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日本文学の読まれ方(2012)

日本文学の読まれ方
Saven Satow
Oct. 11, 2012

「私、アメリカにいた時、『源氏物語』が大好きで、日本人に読んだことあるって聞いたら、誰もないって言うの、不思議だった、こんなに面白いのに。逆にね、日本人はシェイクスピアがすごく面白いって言うの。不思議だった。私は読んだことない。だって全然わかんないんだもの。でも、今はその理由がわかった。どっちも翻訳で読んでたのよ」。
あるアメリカ人女性

 一般的に言って、日本人の西洋文学に関する知識は西洋人の日本文学についてのそれよりも高い。ハンガリー文学やコルシカ文学といった個別の事情になると、もちろん、その限りではない。あくまでも概してという条件下の意見である。これには欧米に追いつけ追い越せという近代化の姿勢が影響している。

 当初、近代文明の輸入の際に、明治のエグゼクティブは和魂洋才で事足りると踏んでいる。しかし、実際に近代化を進めてみると、日本の事情に合わせるにしても、それを生み出した社会的・歴史的背景を知る必要を痛感する。悲願の不平等条約の改正にしても、欧米の制度を採用しただけでは、列強は納得しない。重要なのは運用だ。夏目漱石を始め知識人層は開化を皮相上滑りにならないようにと西洋の文化研究を深めていく。西周を代表に彼らが西洋語の翻訳から編み出した新漢語は日本のみならず、東アジアで広く共有される。

 文学の翻訳の選択も個人的嗜好ではなく、現在ならびに将来の日本に必要であるかどうかが基準となる。逍鴎論争のように、その妥当性をめぐって激しい議論が沸き起こる。西洋の文化の理解には誤解や曲解などもあったけれども、それを可能にする背後を考慮する姿勢は認められる。作品や作家の個別的事情にとどまらず、日本の現状と課題を浮き彫りにするためにも、その歴史的・社会的背景に関する深い理解が求められる。研究者は訳文自身の適切さは言うに及ばず、その背後についての知識・洞察の質と量も競争対象となる。

 戦前、日本語による高等教育向けの教科書がなかったため、研究をするには外国語の習得が必須である。いかなる分野に進もうとも必要なので、旧制高校で語学が叩きこまれる。語学教室での結びつきは強く、同窓会に呼ばれるのはたいていこの語学教師である。旧制高校は、そのため、「語学学校」の別名がある。外国文学の研究者は、中でもさらにできる学生が集まるのだから、知的競争の圧力も非常に強い。ただし、これは翻訳の出来栄えに直結していたわけではない。

 日本における外国文学研究は、テーマではなく個人中心であるが、コンテクスト指向の傾向がある。これは欧米以外の領域でも共通している。一般的に言って、日本人は、中国を別にすれば、日本十進分類法が示しているように、欧米以外の地域の文学に詳しくない。スリランカやギニアの文学について通じている人は少数にとどまる。しかし、そうした地域の作品の翻訳であっても、個別的事情のみならず、それが属する歴史的・社会的背景に関する註や解説が豊富に用意されている。外国文学研究ではこういった姿勢が当然だからだ。

 今日では日本の外国文学研究も様変わりしつつある。進学動悸は個人的なものが主だし、欧米一辺倒でもない。半面、大学における外国文学研究の存在感も低下している。公開大学の放送大学では、特定の外国文学の講座がすでに開設されていない。

 この現状も少々やむを得ない節がある。ノーベル文学賞が発表されると、専門家による作家と代表作についての解説が新聞紙上に掲載されるが、意味不明であることが多い。池上彰は、2010年10月29日付『朝日新聞』の「池上彰の新聞ななめ読み」において、その年のノーベル文学賞受賞者マリオ・バルガスリョサをめぐる新聞各紙の解説記事をチンプンカンプンだと批判している。この例を挙げるまでもなく、研究者は文学共同体内でわかったつもりになっているとしか思えない。

 ところが、西洋における日本文学の翻訳は事情が異なる。先行者にとって、追随者の文学は特に必要ではない。行き詰まりを感じた時に、それを打開するヒントを提供してくれると期待された場合にのみ目を向ける。能や俳句がそうした好例である。

 日本にも、正直、こうした動きは経済成長達成後に見られる。1960~70年代にかけて、日本でも中南米の文学が流行したが、その地域に関する歴史的・社会的理解が必ずしも深まったわけではない。マジックリアリズムという方法論が行き詰まりの打開策として歓迎されたからだ。

 日本文学をこれまで世界に紹介してきた多数の研究者の苦労には感謝しきれない。分厚い研究書も少なからず刊行されている。それらはまさに日本文化への貢献である。その人たちのことを決して忘れはしない。

 骨の折れる作業という理由もあって、専ら訳者の好みが優先され、ある程度読者層が見込める作品が選ばれる。文化的コンテクストに深く結びついた作品は避けられ、異国趣味や不可解さを感じさせるもの、極端に素朴なものが好まれる。川端康成や谷崎潤一郎、三島由紀夫、安部公房、村上春樹、吉本ばなななどが翻訳の中心になる。近年、ピアニストのグレン・グールドが愛読者だったこともあり、夏目漱石もこれに加わっている。他には、文学史などの体系と関係なく、研究者の嗜好品が日本文学として堆積する。

