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コギトイド─ルネ・デカルト(2)(2003)

第二部 The Two Anamorphoses
 「コギト・エルゴ・スム」はアナモルフォーズである。

 〔デカルト。
 大づかみにこう言うべきである。「これは形状と運動から成っている」と。なぜなら、 それはほんとうだからである。だが、それがどういう形や運動であるかを言い、機械を 構成してみせるのは、滑稽である。なぜなら、そういうことは、無益であり、不確実で あり、苦しいからである。そして、たといそれがほんとうであったにしても、われわれ は、あらゆる哲学が一時間の労にも値するとは思わない〕
(ブレーズ・パスカル『パンセ』)

 デカルトはすでに彼の自然学の体系を『世界論』として書きあげていたが、ガリレオ・ガリレイの裁判で地動説が弾劾されたのを知り、その出版を諦めている。しかし、友人の勧めによって、地動説に触れずに論じられる『屈折光学』・『気象学』・『幾何学』を執筆し、これら三つの論文への序文として書かれたのが、『理性を正しく導き、諸学における真理を探究するための方法についての序説(Discours de la Methode pour bien conduire sa raison,et chercher la verite dans les sciences)』、いわゆる『方法序説』である。

 デカルトは、1637年3月メルセンヌ宛書簡の中で、この命名の理由について次のように述べている。

 私は方法論としないで、方法の話としていますが、これは方法に関する「序言」または「私見」というのと同じことで、私は方法を教えるという意図はなく、ただ方法について話すだけということを示すものなのです。方法について私の言うことから察しうるごとく、方法は理論より実践の中にあるのであって、そこで私はこれに続く論文を〈この方法の試み〉と名づけます。と言いますのも、それらに含まれる事柄は、この方法なくしては見出され得なかったものであり、この方法が価値あることを知るものであると主張するためなのです。また。私はこの方法があらゆる種類の題材に及ぶものであることを示す目的で、最初の話の中に、形而上学・物理学・医学のある部分をとり入れたのです。

 『方法序説』は方法論ではなく、あくまで方法の書物である。方法はア・プリオリにあるのではない。「方法は理論より実践の中にある」のであり、具体的な経験や思考から導き出される。私は他者になって考えることはできず、ただすでにある自己を掘り崩すことだけが問題である。「私の計画は、私自身の考えを改革しようとつとめ、まったく私だけのものである土地の上に家を建てようとすること以上に及んだことはない」(『方法序説)。しかも、そうして確立された「方法があらゆる種類の題材に及ぶもの」である。『方法序説』の「方法」はデカルト思想全体の基礎だ。

 デカルトは方法に意識的であるが、森毅の『数学の歴史』によると、二〇世紀は「方法」の世紀であり、その意味で、非常にデカルト的である。

 『方法序説』の第一部は「良識はこの世でもっとも公平に分配されている」から始まり、自分が受けたスコラ哲学的な学校教育を批判して、確実な知識を求めて「世間という大きな書物」を読むために、旅に出たことを語っている。第二部は、その旅の途上で見出した規則を述べている。それは数学的知識をモデルにした明証性・分析・総合・枚挙である。第三部では、真理を発見するまで生活をしないわけにはいかないので、その間に必要な暫定的な道徳が述べられる。第四部は彼の形而上学的体系を主題としている。方法的懐疑によって到達した「コギト・エルゴ・スム」と神の存在証明である。第五部では、この形而上学を基礎にした自然学の一部が披露される。第六部は、この書物の出版の経緯と今後の抱負を語っている。デカルトは、人間を「自然の支配者にして所有者」にするのが自分の哲学の目的であると宣言する。

 「真でないいかなるものも真として受け入れることなく、ひとつのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし,どんなに隠れたものでも発見できる」として、デカルトは、『方法序説』において、理性による真理探究のために、次の四つの規則を立てる。

 明晰かつ判明に(clara et distincta)精神にあらわれるもの以外は、なにもわたしの判断のなかに含めないこと。

 私が検討する難問のひとつひとつを、できるだけ多くの,しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。

 私の思考を順序に従って導くこと。

 すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。

 この四つの規則は、それぞれ、「明証性の規則」・「分析の規則」・「結合の規則」・「枚挙の規則」と呼ばれている。これらの規則に従って、探究していけば、まず間違いなく、真理に到達できる。

