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民話の例外としての桃太郎(2015)

民話の例外としての桃太郎
Saven Satow
Jun, 26. 2015

「富は一生の宝、知は万代の宝」。

 昔ばなしがマンガやテレビ、映画などのサブカルチャーでパロディ化されることがあります。最近ではauのCMが話題になっています。けれども、そうした表現は民話に関する固定観念に縛られていることがしばしばです。

 『桃太郎』は最も有名な昔ばなしの一つでしょう。けれども、民話の代表ではありません。桃から生まれた桃太郎が育ての老夫婦からもらった黍団子を与えてイヌとサル、キジを家来に、鬼ヶ島へ鬼退治に行く物語です。たいていの人があらすじを言えるに違いありません。でも、これは民話の例外です。この物語で民話を語るのは控えなければなりません。と言うのも、『桃太郎』は武士の思想に基づいているからです。民話は民衆の集合知識の表象ですから、武士が主人公の物語は極めて少数です。

 思想は理論と違います。理論は一般的・抽象的概念を用いた形而上学的・科学的論議です。一方、思想は個別的・具体的表現を使った構成的・芸術的表象です。『忠臣蔵』には武士道の理論はないけれども、思想があるという具合です。

 育ての老夫婦は農民です。農民階級の子である桃太郎が武士になろうとしています。桃太郎という個人名は武士の基準で言うと幼名ですから、彼は元服前です。武士になるべく旅に出る設定は『一寸法師』と似ています。この昔ばなしも非常に有名ですから、こういう武士志望の若者に違和感がないかもしれませんが、実際には珍しいのです。

 民話には武士に憧れる若者が少数ながら登場します。しかし、遺産相続社会とも言うべき身分制の時代が舞台ですから、その志は実現しません。

 また、黍団子による主従関係の結びつきも武士的です。民話には恩返しをする動物が数多く登場します。善意に応じて恩義で報いる恩返しは民話の主要なテーマの一つです。この善意は無意図的で、見返りを求めて行われていません。だからこそ、動物は懸命に恩を返そうとします。けれども、人間の家来になる設定はありません。主君と家臣の主従関係は武士階級に特有だからです。版によっては自分たちも仇討ちをしたいからと動物たちも理由を挙げますが、黍団子の贈与はあります。

 なお、恩返しにも限界があります。気候変動は不可能とされています。人間に依頼されても、それはお天道様の仕事だと動物は断ります。

 しかも、イヌが桃太郎と人間の言葉で話しています。イヌはたいてい民話の中で人間と言葉で会話をしません。現実のイヌが従順で、人間にしてみれば十分にコミュニケーションできるからです。主従関係が取り結ばれる設定の都合上、イヌに人間の言葉を話すようにしたのでしょう。

 非宗教者による鬼退治も稀な設定です。鬼は仏教の存在ですから、それと対峙するのは通常神仏ないし聖職者です。その際、武力は用いられません。知恵や宗教的力によって鬼を抑えこみます。人間が登場しない民話で動物が仇討ちをするという設定もありますが、そこでも知恵と工夫が勝負を決めます。

 このように見てくると、『桃太郎』が民話の代表ではないことが明らかになります。時代劇『桃太郎侍』は、むしろ、この昔ばなしの本質を理解したパロディです。『桃太郎』のみならず、『一寸法師』や『金太郎』などはよく知られているものの、武士の思想に基づいており、昔ばなしの中ではマイナーです。例外と言ってきましたが、この方が適切でしょう。

 これには成立時期が影響していると思われます。『桃太郎』や『一寸法師』、『金太郎』は室町時代に原型が形成されたとされています。今日まで伝わってきている昔ばなしの多くは近世に起源を持っています。江戸時代は身分制が固定化された時代です。幕末期ならいざ知らず、農民が武士になりたいと思うことは許されません。けれども、室町時代は上中下の階級の相互交流があり、後期になると、戦国武将が示す通り、農民が武士になることは十分に可能で、否定された考えでもありません。

 もちろん、民話には、近代文学における近代小説のような標準的モデルはありません。また、特定の作者による創作ではありません。民話はこうした事情により現代文学以上に多種多様です。現代人は、概して、近代との対比から前近代に関する固定観念を抱いています。民話を読むと、それが覆されることもしばしばです。

 近代はイギリス産業革命に範を置く標準的モデルがあります。世界各地の近代化はそれを基準にして捉えることができます。ところが、前近代には標準がありません。多種多様な状況があり、それぞれが相互に相対化しています。

 民話にも他のそれを相対化する物語が幾つもあります。その一例が東北地方に伝わる 『ふしぎな玉』です。これは民話に関する固定観念を覆します。

 昔、ある村にじっちゃとばっちゃが住んでいます。子どもがいないので、ネンゴロというネコとオンゴロというイヌをかわいがっています。

 ある時、畑仕事の際にじっちゃがヘビを見つけ、ノロと名づけて家で飼うことにします。けれども、大きく育ちすぎ、村の人々が怖がるので、山に帰すことにします。ノロは恩返しにとら何でも願いがかなう玉を二人に贈ります。ばっちゃは17、,8歳の男の子を玉から授けてもらいます。

 ところが、この子が性悪で、自己中心の乱暴者です。夫婦が家を空けている間に玉を盗み出して家出をしてしまいます。二人が気の毒だとオンゴロとネンゴロは玉を取り戻すため旅に出ます。お屋敷に住んでいるのを発見し、二匹は玉を取り返します。

 けれども、二人の元に戻る途中、玉を魚にとられてしまいます。じっちゃとばっちゃが心配して捜していると、息を引き取ったオンゴロとネンゴロを見つけます。その傍にいた魚から玉が現われ、このために命を落としたのかとじっちゃとばっちゃは涙するのです。

 民話の現代的パロディなど出る幕はありません。この民話に意外性を覚えるとしたら、固定観念にとらわれています。玉が出した少年が悪だったというう件にもさまざまな理解ができるでしょう。願望は欲であるからそれは戒めなければならないなどもっともらしい解説もできます。けれども、そうした読解よりも昔ばなしには固定観念を持ってはいけないと自生する方がよいものです。

 民話は規範を共有した民衆の集合知識の表象です。近代人が話を聞いて意外だと感じるのは、それを分かち合っていないからです。固定観念もそこから生じます。規範を共通基盤として共時的・通時的に理解されてきたことを踏まえて、多数の昔ばなしを照らし合わせる時、民衆の集合知識が見えてくるものです。昔ばなしは年寄りの知恵を感じさせます。それはそういうところにもあるのです。
〈了〉

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