを救う」でなければならない。「過ぎ去った人間たちを救済し、一切の『そうあった』を、『わたしがそのように欲した』につくりかえること--これこそわたしが救済と呼びたいものだ」(ニーチェ『ツァラトゥストゥラはかく語りき』)。

 ドナルド・キーンは、『子規と啄木』において、啄木の小説について次のように述べている。

 啄木の小説が失敗であるのは、小説の技法の上で、あまりにも欠けているところがあるからである。それは渋民村、あるいは東京で経験したことに、少しばかり修飾を施したのに過ぎないものか、または筋がない会話だけのものであったりした。啄木は始終新たな小説に取りかかり、そこに登場する人物の名前を全部決めたりしてから、二、三枚書くともう後が続かなくなってやめた。「鳥影」には優れた箇所もあるが、全体として類型的で纏まりがない。短篇では、主に彼の生活について語られている点に興味があるのであって、その筋とか、人物の性格とか、作者の観察とか、文体とかに魅力があるわけではない。作品中最も見事な散文は、問題なく日記や手紙であって、「ローマ字日記」のような傑作は、即興の天才があるものにしか書けるものではない。啄木の文章というものが即興的な性質のものなので、古い日記を出版するために手を入れた場合、いつも月並みな感想を書き足すことで原文を傷つけている。それはちょうど、画家が水彩画からもっと大きな油絵を制作するのに、もとの絵の真実を、一般に美と受け取られているものに変えてしまうことがあるの似にている。啄木はその日記や手紙ではおよそ直截な表現を用いるが、もっと苦労して書いた作品では、文体というものについて持っていた既成概念のために、それが損なわれている場合が多い。

 啄木の作品は、小説に限らず、技巧的なものが少ない。彼は、日記や手紙においては、表現の原形質ともいうべき「直截」な言葉の持つ有無を言わせぬ威力で迫ってくる。けれども、啄木の小説は既存の「小説の技法の上で、あまりにも欠けているところがある」が、さりとて、『あこがれ』の詩のごとく実験的でも前衛的でもない。書きなぐったのではないかと思われるものや、途中で飽きたのだろうと推測されるものがあるなど、彼の小説はただの「失敗」である。

 小説が脱ジャンル、あるいは超ジャンルであるという指摘がある。小説はそれまでのさまざまなジャンルの特徴や傾向を融合していることは確かである。近代小説は近代社会や近代人を扱うために生まれたジャンルで、他のジャンルを再構成した上で関連する。概して、小説は客観的であることをモットーとし、外向的で個人的傾向を持ち、社会に出現する人間の性格に関心をよせる。近代小説の主な関心の一つはそこで描かれている社会における人間の自我の発達だ。啄木の小説にはそういう性質はない。彼の場合、それは日記や書簡という公表を目的としていない作品に具現されている。小説の彼は居心地が悪そうにしているが、日記や書簡では、普段着でリラックスしている。

 小説家としての啄木は素晴らしい速球を持ちながらも、いざ実戦のマウンドに立つと、あれこれ考えすぎて自滅してしまう若いピッチャーのようだ。こういうタイプは先発ではなく、日記をつけるように、短いイニングながらも毎日投げられ、「即興」の要求されるストッパーにまわしたほうがいい。

 啄木の小説は、彼が書いたものでなければ、読むに値しない。それらはとても読解に耐えられるものではない。『雲は天才である』や『我等の一団と彼』だけではなく、『赤痢』や『鳥影』、『道』、『足跡』など未完を含めて数多くの小説を書いている。啄木は、部分的には、詩人としての能力を発揮しているけれども、全般的に見ると、駄作になっている。啄木自身も、1908年6月4日付森鴎外宛書簡において、「書いていて飯が食えるものなら、私はいくらでも書きます。書き初めさえすれば一日に二十枚はきっと書けます。私は私の書くものが修作だと知っていますから、決して自惚れませんが、正直に申し上げればこれより拙いのがやはり活字になっているようです」と記している。自分の小説の出来が悪いことを自覚している。

 かつてCNNで、『ショービズ・トュデー』という番組が放映されている。それは、三大ネットワーク各番組の視聴率の浮き沈み、低視聴率番組について今後打たれるであろうテコ入れ策、スポンサーの思惑、プロデューサーや編成局長のインタビューを交えながら解説する30分番組である。啄木の小説はほとんどこの番組にでも扱ってほしい代物だ。

 失敗作を論じることを好まないが、啄木の場合、それを厭わないのは、小説とほかのジャンルの作品との出来の差があまりにも極端だからである。啄木の小説を読む理由は二つある。一つは、ドナルド・キーンが言う通り、彼の生涯を知るためであり、もう一つは、短歌や詩、批評、日記などほかのジャンルで、あれほど、素晴らしい作品をつくりながら、なぜ小説家としては失格したのかということである。この第二点は、啄木の小説をめぐる問題だけに限定されず、近代日本において、小説というジャンルはいかなる性格を持っているのかという問いへとつながっている。

 最近、文学の世界では、出来のよい作品を読解しようとする傾向がある。しかし、正直言って、出来の悪い作品のほうが論じていて、よいものよりも得るところが大きい。わからないのはその作品が難しいからではなく、啄木の小説のように、やさしいからだということもある。


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