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「マヨヒガ」からのメッセージ(3)(2020)

第三章 昔ばなしの分析法
 昔ばなしの分析には大きく解釈的アプローチと歴史的アプローチの二つがあります。前者は確立された理論に基づいて解釈する方法です。後者は歴史研究の成果を参照して読み解く方法です。

 解釈的アプローチの一つとしてユング派の心理分析を挙げることができます。登場する人物や物事、存在、出来事を普遍的な象徴であると解釈するものです。しかし、それはユング派の理論を受け入れることが前提となります。その解釈の妥当性はユング派の理論体系が保障するものです。いささか我田引水の趣があります。

 また、物語分析など形式主義的文学研究の方法もあります。中でも、ウラジーミル・プロップの研究がよく知られています。これは民話群を構造に着目して比較・分類、システム論的に登場する存在・事物・出来事を機能によって解釈する者です。

 日本の民話でも「隣の爺」型や「動物報恩」型といった分類があります。「隣の爺」型は隣り合う二軒があり、一方がよい住民、他方が悪い住民です。前者が福を手にした話を後者が真似するものの、それに預かれません。また、「動物報恩」型は親切にすると、その動物が恩返しするというものです。この二つの型の融合の一例が『花咲か爺』です。こうした研究は民話群の見通しをよくしてくれます。

 歴史的アプローチは史学や民俗学の研究成果を用いて作品背景や登場人物、事物、事件出来事、超自然的存在などを読み解きます。昔ばなしは前近代の庶民の暗黙の前提に基づいていますから、それを理解するためには、その知識が不可欠です。

 学術研究では実証性が要求されます。文書史料がない時代であっても、遺跡や遺物といった考古史料の他、人口・地理・気象などの変遷に関する科学的データを用いるなどして過去を探ります。また、言い伝えや伝説、文学も実証研究を補強する史料となります。と同時に、他の史料からはわからない、当時の人々の考え方がそこから浮き彫りになります。歴史家はさまざまな文字史料を読みこみ、考古史料・科学的データを吟味した上で、文学に当たります。その理解の精度は文学研究者よりしばしば上です。昔ばなしの考察にこういった研究の成果は今や欠かせません。

 昔ばなしの起源を辿ったり、系譜を描いたりする研究もこのアプローチに含まれます。『浦島太郎』は『丹後國風土記』の「浦島子」の物語が起源とされています。漁師の島子は一匹の魚も釣れず、三日三晩海をさまよった後、天上の国に辿り着き、その世界を見聞するのです。こういった文学史研究もこのアプローチの一つです。

 昔ばなしを聞いても、前近代の制度をはじめ社会構造を理解することは困難です。しかし、民衆の集合知識を知ることができます。起源や系譜が明らかになったとしても、暗黙の裡に形成された民衆の集合知は必ずしも明示化できません。起源の情報はその暗黙知の吟味に必要な際の参照にとどまります。

 竹内利美は「マヨヒガ」を語り継いできた伝承者の心情だと言っています。竹内は『伝統と現代』(一九六九)所収の「ユートピアとしてのかくれ里」において「六三」を取り上げ、それを村人のユートピア観だと論じています。立派な門構えや紅白の花、多くの家畜、朱と黒の膳椀といった福禄円満な生活をイメージした描写を「小楽土」と評します。しかし、そうしたユートピアは、むしろ、後に述べる『ウグイス長者』などの昔ばなしの方がふさわしいでしょう。この説明では、「六三」の謎とそれがどのように整合性があるのかわかりません。主人公がなぜ恐怖を覚えて逃げ出したのかやなぜ盗みが許されるのか不明です。昔ばなしを民衆の集合知識とする認識は適切であっても、方法論がそれにふさわしくないので、こういう我田引水に陥るのです。

 社会構成主義の登場に伴い、こうした心情の読解が多く提示されています。しかし、それは近代人の願望を前近代のお話に乱す倒錯であることも少なくありません。「隣の爺」型が民衆の上昇願望を反映したよい住民と現実の自分たちに近い悪い住民の話であり、その失敗を通じて自身の境遇を納得させているという説はこの一例です。これは近代的作品重要です。近代小説の登場人物である近代人は読者にとって等身大です。自分と同じ内面を持っている前提に基づいて共感するわけです。前近代の民衆は近代人ではありませんので、これは成り立ちません。規範の共有を理解の前提にするからです。

