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ジョン・スチュアートとハリエット(1)(2005)

Living Together, Growing Together
─ジョン・スチュアートとハリエット
Saven Satow
Aug. 17, 2005

「自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬ていた。
『百年はもう来ていたんだな』とこの時始めて気がついた」。
夏目漱石『夢十夜』
“And that’s the place for me, the only place for me
No one remembers, no one remembers…”
Hal David & Burt Bacharach “No One Remembers My Name”

1  I’ll Never Fall In Love Again
 一八三〇年夏、二二歳の裕福で可憐な女性ハリエット・テイラー(Harriet Taylor)はゼーレン・キルケゴールの言う「人生行路の諸問題」について深く悩み、思いあまって、それを所属するユニテリアン教会の牧師に相談する。彼は自ら答えず、気鋭の知識人として注目され始めたジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)と会うことを勧め、晩餐会が彼女の邸宅で催されることになる。

 招かれたこの二四歳の思慮深き若者は、彼を待っていた女性の魅力──小柄で華奢、栗色の髪、大きな潤んだ瞳、すらりとした肩、透けるような白い肌、小鳥を思い起こさせる抑揚のある声、明晰な頭脳、芸術への理解、でしゃばりすぎない態度──に一目ぼれし、彼女の方も、繊細で端正なマスクと雰囲気のある体躯、上品な立ち居振る舞い、類稀なる知性に惹かれてしまう。お互いに社会的関心や問題意識、価値観、教養、美的センス、容姿、物腰などどれをとっても申し分なく、「こんな素敵な人とはもう二度と会えない。この人しかいない」と確信したとしても不思議ではない。

What do you get when you fall in love?
A guy with a pin to burst your bubble
That's what you get for all your trouble
I'll never fall in love again
I'll never fall in love again

What do you get when you kiss a guy?
You get enough germs to catch pneumonia
After you do, he'll never phone ya
I'll never fall in love again
Don’t you know that I'll never fall in love again?

Don't tell me what it's all about
'cause I've been there and I'm glad I'm out
Out of those chains, those chains that bind you
That is why I'm here to remind you

What do you get when you fall in love?
You only get lies and pain and sorrow
So far at least until tomorrow
I'll never fall in love a- gain
No, no, I'll never fall in love again

Ahh, out of those chains, those chains that bind you
That is why I'm here to remind you

What do you get when you fall in love?
You only get lies and pain and sorrow
So far at least until tomorrow
I'll never fall in love again
Don’t you know that I'll never fall in love again
I'll never fall in love again
(Hal David & Burt Bacharach “I’ll Never Fall In Love Again”)

 ジョン・スチュアートは、その死後刊行された『自伝(Autobiography)』(一八七三)の中で、彼女が一般に「美人で才媛である」と思われ、「ごく親しい人たちからは、深い感情の持主で、鋭い直観的な知性ときわだった瞑想的・私的な資質をそなえた人」と見られていたが、「カーライルより詩人であり、私より思想家」であると次のように絶賛する。

 彼女のばあい、あらゆる種類の迷信(略)から解放されていたことも、今なお社会の動かしがたい構成分子の一部とされている多くのものに熱心に抗議を放っていたことも、どぎつい知性の産物ではなく、みな高貴な感情の鋭さから出たもので、一方では敬うべきものに謙虚にへりくだる性質をも合わせ持っている人であった。気質や性格のみならず一般的な精神的特徴の点からも、私はしばしば当時の彼女を詩人のシェリーになぞらえたものだが、思想や知性の点のなると、シェリーは彼の能力がその短い一生の間に発達をとげたかぎりでは、彼女の最後の姿にくらべてはほんの子供みたいなものであった。
 試作の非常に高い領域と日常の小さな実際的な仕事を問わず、彼女の頭は同じ完全な働きを示して、問題の核心にせまり、常に本質的な観念なり原理なりをつかんできた。あれだけの性格ですばやい仕事ぶりが知的・感情的両方の能力に行きわたっていたのだし、合わせて感情にも想像力にもあれだけめぐまれていたのだから、彼女はこの上もない芸術家にもなり得ただろう。
 同様にあの熱烈でやさしい気立てとあの活発な能弁は必ずや彼女を大雄弁家たらしめたろうし、またあの人間性への深い知識と実生活における抜け目なさ賢さとは、もしもそのような道が女性にも開かれていた時代だったら、彼女を人類の統治者のうちでも有数のものにしただろう。

 パーシー・ビッシュ・シェリーは、イギリス・ロマン派の中で、反社会的と見なされるほどラディカルであり、 その生涯は作品以上に世間に物議を巻き起こしている。彼は『無神論の必然性』を書いてオックスフォード大学から追放され、ハリエットという妻がありながら、後に『フランケンシュタイン』の著者として知られるメアリー・ゴドウィンとヨーロッパ旅行に出かけ、イギリスに戻ってしばらくすると、本妻がハイドパークの池で入水自殺してしまうが、その三週間後にメアリーと再婚し、追い出されるように渡った大陸を放浪した挙げ句、ヨット事故で命を落としている。

