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水村美苗の『日本語が亡びるとき』、あるいはコミュニケーションが亡びるとき(3)(2009)

5 日本語の造語力
 水村美苗の指摘する通り、文字を駆使した日本語の造語力は驚くべきものがある。活字媒体に目を通したり、巷を見回したりすると興味深い表記に気がつく。

 80年代後半、浅野温子と浅野ゆう子がブレークし、二人合わせて「W浅野」と称されている。これは「ダブリューあさの」ではなく、「ダブルあさの」と読む。また、2009年2月11日付『東京新聞』のスポーツ面の見出しに「きょうW杯最終予選 豪の高さ 中沢で対抗」とあるが、この「W杯」は「ワールド・カップ」と理解できる。

 「W」というアルファベットがほとんど漢字として使われているのだから、これでもかまわない。しかし、「W」を「ダブル」と読むのは、本来はおかしい。「W」は”double u”に由来するから、「ダブル・ユー」で「ダブリュー」である。”uu”、すなわち”2u”であって、「ダブル」とは読みようがない。

 また、小泉今日子は「キョンキョン」と呼ばれ、「kyon2」としばしば表記される。「kyon」の2乗という意味であるが(テキスト・ファイル上であれば、正確には「kyon^2」と記すのが慣例である)、それでは(kyon)×(kyon)となってしまう。むしろ、「2kyon」として「ダブルkyon」で「kyonkyon」と読ませる方が適切である。もっとも、積記号の省略ならびに累乗という数学上の慣例を応用したという発想それ自体は、非常におもしろい。

 日本語の散文のルールをつくったのは藤原定家(1162~1241)である。定家は意図を持って漢字とひらがなを使い分けている。日本語では、英語と異なり、分かち書きをしない。そのため、文内の意味の切れ続きをどうするかが課題となる。現在では句読点があるが、当時はそんなものなどない。そこで、定家はひらがなから漢字に移るところを文節の切れ目とすることを思いつく。

 定家は、彼以前の人たちと違い、文字を続けて書くことをあまりせず、一文字一文字を独立させ、筆記の面でも、明らかに文の切れ続きを意図している。なお、定家はひどい癖字ことで知られ、そのため、定家流として江戸時代に愛好者もいたのみならず、その自筆本や写本が特定しやすい。日本語の散文は、この時、生まれたと言って過言ではない。

 カタカナは、今の文内では、ほぼ漢字と同じ自立語の機能を果たしている。カタカナは漢字の字画の一部を省略して生まれ、九世紀頃に、確立したというのが定説である。それは、主に、漢文の訓読のために用いられる文字である。漢籍や仏典の漢文を訓読(翻訳)する際に、送り仮名や返り点といった訓点を行間や字間に補う必要がある。文字の四隅や中間に記号をつけ、送り仮名や助詞、助動詞などを表わしている。現在、助詞を「テニヲハ」と言うが、それはこの記号の配置に由来している。記号のつけ方や意味が門流や宗派によって異なっている。それは秘伝である。カタカナは書き言葉の世界の文字である。定家のルールが現在までもほぼそのまま適用されているのだから、驚くべき独創性である。

 歌謡曲やポップ・ミュージックの歌詞は、歌番組やカラオケの字幕を見ると、非常にユニークな漢字の使い方をしているのがよくわかる。歌は音声として発せられているけれども、その歌詞は音があってそれに文字をつけて構成されているわけではない。

 沢田研二の『危険なふたり』に「年上の女(ひと)」という一節がある。表記に従い「年上の人」としては男か女かわかりにくい。さりとて、文字通りに「年上の女」で欲望がストレートに出すぎて、悩める心がかすんでしまう。「の」と「お」が連続する場合、区切りを入れないと、「のんな」に聞こえてしまうし、第一、字余りだ。