 四つの規則で真理を探究するとしても、新たな体系ができるまでの間にも,実際に生きていかねばならない。そこで、デカルトは、『方法序説』において、暫定的に「守るべき道徳(morale provisoire)」を次のように制定する。

 自分の国の法律と習慣とに服従し、幼いときから教えられた宗教を一応守り続けて生きていくということ。

 自分の行動において、できる限りはっきりした態度をとることであって、いったん決心した場合は、それがあたかも確実なものであるかのように従い続けることが必要だろう。

 運命によりもむしろ自己に打ち勝つことに努め、世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えようと努めること。

 自分はあらゆる職業の中から自分に最も良いものを選ぼうと決心した。

 デカルトにおいて、理論と生活は必ずしも分化していないが、その混同は避けられている。生活あっての真理探究である以上、理論によって生活を破壊すべきではない。臨機応変な姿勢が大切だ。デカルトは未分化で癒着していた領域を独立させる。それには例外はない。

 こうした柔軟な姿勢はパスカルに耐えられるものではなく、彼は、『パンセ』において、デカルトを次のように批判している。

 学問をあまり深く究める人々に反対して書くこと。デカルト。

 無益で不確実なデカルト。

 「そもそも、デカルトのように、単純明快な議論のできる男は、その心は複雑晦渋であったに違いない。パスカルは、デカルトが大ざっぱなことを言うと非難している。しかし、几帳面なパスカルのほうが、繊細の精神なんてことを言うだけ、心は透明だったような気がする」(森毅『魔術から数学へ』)。

 こういった規則と道徳を守りながら、正しい演繹のための土台となる第一原理を追求するために、デカルトは「方法的懐疑(la doute methodique)」を行った後、「次のように気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたし自身は必然的に何ものかでなければならない」。「我思う故に我在り(ego cogito, ergo sum; je pense, donc je suis: I think therefore I am)というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられると判断した」。デカルトの「私」は「思惟するもの(res cogitans)」である限りの「私」である。

 デカルトは時空間に渦を想定し、自己組織化における乱流を先取っている。コギトは、同様に、自己組織的臨界状態点に達し、スムへとすぐさま変化する。コギトは決定論的非周期性という性質を持っている。デカルトが方程式を考案しても、関数に至っていなかったという点から、デカルトが静的であり、動的ではないと判断するのは早計である。彼の方程式は臨界状態にあり、関数へと潜在的に向っている。パスカルは、『パンセ』の中で、「私のつかの間の生涯がその前後に続く永遠の前に吸い込まれてゆくことを思い、私が満たし私が見ているわずかな空間が、私の知らない、私を知らない無限に広大な空間の中に没してゆくことを思うとき、私は恐ろしくなる。そして私がそこではなくここにいることに驚く。なぜそこではなくここなのか、その時ではなく今なのか、何の理由もないからである。誰が私をここにおいたのか? 誰の命令、指図によって、この場所この時が私に定められたのか?」と記している。だが、パスカル的な問いと違い、だいたいこの辺にコギトはいるとデカルトは主張する。デカルトのコギトは非線形的な乱流であって、パスカルの「私」は線形的な層流である。

 ジル・ドゥルーズは、『差異と反復』において、「コギト・エルゴ・スム」をめぐって、イマヌエル・カントの批判を援用して、次のように述べている。

 カントの答えはよく知られている。無規定な存在が〈私は考える〉ことによって規定可能になる形式とは、時間の形式である……。ここから帰結されることは極端である。私の無規定な実存は、ある現象の実存として、ある現象的な主体として、時間の中でだけ規定される。この主体は受動的または受容的で、時間の中にだけあらわれる。

 カントによれば、「コギト・エルゴ・スム」は時間の概念にまったく言及していない。コギトは、一瞬のうちに、スムへと変換される。デカルトの命題に基づく「私」は規定のないまま自発的かつ実在的であるが、カントは「私」を「受動的または受容的で、時間の中にだけあらわれる」。ドゥルーズは、カントを援用して、デカルトを批判し、私における他者の問題を考察している。

 しかし、カントの時間は、ニュートン力学のように、線形的であり、「私」の運動は滑らかに変化する。他方、デカルトのこの命題は非線形現象を具現している。変換は、因果性を明確にしないまま、急激に起こる。何が原因であるのか特定するのではなく、グローバルな全体から現象を認識しなければならない。

