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ミステリーと金田一耕助(1)(2016)

ミステリーと金田一耕助
Saven Satow
Mar. 31, 2016

「探偵小説は謎解きの遊びの文学である」。
横溝正史

1 ミステリーと近代
 ミステリーは、今日の日本において、比較的、時代の変化に左右されず、安定した人気を保っている。推理小説を元にした映画やテレビ・ドラマが絶えないのはその一つの証だ。シリーズ物も少なくない。特に、日本では、欧米と比べて、依然として本格ミステリーの新作発表も堅調である。

 物語の進行と共に、因果性や相関性に裏付けられて謎が解かれていくミステリー仕立ては、いわゆる純文学を含め現在では一般化した方法である。ファンタジーやホラー、SFなどにもミステリーの要素を組みこんだ作品も少なくない。しかし、ミステリーにそうしたロマンスの要素を入れることはできない。ミステリーは現実検討力を前提にするからだ。

 ミステリーは刑事事件を扱い、その謎解きであるので、問題解決である。問題には形式が明確なものと不明確なものがある。ミステリーの問題は犯罪であり、真相解明が解決だ。ミステリーの問題解決は具体的で、形式が明確である。

 だから、ミステリーには原則とも言うべき共通理解がある。その一つが読者の想像力の常識的範囲内に作品の時空間をとどめることがある。ミステリーには謎解きの楽しみがある。読者も登場人物と同じように動機やトリック、犯人を推理している。それらを解く材料が読者の常識的な想像力の範囲を超えていたら、作品に入りこめない。

 推理には想像力を働かせるための経験的知識が要る。推理小説は土地との結びつきが強い。イギリスの作家が英語でミステリーを書く場合、読者を英国の住民に想定する。その作品の読者層にとって実体験や伝聞でイメージできる土地が登場する。

 ミステリーは読者に実際と想像という二つの現実を用意する。シャーロック・ホームズの相棒であるワトソン博士はアフガニスタンから帰国し、ロンドンで開港をする設定である。当時の読書人にとってロンドンは実際の現実である。一方、アフガニスタンは英国が戦争をしている地域である。新聞はアフガン情勢を報道しており、読書人もそこから得た情報を元に想像を膨らませている。アフガニスタンは想像的現実である。

 かりにワトソン博士が日本から帰国したとしよう。戦争をしているわけではないので、新聞報道も限られている。読書人にとって日本は異国以上のイメージが思い浮かばない。想像上の現実でもない土地を文学作品に登場させても、読者にはピンとこない。読者の常識的な想像力の範囲を考えれば、アフガニスタンがほどよい外国である。

 英国のミステリーに植民地からやってきた人物が籠城する。植民地に関する情報は報道や口コミで読者も得ている。植民地は英国の読者にとって想像上の現実である。ミステリーは読者の想像力を押し広げようとするSFやファンタジーと前提が違う。

 推理小説の起源はエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』(1841)である。それ以前に遡る説もある。けれども、探偵が近代都市の犯罪事件を経験科学の方法に則って解明する形式はこの作品が最初である。ミステリーが安定した人気を維持しているのは、それが近代の産物だからだろう。作者も読者も作品世界も近代社会を共有している。その近代は市場経済・国民国家・科学技術を三本柱にする。推理小説にはこの三つを前提にしている。

 ミステリーをめぐってすでに作品論や作家論、ジャンル論、歴史研究など多くの成果が提示されている。ただ、それが基づく暗黙の前提に遡って考察することはあまりない。けれども、金田一耕助シリーズという異色のミステリーを理解するためには、この検討が不可欠である。

 近代がいつ始まるかという問いはその定義によって規定される。しかし、近代を捉える際に、歴史的遡行にのみ頼るわけにはいかない。と言うのも、近代は理論的基礎づけを持っているからだ。

 伝統的共同体はその存立根拠を神話によって語る。それは共同体の形成が人為的ではないことを意味する。神話は共同体の構成員に通時的・共時的な共通基盤を与える。神話を共有する人たちが共同体を構成する。神話は共同体によって異なる。各々に類似点・相違点もあるが、こうした神話に標準形はない。