 歌詞には、あくまでも歌であるため、数多くの制約がある。「あなた」で始まる歌は多いが、「わたし」は少ない。これは「わ」の発音のしにくさに起因する。石田衣良が2009年の第76回NHK全国学校音楽コンクールにおける高等学校の部の課題曲『あの空へ~青のジャンプ~』が作詞のリテラシーを無視したその典型である。彼はまったくお構いなしに歌詞を書いている。サビに登場する「JUMP UP」はほとんどが口の前の方で出す音で構成されており、非常に歌いにくく、またよく聞きとれない。どうしたらこれだけひどい歌詞を創作できるのか不思議でならない。このような歌詞を前にした高校生は絶望的な気持ちになり、無知蒙昧で厚顔無恥な作詞家を呪ったに違いない。

 他にも、歌詞では漢語は避けられる。ひらがなは漢字の草書の崩しから生まれ、九世紀頃に確立したと考えられている。和歌を書いたり、私的な文章を記したりする際に用いられる声に出すための文字である。こうした歌詞特有のリテラシーから、作詞家たちは大胆な表記を用いている。また、漢字そのものを歌詞に取り入れた曲さえもヒットしている。「明日」を「明るい日」とつぶやくアン真理子の『悲しみは駆け足でやってくる』や「春」を「三人の日」と歌う石野真子の『春ラ!ラ!ラ!』、「忍」を「心に刃をのせる」と思い悩む因幡晃の『忍冬』がその代表であろう。「忍冬」は「スイカズラ」と読み、花言葉は「献身的な愛」である。さらに、外来語を漢字やアルファベットのままで記し、日本語の別の単語として歌わせるというケースまである。

 読みを無視して、意味のみを伝えるための表記もよく見かける。切符売り場にて、「小人」とあっても、「こびと」とは読まない。これで「大人」と対比された「こども」の意味だと理解している。また、2009年2月11日付『ニッケイ新聞』は、ブラジル国内ニュースの見出しに、「バチスチ亡命容認=伊首相が訪伯中止=地下組織の手引きで伯国へ」と掲げている。「伊首相が訪伯中止」は文字通り読まず、「イタリア首相がブラジル訪問中止」と理解するようになっている。さらに、2009年2月14日付『スポニチ』の「チェルシー・ヒディンク監督キッパリV宣言」という見出しにおける「V宣言」は、もちろん、「勝利宣言」の意味である。これらの用法では、他と区別したり、象徴したりするための記号として漢字やアルファベットが使われている。

 こういった文字の多種多様な使い方が日本語を豊かにしていることは、いささかアナーキーであるとしても、間違いないだろう。書き言葉が消えてしまったなら、日本語は亡んだも同然という水村美苗の憂いも、決して、的外れではない。

6 日本語と大日本主義
 水村美苗は、日本語の頂点を二葉亭四迷や夏目漱石、森鴎外、谷崎潤一郎らが活躍した明治後半から昭和初期だったと主張する。蓄えた漢学の素養を基盤に、西洋互角に渡り合える思考力を担う「国語」が形成されていくが、文学者たちはそこで大きな役割を果たしている。

 水村美苗は、「語の機能・陰影 どう護る」において、その頃の知識人たちへのリスペクトを次のように応えている。

 福沢諭吉が一年間も枕を使って眠るのを忘れたほど、猛烈な勢いで西洋の知識を輸入し、急速に日本語は近代化した。ところが英知を受け取るほどに、西洋との隔たりにも苛まれもしたわけです。

 石橋湛山は、1913年の辞典でも『自国語で学問の出来ぬ国』の中で外国語をちゅう得しなければ、学問研究ができない状況だと嘆いている。江戸時代から数えれば、西洋近代学問と接触してから150年あまりも経っているのに、それを消化しきれていない。

 近代日本語は国民国家の形成と植民地支配という二つの契機によって発展している。言文一致運動は国内における国民国家体制の確立と密接な関係がある。しかし、近代日本語が標準化されていくのは、日本が帝国主義化していく過程においてである。水村美苗が賞賛する時期は、石橋湛山が厳しく批判した「大日本主義の幻想」の時代と言ってもよい。