 社会的メッセージは一つの話だけを分析しても明らかになりません。口承文学ですから拡散や偏差があり、昔ばなし全体を集合として捉えて臨む必要があります。それは、昔ばなし郡を民衆の集合知識の表象と認知し、お話を通じて共時的・通時的に伝えられてきたメッセージを明示化する方法です。その際、効果的なのが「タグ」の発想です。

 ブログやSNSに文書や画像、動画を投稿する際、検索しやすいように、その内容に関連する情報を「タグ」としてしばしば付記します。タグは一つのファイルに複数個付けられます。タグを使って、そのトピックに関するファイルを収集して閲覧することができます。禁煙ではタグよりもその拡張である「ハッシュタグ(#)」の方が知られています。従来のタグはファイルにつけるラベルでしたが、ハッシュタグはSNSの文章内に入れることができます。

 個々の昔ばなしにもその内容に関連する情報が数多く含まれています。例えば、『浦島太郎』であれば、「漁師」や「海」、「カメ」、「恩返し」、「母子家庭」、「竜宮城」、「お姫様」、「玉手箱」、「時間旅行」といったハッシュタグが思いつきます。それぞれのタグは他の昔ばなしにもあります。タグを共有する昔ばなしにあたり、そのトピックがどのようにどう扱われているかを把握します。扱い方には複数の傾向が認められることもあります。「竜宮城」は海の場合だけでなく、川や湖、沼の場合もあります。また、類似するトピックとの傾向の違いもあることでしょう。「カメ」と「カニ」、「エビ」、「クジラ」など水中に生息する生物ですが、昔ばなしの中で扱われ方に類似・差異があります。お話はハッシュタグで各々が複雑にリンクされています。この方法論はタグを解析するので、「タグ解析」と呼ぶこともできるでしょう。

 譬えて言うなら、昔ばなしのデータベースがあるとしましょう。その中に収められているお話にはさまざまなハッシュタグがついています。あるタグを検索すると、それがつけられたお話が明示されます。そうした話の中でタグの対象がどのように扱われているかを一つ一つ確認します。扱われ方の傾向に応じて分類します。それを解析してタグの伝える社会的メッセージを明らかにするわけです。

 そうした扱い方を分析することによって、そのトピックが民衆の集合知識の中にどう位置づけられ、それを通じていかなる社会的メッセージが伝えられているかが明らかになります。その暗黙知を明示知にする試みがタグ解析です。

 非専門家による口承文学の昔ばなしにおいて一つの作品を詳細に読解することの意義はありません。「マヨヒガ」について自説の論拠として『遠野物語』の推敲に言及する考察があります。『遠野物語』の成立過程を研究する際には必要でしょうが、口承文学を文字文学と同様に扱うのは恣意的です。そうした質的認識ではなく、多数のお話にあたって傾向を捉える量的批評が集合知には適切です。その上で、典型的もしくは顕著な例として個別の物語を具体的に解説することになります。タグの傾向は概して複数あります。しかし、それは一つの対象に複数の見方があるわけではありません。かつての民衆にとって、当時の時代的・社会的事情に基づくなら、複数の傾向がある方が合理的なことを意味します。それは認識論的ではなく、存在論的要請です。

 ただし、お話だけにあたっていても、社会的メッセージはつかめません。昔ばなしは語り手と聞き手が場を共有して伝えられます。この場は前近代の政治的・経済的・社会的背景に基づき、宗教的・道徳的規範の共有が前提になっています。すでに指摘した通り、それらの知識がなければ、昔ばなしの意味が十分に理解できません。文学のみならず、民俗学や人類学、地理学、人口学、政治学、経済学、社会史などの知識が不可欠です。

 また、昔ばなしにはさまざまな病気や生物、災害といった言及があります。今日の科学的知見によってそれらの理解を深めることも考察には必要となります。医学や生物学、物理学、化学、気象学など自然科学分野の知識も必須です。