 また、トーマス・カーライルは毒舌家として知られているだけでなく、ジョン・スチュアートを「快楽の計算機」と酷評するのみならず、「馬鹿」呼ばわりした人物であるにもかかわらず、両者の友情は感動的でさえある。不寛容なこの嫌われ者は唯一の友と言っても過言ではないジョン・スチュアートにフランス革命に関する原稿を送ったものの、その誠実なる友人が不注意からそれを燃やしてしまったが、謝罪を受けた後、書き直した原稿を再度彼に郵送している。ロマン主義を体現した詩人の「気質や性格のみならず一般的な精神的特徴の点」からも凌ぎ、また、『衣装哲学』の作家の文体は、ドイツ文学からの影響のせいか、回りくどく、無骨ながら、力強さに溢れ、高揚感があるけれども、それ以上の詩的才能を持っているという賞賛は並々ならぬものであろう。

 このめぐり逢いに抑えきれない歓喜で魂を震わせながらも、ジョン・スチュアートは、ハリエットも同様に、少々落胆せざるを得ない。と言うのも、ヴィクトリア朝の人々は彼女を「テイラー夫人(Mrs. Taylor)」と呼び、残念ながら、彼を招待したジョン(John)という夫がいたからである。

2 This Guy's In Love With You

You see this guy, this guy's in love with you
Yes I'm in love who looks at you the way I do
When you smile I can tell it know each other very well

How can I show you I'm glad I got to know you 'cause
I've heard some talk they say you think I'm fine
This guy's in love and what I'd do to make you mine
Tell me now is it so don't let me be the last to know

My hands are shakin' don't let my heart keep breaking 'cause
I need your love, I want your love
Say you're in love and you'll be my guy, if not I'll just die

Tell me now is it so don't let me be the last to know
My hands are shakin' don't let my heart keep breaking 'cause
I need your love, I want your love
Say you're in love and you'll be my girl, if not I'll just die
(Hal David & Burt Bacharach “This Guy's In Love With You”)

 ハリエット・テイラーは、一八〇七年、『テス』の作者トーマス・ハーディーの遠戚にあたるハリエット・ハーディー(Harriet Hardy)としてロンドンに生まれ、二六年、一八歳のとき、成功した薬の卸売業を営む濃い眉毛が特徴的なもさっとした風貌の二九歳のジョン・テイラーと結婚する。

 この冴えない容姿の男は、彼女と違い、芸術や学問に関してまったく素養がなかったが、太っ腹で、熱心なユニテリアンの信者であり、大陸からの亡命者をかくまう自由主義者である。と同時に、自分にはもったいないほどの美貌と知性を兼ね備えた女性を妻にしたものの、嫌われるのが怖くて、愛情深くとも、過度の干渉をすることを避け、彼女の悩める姿におろおろするだけの単純ながら心優しき叩き上げの人物である。

 この夫婦は、二七年に、ハーバート(Herbert)、三〇年、ハジ(Haji)ことアルジャーノン(Algernon)、三一年には、リリー(Lily)ことヘレン(Helen) の三人の子を儲け、ジョン・スチュアートと出会ったのは、ハジを出産したすぐ後のことである。

 しかし、ジョージ・ハリソン夫人パティとエリック・クラプトンのごとく、それはジョン・スチュアートにとっても、ハリエットにとっても、運命を信じることに通じても、親密さを増す障害にはならず、二人はお互いの気持ちを確かめ合っていく。

3 Promises, Promises
 イギリスの知的シーンは、これまで、デヴィッド・ヒュームやジェレミー・ベンサム、ジョージ・バーナード・ショーなどとびきり風変わりな人物をつねに輩出してきたが、現在に至るまで古典的リベラル派のプロトタイプと見なされているジョン・スチュアートは、比較的、常識的な知識人である。もっとも、それは二点、すなわちハリエットへの想いと早期教育を除いてという条件がついてであり、彼と彼女は、ゼーレン・キルケゴールとレギーネ・オルセンと並んで、哲学者の恋愛として最も語られ、男性はどこまで一人の女性を愛し続けられるのか、あるいは待ち続けられるのかという愛の力に対する問いかけへの一つの具体例として歴史に残っている。保守的で陰険、偽善的なヴィクトリア朝のお高くとまった人々からは急進派扱いされたものの、ジョン・スチュアートは、その著作において、バランス感覚のいい知性であるけれども、この愛の持続と尋常ではない英才教育によって、イギリス伝統の型破りな知識人として列席できるだろう。

 当時最高の知識人ジェレミー・ベンサムの友人であると同時に、功利主義普及を使命と固く信じていた豪胆無比な弟子の父ジェイムズの早期教育はジョン・スチュアートの知性を開花させる。ジョン・ロックのタブラ・ラサ説が支配的な島国で、ジェレミーも四歳からラテン語を独習し始め、六歳を前にその学術語による見事な作文を書き上げ、ウェストミンスター・スクールやオックスフォード大学のクイーンズ・カレッジでの勉強を一八歳までに終えながらも、「この世の牢獄」と唾棄する学校嫌いであり、この影響下の教育方針は、当然、学校無視にならざるを得ない。