 台湾の教員として新規則の制定に関与した山口喜一郎は、1904年、「新公学校規則を読む(一)」において、日本語の中には「国民の知識、感情、品性」のすべてが含まれており、日本語教育によって台湾人と日本人の「同情同感」が可能になり、「母子両地」が確かなものになると主張している。山口に従えば、日本人の「国民性」とは何か、あるいはそれを指し示す「知識、感情、品性」とは何かという問いは意味をなさない。日本人の「国民性」は日本語が体現している。日本語で語られれば、西洋近代文明であろうと、中華文明であろうと、天皇の勅語であろうと、日本人の「国民性」そのものになる。植民地支配における屈折は日本語によって改称される。その上で、山口は日本語教授法として体験的に日本語を「体得」させる直説法、すなわち全教科目における教授用語の日本語化を推進する。教師は、台湾語を用いて、日本語を理論的に教えるのではなく、日本語を体に叩きこまなければならない。

 1910年代前半には、総督府の刊行していた教科書から台湾語の対訳が削除され、教育現場より台湾語を完全に排除する。山口への批判は当時からすでに強かったが、日露戦争という時代の中、山口の意見は主導権を獲得する。正統性の欠落を日本語審美主義によって埋めざるを得ない。借り物の近代化を背景に、文化的に負っている中華文明を支配するのを正当化するには山口の主張が有効である。日本語審美主義として、日本の帝国主義は日本語の普及のために、行われていく。

 こうした占領政策がとられたのは、日本語が植民地政策において特別の意味を持っていたからである。政治や司法、官庁、軍部が日本の帝国主義を正当化するために、国家的プロジェクトとして日本語に過剰な意味づけを行っている。日本語は、近代日本において、天皇制以上の政治的イデオロギーである。日本語の表記に関する問題は言語学ではなく、国内外の政治情勢と密接に結びついている。

 日清・日露の両戦争の勝利を通じて、台湾や朝鮮半島、中国大陸へと侵略を進めていく中で、漢字廃止の運動も盛んになり、加えて外地での日本語教育の問題から漢字を制限しようという動きが高まっている。ところが、昭和に入ると、極端な復古主義・国粋主義の立場からそれに抵抗しようという勢力が生まれる。教育現場での方言の尊重という意見が内地では出ていたものの、植民地において、正しい日本語の確立と確実な教授が要請されていた理由から、標準語の絶対性は揺るがせない。大日本帝国は、言語の面でも、大東亜共栄圏の規範とならなければならない。不純な日本語では日本の帝国主義政策が不純ということになってしまう。

 1902年に政府によって設置された国語調査委員会は調査方針の一つとして「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」をあげている。なるほど、言文一致に関しては、文学者が積極的にかかわっているように、民間主導で達成されているのに対して、標準語を目指す国語は、文学以外の領域で始まり、学校現場を通じて、広まっている。けれども、自然主義文学から派生したドメスティックな文学である私小説という特殊な文学ジャンルが日本近代文学の主流となっていく過程には、帝国主義政策が関連している。日本の国語政策が日本的帝国主義と不可分であるとしたら、日本近代文学はこの日本的帝国主義の産物である。それどころか、日本の帝国主義を強化する役割の一端を担っている。日本近代文学は、西洋の近代文学とは異なった方法で、植民地支配に荷担してきたのである。

 植民地支配の言語に及ぼす影響は、意識的であろうとなかろうと、小さくない。日本手話は、語彙の面で、韓国手話や台湾手話との共通点が多く、その原因をかつての大日本帝国統治と考える専門家も少なくない。

 なお、日本では二種類の手話が使われている。日本手話は、聾唖者の間で、自然発生的に生まれ、日本語とはまったく別の言語である。他に、日本語を逐語的に翻訳した日本語手話がある。前者は音声言語による会話以上に微妙なニュアンスを表わせる非常に豊かな原義であるけれども、中途失聴者にとっては習得が難しいとされている。そのために後者の必要性が説かれていたはずなのだが、従来、教育現場やメディアではこちらがあまりにも優勢となっている。両者の位置付けや関係をどうすべきか関係者の間で議論が続いている。


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