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嘉村磯多、あるいは黒色エレジー(3)(2006)

5 私小説の文体
 私小説は日本文学にとっての涅槃原則として登場し続けている。その私小説において実生活は口実であって、最も重要なのは文体である。作品のリアリティを実生活で補うと見下されがちであるが、それを記す文体に工夫がなければ、リアリティは獲得できない。私小説は舞台が狭いだけに、作者が意識していたかどうかはともかく、技法を生かすには格好のジャンルである。私小説は知覚の冒険を体現している。当時を知るための史料として読むこともあるが、型にはまり、類型的な作品が多いとしても、その方法には興味深いものが少なくない。

 私小説は日常生活を扱っている点において、むしろ、困難である。と言うのも、読者自身もまさに日常を体験しているからである。日常生活を舞台にしたとしても、法的・社会的・時代的な網の目の中にある以上、そこから社会的諸問題を顕在化させることは可能である。人は、同じ地域であっても、その背景や志向の違いにより、異なった地図を認識している。警察官の把握した地理と不動産業者のそれとは同一ではないだろう。そうしたバイアスは読者にとって新鮮であり、そういった作品こそ待ち望まれている。

 ところが、多くの小説家が、社会性が貧弱なために、リテラシーとコミュニケーションが十分でないために、書き分けを今でもできていない。自分の経験してきたことに固着し、思いこみに囚われて、作品の方法が見逃されてしまう危険性が少なくない。文学作品を自分の体験と関連させて読むこと自体が偏向的行為というわけではない。しかし、所有してきた経験の枠内だけで作品を認識するのはあまりにも自己絶対的であろう。私小説を読む際には、その小説家自身が自己に没入しすぎていたとしても、シナリオを渡された俳優のように、自らの偏見を自覚し、自己批評を行う必要がある。

6 嘉村磯多の心理
 自己批評という点では、彼ほど欠如している作家も珍しい。精神的に未熟であるため、彼にはリテラシー・コミュニケーションの能力が著しく不足している。春原千秋が分析しているように、病的とさえ見受けられる。ある出来事の因果関係の説明に際して、あまり必然性が認められない事柄を関連させ、唐突で筋の通らない図式を持ち出し、意味ありげにまるで世界が陰謀に満ちているかのように語る。彼は色の黒さを拒まれる理由として辿り着きながらも、本来、そういう価値観に左右されないものからでさえ拒絶されていると感じている。

 彼は、『風の吹く日』(1933)の中で、風景について次のように感じている。

 去年の秋の二科の折に見た、鍋井氏の滝の絵も忘るることが出来ぬ。私の村には滝は二つあるが、鍋井氏の絵よりも陰気で、グロテスキュである。夏は滝壺から幾尾もの鰻が頭を揃えて滝の面に這い上がったり、傍の岩窟には馬頭観音が示己ってあったりして、気味が悪い。私は年々ああいう怪奇な風景が嫌いになって行く。この頃は風景でも、のんびりした、平凡な、それでいて艶のあるようなものの方が好ましい。
 私の村の隣村には、有名な長門峽がある。最近は耶麻渓をもしのぐ天下の名勝地に数えられている。私は青年時代には屡々そこへ遊びに行ったが、しかし今は、ああした壮大とか雄大とかいうべき、激しい水勢、高く尖った山、みんな冷酷なような気がして来た。思うだに慄然とする。あんな自然は、神経の衰弱を増すばかりか、人間の肉体にまで病気を起させる。

 風景から拒絶されているかの如く彼は記している。けれども、実際には、風景を擬人化している彼の方が拒んでいる。拒むこと=拒まれることは、彼にとって、同じである。拒絶を絶対値として捉えている。

 彼は、小尾範治がバルーフ・スピノザについて「彼は全く無私無欲であった」と述べたのに対して、1922年7月の安倍能成宛書簡の中で、次のように反論している。

 けれどもヴリースが与えようとした生活の資金を拒む心も一個の「慾」ではないでしょうか。自分の生活を世間的覊絆から離脱させようが為に、孤独がほしいその「慾」のために拒んだとすれば、やはりそこに対他的な「慾」があるとしか言えない。拒む心は勿論「慾」からなれど、拒む心も又偉大な「慾」ではないでしょうか。しかれば、無私無欲は誇張の文学にあらずや? 孤独でありたいと言うことも、主観の上から、人格の上から言えば横着な欲望ではありますまいか──と、ランプの下で、書を開き乍ら思いました。