 「コギト・エルゴ・スム」はアナモルフォーズである。デカルトにおける他者の不在を非難したり、それを逆に擁護したりするよりも、そのアナモルフォーズ性を考察すべきだろう。「コギト・エルゴ・スム」をアナモルフォーズとして見るとき、デカルトをめぐる他者の議論がアナモルフォーズであることが顕在化してくる。

 「アナモルフォーズ(Anamorphose)」は歪み絵、すなわちある原型を法則的に歪曲して標示する技法である。凹面鏡に映った姿はその一例である。「まずある正常な形態を一定の方向へ誇張して歪ませる。それから歪みをもとに戻すための一定の視点を見つけると、歪みはもとに戻って正常の形態が浮び出てくる。この歪みを戻す一定の視点を見つけることがアナモルフォーズを楽しむ鍵になるのである。それが見つからなければ、問題の絵はいつまでも何が何だかわからない、もやもやとした線と面の塊にしか見えないのである」(種村季弘『だまし絵』)。アナモルフォーズという用語が使われ始めたのは、デカルトが代表する17世紀である。と同時に、それは17紀から18世紀、古典主義時代にかけて最盛期を迎える。アナモルフォーズは、当初、2次元的だったが、時代が経つにつれ、3元的にも応用され、多種多様なヴァリエーションが生まれる。

 種村季弘は、『だまし絵』において、アナモルフォーズについて次のように述べている。

 アナモルフォーズの最盛期は十七、八世紀であった。十八世紀も末期になるとそれはしだいに通俗化して、やがては子供部屋の玩具箱の中に放り込まれてしまう。デカルト時代には遊びであった精神の光学は産業革命以後の生真面目なアカデミシャンに引き取られて、現実の「自然らしさ」、もっともらしさを定立する証明法へとふたたび一元化されてしまったからである。芸術作品は記号内容と記号表現との分離による戯れとして全体的に体験されるのではなくて、両者のもっともらしい「癒着」の中に閉じ込められて、人間の遊戯衝動から切り離された冷たい陳列室に隔離してしまう。自然らしさを混乱させる知覚のトリックは、子供部屋か手品師の小屋以外の場所では御法度となり、市民の美学的好みはアナモルフォーズをスキャンダルとして蛇蠍視するにいたるのである。

 西洋思想史を遠近法の歴史と平行して捉える発想があるが、西洋思想史をだまし絵の歴史として把握することを忘れてはならない。遠近法はアナモルフォーズの一種だからである。目は現前にあるものを意味あるものとして見ようとする。アナモルフォーズは決していかがわしく、人を欺くものではない。そもそも神でさえアナモルフォーズによって表現している。神の視線は、一六世紀に描かれた作者不詳の絵画『サウルの死』では、アナモルフォーズのアナロジーとして、すなわち見える人にしか見えないものとして捉えられている。カントの二律背反はマッハの本やシュレーダーの階段であり、G・W・F・ヘーゲルの弁証法はL・S・ペンローズの階段である。哲学的議論には、多かれ少なかれ、トリッキーなところがあるが、それは同時代的なだまし絵のテクニックと似ている。ところが、アナモルフォーズは、思想史を考察する際に、スキャンダルとして抑圧されていく。だまし絵が復権するにはゲシュタルト心理学を待たなければならない。

 アナモルフォーズには動画の遠近法がある。静止画において、遠近法は近くにあるものは大きく、遠くにあるものは小さく描くことで構成される。他方、動画では、近くのものは速く、遠くのもの遅く感じられる。これが動画の遠近法である。「映像は『動き』を獲得したことで、そこに時間というものを持ち込むことになりましたが、ここには落とし穴がありました。映像は三次元の実像を、二次元の平面に移し替えたものです。動きは画像という平面に記録されていますから、実像がどのようなサイズの平面に切り取られたかによって、時間の感覚的な早さが変わってきます。同じ動くものでも、それを近くで見れば早いと感じ、遠くで見ればゆっくりと感じます。目の前で通りすぎて行く列車と、遠くを行くそれとはスピードの感覚が違います。もちろんこの場合には、音響ということも大いに関係してますが」(小栗康平『映画を見る眼』)。