 こうした解析の具体例として「病」について考えてみましょう。

 昔ばなしにおける病は、その扱い方によって、急激に病状が悪化する感染症とそれ以外に分けられます。前者では患者は助かりませんが、後者は改善します。

 インフルエンザや肺炎、百日咳といった急性の感染症の患者に奇跡は起きません。それを扱う昔ばなしでは、残された人がその死をいかに受け入れていくかが描かれます。その際に、心の支えになるのが仏教です。

 好例が栃木県の『お花地蔵』です。両親を亡くしたお花という少女がお春婆さんと二人で暮らしています。男の子とチャンバラをするほど活発な女の子でしたが、冬に百日咳により急死します。お婆さんは嘆き悲しみ、食事もろくにとらず、一日中、仏壇の前を離れません。しかし、ある日、お花が無事に両親の元に行けるようにと彼女の地蔵を彫り始めるのです。小さな石の地蔵は春に完成、「お花地蔵」と呼ばれるようになります。お花の好きだった炒り米をこの地蔵にお供えすると、子どもの百日咳がよくなると言われているのです。

 一方、喘息を始めとする慢性疾患や変形性膝関節症など老化に伴う身体疾患、心理的要因による転換症状は主に宗教を含む超自然的な力により治ります。前者二つの疾病は症状の悪化が緩やかですので、治ったと思わせることができます。実際に治癒していなくても、本人がそう感じていればよいのです。また、プラセボ効果もあります。信じることによって疾病が改善することはあり得ます。岐阜県の『ずいたん地蔵』が一例です。

 転換症状は、生理的機能に問題がないのに、心理的要因によって身体機能が変調を来たすことです。失立失歩の他、目が見得なくなったり、耳が聞こえなくなったりするなどさまざまな症状があります。昔ばなしで祟りによって元気だった娘が突然寝たきりになることはこれでしょう。この転換症状は治癒します。視力を回復したり、歩けるようになったりする奇跡は心理療法による転換症状の治癒と推測できます。岩手県の『ききみみ頭巾』や徳島県の『仙人のおしえ』、岡山県の『立岩狐』などに転換症状からの回復が認められます。

 ただし、治癒に関しては、仏教以外の超自然的力が作用する昔ばなしが少なくありません。例として挙げた三つもそうです。

 なお、麻疹・天然痘・水痘は、江戸時代、三大疫病と呼ばれ、特に前二つは古代より多数の死者を出したため怖れられています。疫病は社会的感染症ですから、民衆に限らず、為政者の願いも治癒ではなく、沈静化が主です。それは共同体全体にとっての存亡にかかわる脅威です。社会の上層から下層に至るまで神仏にその終息を祈願するのです。

 疫病からの回復の昔ばなしは少ないのですが、あります。その一つが『黄鮒』です。これは栃木県宇都宮市の民芸品「きぶな」の由来として知られています。昔、天然痘が流行った時に、黄色い鮒が田川で釣れ、それを患者が食べると、回復したと言います。黄色の鮒は疫病に効きますが、なかなかつれません。そこで人々は黄色い鮒を模した縁起物の張り子を作って正月に軒下に吊るしたり、神棚に供えたりする習慣が生まれたとされています。

 この物語には神仏の言及がありません。また、鮒にはさまざまな色の種類があり、黄色もその一つです。天然痘からの回復に宗教的、あるいは超自然的力が働いたわけでもありません。

 黄色の鮒は確かに実在しますが、珍しいものです。これがこの昔ばなしのポイントです。致死率が高いけれども、天然痘を発症しても助かることはあります。 黄色い鮒を釣り上げるくらいの可能性はあるのです。ですから、天然痘を発症しても諦めず、希望を持つべきだというわけです。黄鮒は疫病かの回復の希望の表象であり、これがこの昔ばなしのソーシャル・メッセージです。

 こうした病の扱い方から当時の民衆は仏教に癒しの役割を期待していたことがわかります。僧侶がカウンセラーや心理療法家の役目を果たすことはあったでしょう。しかし、病を治すのはあくまで医学であり、宗教は人を癒すものです。民衆は宗教をケアとして医学と別の役割を期待しています。昔ばなしにおける病はこういった社会的メッセージを持っているのです。

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