クリスチアーネ、あるいはヘーゲルのアンティゴネ(2)(2020)
第3章 青春時代
クリスチアーネについて理解するにはヘーゲルを知らなければならない。1888年、ヘーゲルがテュービンゲン大学進学のため、シュトゥットガルトを後にする。大学では同い年のヨハン・クリスチアン・フリードリヒ・ヘルダーリン (Johann Christian Friedrich Hölderlin)や5歳下ながら極めて優秀な成績のため特例で入学が許されたフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling)と親友になっている。フリードリヒ・ヘルダーリンはドイツ精神史を代表する詩人の一人である。ヘーゲルは彼からギリシア古典の理解の影響を受けている。一方、フリードリヒ・シェリングはカント=フィヒテのドイツ観念論の系譜を継承する哲学者であり、ヘーゲルはこの俊英の影で学究生活を送っている。
ヘーゲルは口下手で、社交的、友人たちからいい奴と思われていたようである。あだ名は「老人(der alte Mann)」だったと評伝はしばしば伝えるが、今風に言えば、「ジジイ」だろう。また、終生、シュヴァーベン訛りが抜けなかったと言われている。歳をとってからの肖像画を見ても、神経質そうなところはないけれど、ハンサムではないし、才気も感じさせない。つき合いがよくて、少々田舎臭く、トロい若者といったイメージがわく。しかし、こういう不器用な若者に大器晩成型がいるものだ。要領のよさがないので、習得に時間がかかるが、一旦身につけば、行き詰ったり、崩れたりしない。なお、クリスチアーネの肖像画はほとんど残っていない。
1889年7月14日、フランス革命が始まる。このヨーロッパの旧体制を震撼させた出来事にヘーゲルは熱狂する。学内のフランス人が中心になって結成した政治クラブに参加、革命に就いて熱く議論している。熱心なあまり、リーダーの一人と大学当局から見なされ、危うく処分を受けそうになっている。1891年春、ヘーゲルは仲間と共に、テュービンゲン近郊の山に自由の樹を植え、その周りでフリードリヒ・フォン・シラーの『歓喜に寄す』や『ラ・マルセイエーズ』を歌いながら、踊り明かしている。
ヘーゲルはフランス革命を熱烈に支持したことが原因で父と不仲になっている。後にジャコバン派の恐怖政治など革命の負の側面を知り、共和政や民主政に懐疑的な態度をとるが、ヘーゲルは自由を求めて絶対主義体制を打倒した革命の精神に終生賛同している。彼は、7月14日を迎えると、革命を祝してワインで乾杯するのが常である。
フランス革命はテュービンゲンのみならず、シュトゥットガルトの若者にも影響を及ぼしている。20歳の頃、クリスチアーネは兄の友人だったシュトゥットガルト宮廷政界のメンバーたちと交流する。この彼らは南ドイツの共和体制の樹立について議論する革命支持派である。ただ、クリスチアーネが急進主義の活動に加わったことはない。
1760年代後半からフランス革命前夜までは文化史においてシュトルム・ウント・ドランクの時代である。これは理性崇拝とも言うべき啓蒙主義に対する感情の優越を唱える芸術運動を指すが、ヨーロッパにとってはこの時期の方が激動の時期であり、その名にふさわしい。革命に対する熱狂や反発、不安、恐怖、失望などさまざまな感情が入り乱れ、振幅も大きい。このような価値観が転倒する時代を若者として生きることは精神的負担も小さくない。ヘーゲルは1793年、すなわちクリスチアーネが20歳の時に大学を卒業、その後、スイスのベルンで家庭教師生活を始めている。しかし、彼はここでしばしば抑うつ状態に陥っている。こうした精神的危機は将来への不安などヘーゲル固有の問題と考えるべきではない。時代の影響の大きさを考慮する必要がある。ジャコバン派の政治に対してヘーゲルは、最初の大著『精神現象学』において、自由が倫理的関係や制度的背景から切り離され、抽象的・絶対的なものとされた時、恐怖へと変質したと総括している。『精神現象学』はヘーゲルにとっての「歌のわかれ」でもある。
なお、ヘーゲルに限らず、当時大学を卒業後、家庭教師の職に就く者が少なくない。大学のポストの空きを待つ間、生活のために中等教育を教えることをするのだから、この家庭教師は、現代日本の感覚で言うと、塾や予備校の講師と見た方がよい。中には、ヘルダーリンのように、アカデミズムには興味がなく、自分のやりたいことに都合がいいと、この仕事を選ぶ人もいる。いずれにせよ、この頃の家庭教師は今の受験産業の講師のイメージである。
フランス革命をめぐる父と兄の対立はクリスチアーネに『アンティゴネ』を想起させたに違いない。父は、ポリュネイケスに対するクレオンのごとく、革命に熱狂する兄を非難する。しかも、兄は、ポリュネイケス同様、ここにいない。クリスチアーネは、ヘーゲルのアンティゴネとして、不在の兄を理解しようとする。ヘーゲルは口下手であり、クリスチアーネは自分こそがそんな兄の気持ちがわかるという自負もある。アンティゴネはクレオンではなく、ポリュネイケスにつかなければならない。兄を支持することは国法よりも人間の自然の法を守ることであり、至高の行為である。ヘーゲル家にとってフランス革命は生きられた『アンティゴネ』である。