 司馬遼太郎や城山三郎は日本の歴史的・社会的背景と強く関連している。こうした作品はどれだけ国内で売れたり、影響を持ったりしても、翻訳の対象になりにくい。

 日本文学を専攻した動機も状況より個人的理由が少なくない。以前は戦争の際の諜報や国交正常化のための任務から入ったものだが、親の仕事での滞在や自身の交換留学の経験がきっかけだったりする研究者もいることだろう。最近はサブカル好きの延長といったところだ。個人的動機で思想や信条を選択すると、嗜好性が強くなる。

 欧米の日本文学の博士論文にしても、作者の生涯と翻訳だけというのがかつての実情である。作家の家族関係をシステム論によって捉え、その力動と作品への繁栄から明らかにするという意欲的な試みはまったくない。

 翻訳は、極端に小説に偏る。詩や演劇は少数にとどまり、批評に至っては、限りなく皆無に近い。近代文学は、自由で平等、独立した個人の社会を前提にするため、社会における共通理解をその都度つくる必要がある。批評家は作品が今肯定的・否定的に評価されなければならない根拠づけを示すパイロットである。その作品のコンテクストを考える際に、批評が欠かせない。けれども、コンテクストを無視するのであれば、翻訳は批評を必要としないし、そもそも嗜好にそぐわない見解の場合もある。多数の作品が翻訳されている村上春樹は、デビュー以来、柄谷行人を代表に理論指向の批評家から認められたことはない。

 もっとも、日本側が独自に現代日本文学翻訳・普及事業(JLPP)を進めていたが、小説偏重は相変わらずで、選択のラインナップにも文学史などの体系が見出せない。本を読んでもらいたいのなら、子どもに対してそうであるように、多種多様な作品を用意し、その中から選んでくれればいいという姿勢が不可欠だ。読んで欲しい作品だけでは不十分だ。読まなくても構わないけれど、読んでもいいものだという作品も要る。なお、この翻訳プロジェクトは民主党連立政権下で廃止が決定されている。

 ポール・アンドラのような批評好きは奇人変人といったところだ。確かに、日本の批評家は西洋思想の輸入業者だったり、論拠を示さず感想を口にしたり、我流の用語や論理展開をしたりする者も少なくない。現在も含めて、そうした評論家の流行は後を絶たない。そういった事情を認めるにしても、あまりにも極端だ。日本の外国文学研究も小説中心であることはその通りだが、評論も訳出している。

 国内でいかに影響を与えたとしても、日本の批評が翻訳されることは稀である。また、日本文学史に関する高等教育用の優れた教科書も、訳されている作品が偏重していることもあり、利用されることもめったにない。主要作品がペーパー・バックで容易に読める状況でないと、教科書を活用して講義で体系的な議論をしたくてもできない。加藤周一の文学史などは例外中の例外だ。

 コンテクストを考慮しないですむ作品を選ぶこともあって、海外の日本文学研究者は、一般的に言って、日本の歴史・社会に思った以上に詳しくない。これは、もちろん、既存の翻訳の出来栄えを指していない。驚くほど精通している人もいるが、学校教育や大衆文化、マスメディア等で地理・歴史に親しんでいる通常の日本の人々より高くない研究者が少なくない。こうした認識は日本人にとって暗黙知であり、外国人は意識的に明示化しないと身につかない。なお、言語として日本語を研究している人たちは平均的に水準が高い。

 これはあくまで日本文学が置かれた環境であるが、他の地域・言語の文学においても固有の事情があるだろう。こういった関係の中にある世界の文学が「ノーベル文学賞」として選考されることの意義ははなはだ疑問である。ノーベル経済学賞が左翼に与えられないのは有名な話だが、西洋の主要言語以外はそれへの翻訳に依存するのなら、いくら非西洋へも配慮すると言ったところで、馴染まない作品は最初から資格がない。文学とは小説や詩、演劇だけであって、一般の批評はその名に値しない。ノーベル文学賞だけが現代の唯一の批評だというわけだ。

 一般の日本人にとって、日本文学が海外で読まれていることだけで嬉しいので、水準は気にしていない。ただ、いつまで経っても、欧米の映画で描かれる日本に、中国とごちゃ混ぜになっている部分がある理由をそろそろ考えた方がよい。

 現在の海外における日本文学研究は広がりを見せている。しかし、読まれ方の点では、対象指向がさらに促進し、コンテクスト指向が後退している。恣意性が恥ずかしげもなく、露出されている。とは言うものの、非ネイティブ・スピーカーの日本文学作家も活躍しているし、今後の展開には大いに期待できる。

 文学は、ポストモダン状況を経て、何でもありが許されるようになったが、「イイネ!」を誰かにつけられなければ、埋没してしまう。何らかの共感に基づいたコミュニティを形成することが文学の目的であり、評価となっている。作者と読者の間の主観的な価値判断に立脚しているのだから、批評家を必要としない。それは日本文学研究がすでに体現していた光景である。畢竟、村上春樹がノーベル文学賞をとれるかもしれないとメディアが馬鹿騒ぎをしていることが行き着くところだ。12年10月8日付『岩手日報』紙上で有力視されていた莫言が受賞している。井上靖の成熟した姿が懐かしい。

 文学は賞のためにあるわけではない。次の時代は現状を相対化し、新たな共通基盤を構築することから生まれる。それは批評である。
〈了〉

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