 デカルトの「コギト・エルゴ・スム」はコギトとスムの癒着を独立させ、その結びつきを遊戯として把握したものである。フリードリヒ・ニーチェは『ツァラトゥストゥラはかく語りき』の中で「精神の三段の変化(The Three Metamorphoses)」を説いているが、デカルトは「精神の二段のアナモルフォーズ(The Two Anamorphoses)」を示す。デカルトは、実際、アナモルフォーズに強い関心を示している。デカルトの友人に、『視覚の魔術』というアナモルフォーズの幾何学的研究書を記したジャン・フランソワ・ニセロンがいる。また、デカルトは、1649年に発表されたサラモン・ド・コオの『影と鏡の比例による遠近法』に注目していたが、この本では三章に亘ってアナモルフォーズが分析されている。デカルトの世界は基本的に平面である。立体は、むしろ、パスカルの世界に属する。デカルトの座標平面からは遠近法が表われることはない。デカルトは「コギト・エルゴ・スム」を真理探究のアナモルフォーズとして描いて見せたのである。

 二次元は別の意味でわかりやすいが、そこが物語のわな。あまり縦とか横とかで物語を作りすぎないか。少なくとも、流れとハミダシで作られるのが物語ぐらいに考えておいたほうがよい。それからついでに、縦に上下の秩序感覚を持ったり、横に平等の連帯の夢想したりするのをやめよう。縦の秩序に守られた横ならび幻想の崩壊した時代。
 このごろではむしろ、ネットワーク型の空間のイメージに関心を持っている。二つのエレメントがあれば、その間に二者関係。三つなら三種の二者関係。これだって幾何学的には、イメージとして、線分、三角形、四面体となるかもしれぬが、それが多くなって組合せ論的世界になっていく。そこでは、縦にも横にも、そもそも枠がない。このごろのように、枠がヴァーチャルな時代ともなれば、デカルトさんの時代のようには考えられぬ。などとゴロゴロしていることだけデカルトさんなみで、アイデアが振ってくるのを待っています。
(森毅『アモルファスは座標の夢を見るか』)

 近代において、時空間はアイザック・ニュートンが確立した微積分によって理解される。ミシェル・フーコーは、『言葉と物』において、アナモルフォーズが流行した17世紀から18世紀の古典主義時代を表象によってつくられる一つの自立した「空間」の中に内在的な秩序を見出そうとした時代であると指摘している。「空間の世紀」とも呼べるこの時代は、表象を説明するのに、表象以外の準拠を──ルネサンス的な「物」であれ、近代的な「実体」であれ──持たない。その代わり、表象を表象の上に折り重ねてそれ自身により説明させる。「知」は空間的に広がった分類表に代表される透明な表象と交換のシステムとして組織される。時間性はまだ登場しない。18世紀末にこの領域に亀裂が走り、空間的なシステムは歴史の運動に飲みこまれていく。19世紀以後の近代に至ると、表象の背後にある物自体や無意識といった不可視の実体が問題とされ、表象はこの実体を起点とする時間軸の中で語られるようになる。

 古典主義時代のエピステーメは「カメラ・オブスキュラ」をモデルとして理解できる。暗い部屋の壁に開けられた小さな穴を通った光で、反対側の壁に映し出された像により、外界の対象を直接眼にしなくとも、この対象の表象を通じて真実を探ることができる。その装置について当時の人々はそう信じている。太陽が最もふさわしい主題となることは当然のなりゆきである。アイザック・ニュートンの『光学』には、カメラ・オブスキュラとプリズムを使ってスペクトル光線に分光された太陽像を得る過程が触れられている。ジョナサン・クレーリーは、『観察者の系譜 視覚空間の変容とモダニティ』において、ジル・ドゥルーズの言葉を借りてカメラ・オブスキュラを「アッサンブラージュ」と呼んでいる。それは技術的であると同時に言説的な存在であり、どちらかに還元することはできない。カメラ・オブスキュラは、言説の織りなす形象という存在が機械としての使用と切り離しえない混合体である。それは、光を通じた外界の正しい表象をもたらす装置にほかならない。

 この視点に立つと、デカルトは、カメラ・オブスキュラを人間の内的な空間、すなわち精神の表象と見なし、そこに正しい認識が生ずると主張したかに見える。時間性の欠落した「空間の世紀」において、デカルトは「コギト」という表象から「スム」という現実を導き出す。デカルトにとって、「スム」の現実性が「コギト」によって表象されているからである。しかし、「コギト・エルゴ・スム」はアナモルフォーズであり、この見解ではだまし絵の謎を見つけられない。