Promises, promises
I'm all through with promises, promises now
I don't know how I got the nerve to walk out
If I shout, remember I feel free
Now I can look at myself and be proud
I'm laughing out loud

Oh, promises, promises
This is where those promises, promises end
I don't pretend that what was wrong can be right
Every night I sleep now, no more lies
Things that I promised myself fell apart
But I found my heart

Oh, promises, their kind of promises, can just destroy a life
Oh, promises, those kind of promises, take all the joy from life
Oh, promises, promises, my kind of promises
Can lead to joy and hope and love
Yes, love!!

Every night I sleep now, no more lies
Things that I promised myself fell apart
But I found my heart

Oh, promises, their kind of promises can just destroy a life
Oh, promises, those kind of promises take all the joy from life
Oh, promises, promises, my kind of promises
Can lead to joy and hope and love
Yes, love!!
(Hal David & Burt Bacharach “Promises, Promises”)

 一八〇六年五月二〇日ロンドンに生まれたジョン・スチュアートは真の教育の妨げにしかならないという理由で一度も学校に通うことはないだけでなく、弟たちに教えることはあっても、人生を通じて、大学であっても教鞭をとることもない。彼は、暗記を中心とした詰めこみ教育、すなわちインドクトリネーション(]indoctrination)ではなく、観念連想の心理学に基づいていると言っても、三歳からギリシア語、八歳にはラテン語や幾何学・代数学を学び始めている。

 スコットランド出身の野心家は九人兄弟の長男にのみこの英才教育を課し、詩は迷信だと切り捨て、感情など卑しきものと罵り、宗教は道徳の敵であると家族の間から追放したはっきりした人物である。トーマス・ロバート・マルサスやデヴィッド・リカードゥなど話題の知識人が頻繁に家へ訪れ、ジョン・スチュアートは、その中でも、酒もタバコも嗜まない白髪で馬面、帽子を頭の天辺に載せたジェレミーおじさんになつき、定職に就かず、父の遺産で生涯を暮らしたこの有名人もその坊やを「われわれの偉大な後継者」と呼んでいる。

 一〇歳の頃までに、プラトンやデモステネス、ヘロドトスなどの古典を読破し、父ジェイムズによる著作『インドの歴史(The History of India)』が刊行された一八一八年、スコラ論理学とアリストテレスの論理学、翌年から、アダム・スミスや デヴィッド・リカードゥの政治経済学を研究している。もちろん、同世代の子と遊ぶ時間が入りこむ余地はなく、散歩中でさえも父による指導は続き、デヴィッド・ヒュームやエドワード・ギボンの歴史学の習得、すなわちインカルケーション(Inculcation)に当てられ、彼が質問に答えられない、もしくは不十分な解答を示した場合、容赦なく、叱責されている。ジョン・スチュアート本人は、『自伝』の中で、この一連の教育について「普通の能力と体力の持主だったら、どの子どももなしとげられることである」と回想しているが、これは、発達心理学や教育心理学において、環境と遺伝、あるいは学習カリキュラムと発達段階をめぐる極めて興味深いと同時に特殊なモデル・ケースとして扱われている。

 ジェイムズが自身による教育課程の修了と判断した一四歳のとき、南仏のアヴィニョンで、ジェレミーの弟サミュエルの家族と暮らした一年間はジョン・スチュアートに精神的な開放感をもたらしている。ジトジトと雨が降り続き、排煙のせいで煙たく、気の滅入るような暗い霧の日の多いロンドンと違い、プロヴァンス地方は明るい陽の光に溢れ、空気は澄み、それによって鮮やかに映える風景は彼の心を晴れやかにしてくれる。かの地は、彼にとって、ヨハン・ヴィルフガング・フォン・ゲーテのイタリア同様、生涯かけがえのない場所であり、フランスの情勢や文献に関心を持ち続けたきっかけとなる。フランス語を習得し、フランスの知識人と交友を深め、社交界にも出入りしている。

 その後も、ことあるごとにこの魅惑的な地を訪れ、長期間すごしている。「フランス人の交際の打ちとけた友好と愛想のよさは、他人を(ほとんど例外なしに)仇敵か厄介者のように扱うイギリス人の生活様式とは対照的であった」(『自伝』)。ただし、熱心に女性の権利拡大を唱えた彼の信条に反して、二〇〇五年現在、フランスの下院における女性議員の比率は一五%にとどまり、お粗末極まりない日本よりましだが、イラクやアフガニスタンを下回る。一八二三年、父が勤務する東インド会社(British East India Company)に就職し、会社が廃止されるまでの三五年間、この後のイギリス帝国主義の象徴とも言うべき企業に在職していく。



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