 スピノザの願いはプライバシーを守りたいということであろう。サミュエル・ウォーレン(Samuel Warren)とルイス・D・ブランダイス(Louis D. Brandeis)は、1890年、「放置される権利(The right to be let alone)」を提唱し、これは古典的プライバシー権として現在知られている。私小説はまさにこの権利の尊重という問題に直面している。

 また、酒癖の悪い上司から「おれの酒が飲めんのか?」とからまれたり、後輩をいびることしか能のない先輩から「新入生は一気だ!」と無理強いされたりする酒の席での光景にうんざりしている人にとっては、彼の意見に同意はできないだろう。

 彼に、そうした社会的問いかけは眼中にない。彼にとって、正であれ、負であれ、「慾」は絶対値として理解されている。対他関係の作用を絶対値として把握するのは彼の特徴であるが、それは原因と結果の取り違えから生じている。原因と見なしていることが本当は結果である。彼は原因と結果を可逆的に同一視するため、作用を絶対値として把握してしまう。

 彼は、『七月二十二日の夜』(1932)において、拒まれなければ、自ら拒絶しなければならないという心理の反転を次のように記している。

 神楽坂の夜は今が人の出盛りであつた。いとけない児は手をひかれて立ち、年老いた人は杖にすがって歩いていた。私共は両側の夜店の、青々とした水を孕んだ植木、草花の鉢、金魚屋などの前で足を止めたりして坂を上った。肴町の交叉点近くの刃物店「菊秀」の前まで戻ると、疾から散歩の度毎に覗いて、欲しくて欲しくて堪らなく思っていたナイフを、今夜もまた見ようと思って明るい飾窓に近づいた。
「あのナイフですよ。僕が欲しがっているのは!」と、私はユキに人さし指で差して言った。
「お買いなさいましよ。三円五十銭?……いいじゃありませんか。思ひ切ってお買いなさいよ。買いそびれたらなかなか買えませんよ」
 ユキの応援にまだ躊躇していると、前垂れがけの小僧が、へえ、どれですか、と寄って来たのに誘はれて到頭私は店の中に這入ってしまい、あれこれ手に取り上げて鑑定したが、結局、予め気に入っていた品にした。私は大そう満足であった。この一挺のナイフを守り刀にして魔を払うて行こうといったような至極子供らしい考えに興奮して、大急ぎで家に帰った。
 私が思いがけなく買物をしたのでユキも喜んでくれてそわそわしていた。鞘には三つのボタンがついていて、安全弁を左に廻して置いて一つを押せば長い方、一つを押せば短い方、一つを押せば爪切りが跳ね起きる仕掛になっておるのを、私は代る代るボタンを押してはパチンパチンと跳ね起したり、折り畳んだりしていたが、突如、
「どうも、こいつは、狂いが来そうだな」
 そう言って私は顔を曇らせた。あれだけ欲しく思っていたものをやっと手に入れれば入れたで、直ぐ自分からケチをつけ出した不仕合せが恨めしかった。私は机の上にはふり投げたり、未練げに手に取ったりして暫らくの間苛々していたが、
「やっぱし、五円五十銭といったアハビ張りの方が簡単に出来ていていい。あの方にすればよかった。失敗した!」と、私は絶望的に言った。
「じゃ、アト二円足せばいいんですね。それではわたしが買いかえて来ましょう。あなたのことだから、そう言い出したら、夜っぴて眠らないんですからね。わたしまで眠られやしない。……取っ替えて来て今度はイヤとは言いませんね。よろしいですか?」
 心配して着物も着替えず側に寄り添っていたユキは、斯う念を押してナイフを蝦蟇口の中に入れ急ぎ勝手もとの下駄をつっかけたが、振り返って、「ほんとに五円五十銭も出せば、夏羽織だって古着なら相当のものがあるじゃありませんか。明日の会だって、あんな染め直しのよれよれを着て行って、あなたはそれでよくっても女の恥になりますよ。羽織を買おうと言えば呶鳴り散らしたりして、近頃ほんとにあなたは病気ですね」と言い捨てて出て行ったが、ものの三十分も経ったと思うと、顔じゅうに汗の粒を浮べぜいぜい息を切らして帰って来て、ナイフを手に握ったまま自慢そうに講釈を始めた。
「これは、ヘンケルと言って、ドイツの会社でも一番有名だって、そう主人が言いましたの」
「さうか、ヘンケル……なるほど」と、私はほくほくして言った。
「先刻のはハーデルと言うんですって。でも、ハーデルよかヘンケルのほうが一枚上だそうですよ。この上の品は菊秀にはないのですって」と、ユキはいよいよ調子づいた。
「さうか、ハーデル……あなたも感心によく覚えて来ましたね、お利口さん、どれ、かしてごらん」
 私は小づくり乍ら頑丈に出来たヘンケル製とかを手の腹に乗せ首を傾げて重量を計って見た。それから爪で中身を起したり、息で白く曇るのを袖で拭いたりして、ユキの鼻先に突きつけて揮り廻した。
「こうれ、おれの言うことを聞かんと、これだぞ」
「おお、怖い……」ユキは大袈裟に笑った。
 軈てユキは私に言いつかってナイフを入れる袋をこさえるため、押入に頭を突っ込んで古葛籠の中を掻きまわしていたが、厚板の小切れを取り出して、火熨斗をかけたりしている間、私は彼女の傍に仰向けに寝そべって、猶、ナイフをつまぐり、刃先を飽かず眺めていた。
 暫らく沈黙がつづいた。
「あなたのことですから、物を大事にする人ですから、一生涯持っていらっしゃるでしょうね」
 きゅうきゅう縫糸を爪でこきながら、洟をすすってユキは何気なく、そんなことを言った。
「うん……」
 私は軽く頷いたが、途端、今までの喜び全部が、暗い淵の底に石でも抛ったようにドブンと音を立てて沈んで行った心地がした。