 コギトはスムと変容するが、コギトは実体ではなく、アナモルフォーズの作用である。ひび割れた自己などではない。主体の形成と懐疑は不可分である。コギトはア・プリオリに主体ではない。疑いの中、主体が生じる。疑いの自己組織的臨界状態に達したとき、コギトが誕生する。デカルトは方法的懐疑によって主体を生成させる。コギトは固体ではなく、言ってみれば、ゲルであり、ゾルである。それには微分方程式が十分に使えない。コギトは廃部であると同時に外部であるようなアメーバ運動をしている。

 デカルトは微積分を知らない。デカルトの哲学が西洋近代思想の起源であるとしても、近代は顕在化しておらず、潜在性としてのみある。「求積(曲線を全体的に把握すること)」と「微分(ある一点における挙動として捉えること)」の二つは導関数をとり、逆演算するという一連の手続きによって統一される。微積分は継続的に変化する量を扱う。微分は量の変化する速さを求める過程であり、関数を微分すれば変化率が判明する。国民国家は効率性・管理性に基づいているが、それは微積分、特に微分方程式が導き出している。フーコーとドゥルーズはそのパロディによる批判を試みている。フーコーとドゥルーズは積分と微分の関係にある。フーコーは積分的であり、ドゥルーズは微分的である。微分と積分には非可逆的関係が成立している。フーコーのエピステモロジ-は非連続体に対する積分、リーマン積分やカントールの集合論を踏まえたルベーグ積分である。フーコーが自らを構造主義者と認めないのは当然であろう。

 森毅は、『数学の歴史』において、「なにをもって、デカルトは『英雄時代』を代表しうるか」と次のように述べている。

 さしあたり、〈世界を理解するための概念形式〉が求められ、それは、彼が意識するとしないとにかかわらず、「数学」を一変させてしまったことだけが問題である。
 ギリシアで〈不変〉の象徴であった図形はもはや〈変化〉の表象であり、聖なる二次曲線は一般代数曲線にその席をゆずり、「数学」は〈記号の世界〉へとはいっていった。

 デカルトは座標を考え出し、図形を計算と結び付け、抽象化・数量化することに成功している。デカルト代数学と呼ばれているが、厳密には、デカルトがすべて考案したわけではない。座標的な発想を思いついたのはピエール・ド・フェルマーであり、「座標」という用語はライプニッツが考案している。ただ、デカルトに由来すると考えられてしまう点が重要である。デカルト自身が西洋近代思想のアナモルフォーズを体現している。

 デカルトによれば、神は二つの実体を創造している。一つは思惟実体、すなわち精神であり、もう一つは延長実体、すなわち物体である。彼は、スコラ哲学においては数多くあった「実体(substancia)」を三つ、すなわち神・物体・精神に限定する。その上で、物体の主要な属性は「延長(extensio)」、精神の主要な属性は「思惟(cogitatio)」であると単純化したが、このような単純化された物体の概念を取り入れることによって、空間が均質化され、力学的な機械論的世界観を構築する土台になっている。 デカルトは「延長」によって、これまで世界にあったさまざまな「意味」を剥ぎ取る。物体はただ物体としてそこに存在する。そうなれば、「外延(explicit)」と「内包(implicit)」の区別も生じる。前者は存在の定義であり、後者は性質や用法の定義である。近代はこうして発達してゆく。デカルトは、フランツ・ボルケナウが『封建的世界像から市民的世界像へ』の中で「デカルトこそ、資本主義的個人の生活を規定するカテゴリーから、統一的な世界像を打ち立てようと試みた、最初の人であった」と指摘しているように、変化を形式によって把握する方法を提示している。デカルトの登場により、西洋思想は近代に向けた自己組織的臨界状態に達している。

 「コギト・エルゴ・スム」は近代の出発点になっただけでなく、それを超えている。空間が渦で満たされているように、コギトも渦である。「コギト・エルゴ・スム」という非線形現象には線形的な因果関係を見出すことはできない。「みんな、物事に原因、結果の理屈を求めて納得したがっている。宗教に求めているのも、世の中がすぱっと割り切れる世界観とぼくは踏んでいる」(森毅『そこはかとない不安をついた新興宗教ブーム』)。コギトは私という現象のコアである。


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