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傷ついた果実たち─寺山修司の抒情詩(5)(2002)

5 子どもといっしょ
 そうした先見性と時代による限界をあわせ持つ寺山修司の理想とする演劇はすでに実現されている。子ども向けの演劇を見にいくとそれはすぐにわかるだろう。まさにアナーキーであり、必然性など入りこむ余地がない。子どもは縦横無尽に走りまわり、大声を上げ、無き、笑い、私語を構わず続け、舞台につっこんでいる。子ども向けの演劇には舞台と客席の区別がない。モーリス・メーテルリンクの『青い鳥』を子供向けのミュージカルに仕立てた際の台本を担当した寺山修司もそれを知っていたことだろう。

 『おかあさんといっしょ』の一六代目の歌のおねえさん、神崎ゆう子は、『歌のおねえさんグラフィティ』の中で、「私が歌っている最中に、ねえ、ねえって話しかけてくる子もいたんですよ。むげには断れませんから、間奏になるのを待って、聞いてあげました。また、カメラに映らないところでけんかが始まり、ひとりが泣きだしたことも。そんなときは、私がカメラに映っていない間にそこへ行ってなだめて、また、元の場所に戻ったりして(笑)。いろんなハプニングがありましたが、だんだん、今日はなにが起こるか楽しみ、と思えるようになりました。子どもと接していると、私自身が解放されるんです。とても楽しくって。ですから、番組やっているときは、子どもといっしょに遊ぶことで、精神的に休まっていたのかも」と述懐している。一五代目の歌のおねえさん、森みゆきも「そして、スタジオでのハプニング。子どもにインタビューすると、放送してはいけない固有名詞が飛び出してくることがあるんですよ。初めのうちはそれが怖かったんですが、しだいに、子どもたちならではの、意表をついた回答が楽しみになっていましたね」と言っている。

 SFやミステリー、オカルト、アクションをとりこんだスリップストリームはもはや珍しくないけれども、ロバート・ロドリゲス監督は、こうした子どもの特性を使い、『スパイ・キッズ(Spy Kids)』シリーズを製作している。『デスペラード(Desperado)』シリーズを撮っている通り、彼の映画はスリップストリームに属するが、子ども向けの作品をパンクで製作した映画はこれまでなく、画期的だと言わざるを得ない。

 『おかあさんといっしょ』の一七代目の歌のおねえさん、茂森あゆみと一八代目の歌のおねえさん、つのだりょうこが、『歌のおねえさんグラフィティ』の中で、次のような「トークデュエット」をしている。

あゆみ 私も最初は、どうしていいか分からなくて、子どもに「おくちゅはいてね。」って赤ちゃん語を使ったら、「くつでしょう?」とか直されちゃったりして(笑)。
りょうこ あ、私も、セリフをまちがえちゃって「ごめんなさい。」って言ったら、子どもに「大丈夫だよ。」って励まされました(笑)。
あゆみ 三歳の子って、私たちが思っている以上にしっかりしていて、自分たちはもう赤ちゃんじゃないっていう意識があるのね。たとえば、三歳の子が「ねえねえ、あゆみおねえさん。私がちっちゃい時ねえ……。」って話しかけてきたり。私から言わせると「あなた自身がまだちっちゃいじゃない。」って思うんだけど。だから、よく「子どもの目線で」とか言うけど、子どもって赤ちゃん扱いされるのは好きじゃないから、子どもをこっちの目線にもってくるくらいの気持ちでいるほうが、かえって楽にしゃべれるかもしれない。
りょうこ ふーん、なるほど。
あゆみ もちろん、おとな同士のように対等に話すことは無理だけど、ことばをやさしくしてあげて、対等な気持ちで。あと、私が守ってきたのは、うそをつかないこと。
りょうこ うそ?
あゆみ たとえば、地方収録で、都合があってみどくんふぁどちゃんしか行けないことがあると、子どもが「れっしーと空男くんは?」って聞きますよね。そういう時に「あとで来るよ。」とか答える人もいるけれど、私は「今日は風邪をひいて来られないのよ。」とか、それなりの理由を説明してあげるようにしてた。現実には来ないわけだから、子どもが「あとで来るって言ったじゃない。」という思いを抱かないように。
りょうこ それは大事ですね。