 ユキに促されて買ったものの、やはり高い方がよかったと眠れないほど欲しかっていたにもかかわらず、入手した途端、執着は消えてしまい、後悔さえ生じてしまう。しかも、その金があれば、師匠の三回忌に妻が着ていくのにふさわしい着物を用意できることも気にもとめていない。「近頃ほんとにあなたは病気ですね」とユキも彼の精神状態が均衡を失っているのではないかと疑っている。

 もっとも、映画『氷の微笑(Basic Instinct)』のキャサリン・トラメルと比べれば、「子どもっぽいところがあってかわいい」と言えるかもしれない。シャロン・ストーンを有名にしたこの悪女は、愛を求めているのに、それが手に入りそうになると、怖くなり、相手をアイス・ピックで刺し殺してしまうからである。

 これはこのナイフのような無機物に限らない。彼は、女性に対しても、同様の反応を示している。「ただただ可愛がられたい、優しくして貰いたいの止み難い求愛の一念」を持って女性に接しながらも、しばらくすると、拒む。彼は関係した女性を不幸にしたと思うだけでなく、今も彼に未練があると信じている。元の妻に対し、「いとしい静子よ、お前の永遠の良人は僕なのだから」、「真っ先に思われるものは私の妻として、現在同棲の女でなく、初恋の雪子でなく、久離切って切れない静子なのであるから」と確信し、「失敗しないよう陰ながら贔屓に思って念じているに違いないのだ」と『途上』に書いている。それでいて、他の箇所で、別の女性にも同様の気持ちを持っていることを吐露している。

 本人は本気かもしれないが、おめでたいと言えば、まさにその通りで、シリアスにコメディを演じているレスリー・ニールセンを見ているように、滑稽以外の何ものでもない。それは、太田静一が調査した彼女たちのその後を見るまでもない。別れた男のことをだらだらと尾を引くようでは、こんな幼稚な作家とつきあっていけたわけもない。


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