このため家族は、この共同体のうちで、自らの一般的実体をえて存立するが、これとは逆に、この共同体は、家族においてその現実性の形式的な場〔境位〕をえ、神々のおきてにおいて自らの力をえて、確証されるのである。
(『精神現象学』)
この頃、クリスチアーネが親しかった友人はヴィルヘルミーネ・ヘドヴィヒ・エルセッサ―(Wilhelmine Hedwig Elsässer)である。彼女は、後に結婚して、児童文学の小説家のヴィルヘルム・ハフ(Wilhelm Hauff)の母となる。彼の名づけ親がクリスチアーネである。彼女の結婚したアウグスト・フリードリヒ・ハウフ(August Friedrich Hauff)はシュトゥットガルトでヴュルテンベルク王国の内閣書記官を務めた人物だったが、1809年に他界、テュービンゲンに移り、父と共に子ども4人を育てている。また、クリスチアーネがフリードリヒ・ヘルダーリンを見出した詩人ゴットホルト・シュトイトリーン(Gotthold Stäudlin)に失恋したという噂もある。その逆かもしれないが、いずれにせよ不確かな情報である。
実は、クリスチアーネは詩を創作していたと言われている。シュトルム・ウント・ドランクの詩人たちによる感情を爆発させた作品が若者の心をとらえた時代であり、そんな空気の中で多感な青春時代をすごしたクリスチアーネが詩作していたとしても不思議ではない。。だが、そのすべては失われている。ヘーゲルの最初の伝記作家ヨハン・カール・ローゼンクランツ(Johann Karl Friedrich Rosenkranz)は、クリスチアーネの詩のいくつかを読み、それらを「本当に美しい」と述べている。ローゼンクランツ(1805~1879)はヘーゲル中央派に属する理論家で、『ヘーゲル伝(Georg Wilhelm Friedrich Hegels Leben)』(1844)は今日においてもヘーゲル研究の基本文献である。
1799年1月14日、父ゲオルク・ルードヴィヒが亡くなる。兄ヘーゲルがクリスチアーネや弟ゲオルク・ルードヴィヒへの遺産分配を行っている。さほどの金額ではなかったものの、ヘーゲルは遺産相続で生活上の負担が軽くなり、ベルンを去った1797年より続けていたフランクフルトでの家庭教師を辞めようと大学の職を探し始める。その結果、1801年の秋からイエーナ大学の私講師になっている。これは大学から給与が出るのではなく、聴講学生から授業料を受け取るという立場である。不安定であるが、とにかく大学教員の地位を手に入れたことは確かだ。
ヘーゲルが大学の仕事に就けたのはシェリングのおかげである。シェリングは、1793年に大学卒業、3年間家庭教師をした後、アカデミズムの世界に入っている。1799年、イエーナ大学の正教授に昇進、当局に私講師のポストにかつての親友ヘーゲルを推薦している。
イエーナは古くからの大学街で、現在のテューリンゲン州に位置している。当時はロマン主義や観念論の拠点であり、ヘーゲルは文芸や思想の潮流の最先端に見を置くことになる。ちなみに、イエーナ大学は今ではフリードリヒ・シラー大学に改称している。
その1801年の秋、クリスチアーネは家を出て生きることを始める。シュトゥットガルトを去り、同じヴュルテンベルクのヤクトハウゼン(Jagsthausen)のヨーゼフ・フライヘア・フォン・ベルリヒンゲン(Joseph Freiherr von Berlichingen)の 5人の娘の養育係兼家庭教師の職を得る。なお、作曲家フリードリヒ・ジルヒャー(Friedrich Silcher)も同じ時期にベルリヒンゲン家の家庭教師を務めている。諸般の事情によって中断した時期もあるが、クリスチアーネはこの家庭教師という仕事を続けていくことになる。
クリスチアーネは少なからずの男性から求婚されていたようである。しかし、詳細は不明で、断った理由も定かではない。ヘーゲルよりも容姿がよく、思いやりがあり、芸術を理解し、弁舌さわやか、財産にも恵まれている男性がいたかもしれない。しかし、アンティゴネはハイモンではなく、ポリュネイケスに尽くさなければならない。故郷を出たのも、兄が希望の道へと進むことができたと見えたからかもしれない。ただ、クリスチアーネにとってヘーゲルへの世の中の評価は不当に思えたことだろう。アンティゴネはクレオンによるポリュネイケスの不当な仕打ちから解放し、正当な扱いを与えてやらなければならない。ヘーゲルに理論家としての実力があることはかつての学友たちも認めている。しかし、彼が思想史上の巨人になるとは誰も予想していない。それを信じていたのはただ一人だけだろう。その一人がクリスチアーネである。「天才を知る者は天才である」(ヘーゲル)。
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