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オバマ黒人奴隷発言に見る試験と知識(2016)

オバマ黒人奴隷発言に見る試験と知識
Saven Satow
Feb. 22, 2016

「一見は、目的を達成するためには、できるだけムダをなくして、その目的だけを早くやったほうがよさそうだが、結局はゆっくりと、ムダを伴いながら、結果的に目的が達成されたことになるほうが、その目的にとってもうまい到達をするように思う」。
森毅『ムダの効用』

 丸山和也議員の「オバマ黒人奴隷」発言は人種差別のみならず、その知識の不正確さでも国内外で問題になっています。彼は以前からツイッター上で恣意的な概念解釈に基づく意見を述べています。公人としてふさわしくない知識水準であることはすでに明らかです。

 その丸山議員は弁護士でもあります。司法試験に合格しているわけです。それどころか。彼は国家公務員上級試験もパスしています。いずれの試験も難関として知られています。難しい試験問題が解けるのに、こんな知識もないのかと驚かざるを得ないでしょう。

 丸山議員に限らず、政治家を始めとする高学歴者が誤った知識に基づいて失言することが少なからずあります。立憲主義や成文憲法、報道の自由、課税協賛説など政治経済の基礎概念を理解していない政治家の発言も後を絶ちません。中には、断片的には正しい場合もありますが、都合よく解釈したり、他の情報と恣意的に組み合わせたりして全体として不適切な意見もあります。なぜこれだけ不正確な知識で彼らは学歴や資格が取れたのか不思議です。

 難関試験合格者によるこうした失言の原因は知識の学習から理解することができます。知識は言語化から二つに大別できます。一つは宣言知識です。これは言語によって習得できる概念知識です。明示知や形式知とも呼ばれます。もう一つは手続知識です。これは手続きの遂行を通じて体得される概念知識です。暗黙知や身体知とも呼ばれます。

 日本語の母語話者を例にしましょう。彼らは日本語ができます。けれども、その用法の理由について尋ねられても、なかなか説明できません。母語話者は日常的な手続き遂行の繰り返しを通じて、その知識を体得しているからです。これは手続知識です。

 もちろん、その母語話者でも、文法を使って用法を説明できることがあります。その代表が敬語です。これを正しく使えることは社会性の証の一つですから、大人になる過程で意図的に学習します。敬語の仕組みは文法に基づいて体系的に頭で習得されます。これが宣言知識です。一口で言うと、宣言知識が「わかること」、手続知識は「できること」に当たります。

 出題者は自分の意図を理解した上で解答して欲しいと問題を受験者に出します。その試験問題は言語を用いて出題されます。本来の目的は宣言知識を問うものです。けれども、出題範囲の定まった繰り返される試験問題には傾向が生じます。それを踏まえて対策をとり、訓練すれば、宣言知識がなくても、手続知識によって解答を記すことができます。宣言知識を問う試験問題でも、傾向と対策によって手続知識で正答を示すことが可能になります。

 試験をパスして学歴や資格を取ったとしても、手続知識によって高得点をとった可能性もあります。こんな問題が出たら、考えなくても自動的にこう答えるように練習した成果かもしれません。

 試験に通ることのみを目的にするなら、宣言知識を学ぶことなど時間の無駄として手続知識に専念することもあるでしょう。試験のために要領よく覚えるだけで、学習内容を発展させる必要性も感じません。

 目的が達成できたら、成功者は自分の戦術に疑いを抱かないものです。成功体験に過信して、自らを相対化しません。困難に直面しても同様の戦術で対処し、その場をうまくやり過ごします。反省的思考がありませんから、自身の信念に凝り固まります。難関を合格しながら、こうした人物は無教養を疑われる発言をしてしまうのです。

 試験問題を対象にしても理論的考察が可能です。受験のテクニックだけで問題を見るのはそれに関する体系的知識がないからです。この理解を持って受験テクニックを確かめると、誤解が認められる場合もあります。

 宣言知識は言語化された知識です。特定の文脈に依存せず、体系的ですから、拡張・修正・統合・転移も可能です。知識が進化します。

 他方、手続知識はその人に身体化されています。断片的なため、汎用性がありません。特定の文脈に依存しています。そこから離そうとすれば、恣意的に理由を解釈したり、他の知識と結びつけたりします。

 知識は学習した後に持続可能性の有無が重要です。学校教育も本来それを目指しています。OECDが「リテラシー」の必要性を教育上の課題として提言しているのもそのためです。知識の利活用はそこに持続可能性が求められます。

 さまざまな現実場面での利活用ですから、文脈に依存しない宣言知識は、手続知識よりも、持続可能性があります。手続知識に偏重していると、自分自身が見えなくなってしまうだけではありません。知識が進化しませんから、持続可能な思考も育ちません。

 丸山議員が実際にどのように知識を学習してきたかはわかりません。けれども、彼の知識に体系性や持続可能性がないことは確かでしょう。丸山議員の姿からそのような教訓を学べるのです。
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参照文献
森毅、『数学受験術指導』、中公新書、1981年

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