 また、子ども向けのみならず、大人向けでも、とにかく出来にムラがありすぎたために、六代目菊五郎の舞台は見てみなければわからない。

 寺山修司の演劇の中で最も優れているのは『悲劇一幕 巨人対ヤクルト』である。ほとんどパターン化されてしまったV9時代のジャイアンツのゲームがまるまるつくりあげられていた作品である。最初ヤクルトがリードしているが、後半になると、巨人にあっさりと逆転され、終わってみれば巨人が楽に勝っているという内容である。むしろ、寺山修司の演劇の試みはこういう内容のほうが有効である。寺山修司は演劇におけるジョン・ケージではない。「そして最後に、微小なものとして存在しているに違いないと私が思っているこのすべての生きとし生けるものが、電子工学の助けによって増幅され拡大されて、劇場に持ち込まれ、私達の楽しみを最も興味深くすることができないかどうか」(ジョン・ケージ『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』)。

 レイモンド・ポストゲートの『十二人の評決』に影響されたレジナルド・ローズ原作の『十二人の怒れる男』はテレビ・ドラマであったにもかかわらず、演劇のように、舞台をほぼ固定して筋を展開している。これは主題がプロットにとどまっていない。有罪の立証という必然性を演劇形式を表面的にとることで強調して見せつつも、実は、カメラのアングルとサイズやフィルムの編集を用いられるテレビによることで、人々には先入観があるのだという主題を体現した画期的な作品である。

 寺山修司の演劇作品にはここまでの内容はない。偶然性が支配するはずの世界が必然化されていることをパロディとして示すことのほうが必然性解体につながる。

 ところが、寺山修司の演劇においても、効果だけは例外である。彼はギミックを劇場で試みている。この手法は、アルフレッド・ヒッチコックに異常なまでの対抗心を燃やしていたウィリアム・キャッスルの映画──『マカブル(Macabre)』(一九五八)から『血だらけの惨劇』まで──で本格的に導入されてから、ディズニー・ワールドでも採用されている。それはスクリーンと観客席の区別を無化させ、スクリーンで展開されていることを観客席でも疑似体験させるものである。観客はより以上の恐怖とスリルを味わわせる。

 キャッスルは、『マカブル』で観客全員に死亡保険──見ている最中に観客が死亡したら一〇〇〇ドルが支払われる──をかけている。『ティングラー(The Tingler)』(一九五九)では、客席のいくつかに微電流が流れる装置を仕掛け、ティングラーという寄生虫が劇場に逃げ込むシーンで電流を流している。『時刻へつづく部屋(House On Haunted Hill)』(一九五九)においては、観客の上にゴムで膨らませる骸骨をつるし、『13ゴースト(13 Ghosts)』 (一九六〇)では特殊なメガネをかけさせ、『第三の犯罪(Homicidal)』(一九六一)はヒッチコックの『サイコ』のパロディであり、種明かしの直前に上映を中断して、「今、後ろに聞こえるのは心臓の鼓動の音だ。諸君の心臓はこれより早く打っているかね?もし、早ければ今のうちに劇場を出た方がいい。入場料はそっくりお返ししよう」と自ら口上をしている。『ミスター・サルドニカス(Mr. Sardonicus)』(一九六一)において、オチを二通り用意し、ラストの寸前で投票を行い、主人公であるサルドニカス氏の命運を観客に委ね、『ソズ!(Zotz!)』(一九六二)では、魔法の「ソズ!」コインを使っている。

 なお、『血だらけの惨劇(Strait-Jacket)』(一九六四)以降からギミックは用いられていない。ギミックは、ヴァーチャル・リアリティ認知の発展と共に、再認識される。特殊効果という点では、演劇がどうあれ、寺山修司は、現在から見ても、エッジが効いている。

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