 近代社会もその構成員に共通基盤が必要である。共有する理解がなければ、人々は社会をどのように維持・運営していけばいいのか皆目見当がつかない。

 近代は欧州で繰り広げられた宗教戦争を経ている。その経験から宗教を共通基盤にすることは避けられる。宗教は私的な内面の問題と位置づけ、公的な政治には別の見方が必要となる。こうして政教が分離される。

 近代は形而上学によって基礎づけられる。神話ではなく、経験的に考察可能な仮定を前提にしている。それは近代という政治社会が人為的に形成されたことを意味する。この形而上学は伝統的な7つの自由学科ではない。社会を考察対象にする「新しい学」である。後にこれは社会科学と呼ばれる。

 『モルグ街の殺人事件』をミステリーの起源にする理由の一つに、この近代の根拠を人為性に求めている点もある。ミステリーはいつの間にか出来上がった習慣ではない。明確な起源を持つことは、それが人為的に生み出されたことを意味する。『モルグ街の殺人事件』を期限とするのは、ミステリーにおける暗黙の社会契約である。

 理論は他者が理解を共有するために不可欠である。今日でも同様である。世界銀行は途上国への開発援助に関して内容だけでなく、その根拠となる理論も同時に公表している。理論を共有した上で、内容や効果の妥当性を吟味する。それによって理論自体の修正や保管も可能になる。

 近代を理解するためにはこの基礎づけの理論を知る必要がある。前近代と違う点がある。それは各国が近代化を内発的に行ってはいないことだ。産業革命の英国をモデルとして援用している。実際、近代の基礎づけは英国の思想家から進められている。近代には標準形がある。

 近代を最初に基礎づけた理論は社会契約説である。中でも、トマス・ホッブズやジョン・ロックは政治・経済についての考察を体系的に展開している。さらに、影響された大陸やスコットランドの啓蒙主義者が近代にふさわしい諸制度に関する形而上学的提案も発表している。

 近代は、前近代と違い、人為的に社会が形成されたと考える。この契約は一つの思考実験である。個人が集まって人為的に社会をつくったとする考えるモデルだ。契約は他者間で必要とされる。他者と共存する社会を想定する際、その相互承認を契約として考えてみる。これが社会契約論の発想である。契約概念が一神教の伝統に縛られるわけではない。歴史を遡って契約によって社会がうなれたことなどないと近代を基礎づける理論を批判することは意味をなさない。

 人間は、本来、自由である。その基本的権利は所有権だ。自然はそのままでは人間にとって有用ではない。人間が労働することで初めてそうなる。だから、労働によって得られたものを個人的に所有する権利は不可侵である。私的所有権こそが基本的人権である。近代において重要なのは徳ではなく、権利だ。ただ、自由な個人が同意するならば、お互いの所有物を交換することができる。その交換の場が市場である。

 市場は需要が増えれば、価格が上がり、供給が増えれば、下がる。参加者は需要側なら、できるだけ安く、供給側ならできるだけ高く価格がつくことを望む。けれども、参加者が多いと、思惑通りにならない。市場において個人は自由であるだけでなく、お互いに平等で、自立している。こうした個人によって形成されているのが市民社会である。市場経済は市民社会の基盤となる。

 個々人が活動すると、自由であるから、利益対立が起きる。それを調停する第三者が必要だ。生命と財産を守るために社会はその第三者に統治を信託する。それが政府である。政府は目的を行使する手段として個人にはない暴力を含めた権力が認められる。

 この政府の活動には資金が要る。それに協賛する限り、社会は政府に納税する。所有権が不可侵であるから、課税は政府が強制しているわけではない。この課税協賛説が近代の課税の理論である。近代を考える際に、歴史的に遡行するだけでは不十分だということがここからも理解されよう。

 しかし、政府は社会ではなく、自己の利益のために権力を行使し、暴走するかもしれない。それを防止するためには権力を分立させ、相互に牽制させればよい。行政・立法・司法の三権分立が近代の統治のフォーマットである。

 政府にとれるとこからとることをさせないために、徴税は法に基づいていなければならあい。立法をするのは政府自身ではなく、議会である。アメリカ独立戦争の主要なイデオロギーは「代表なくして課税なし」である。宗主国は三権分立を軽視し、同じ臣民であるはずの植民地の権利を保障していないというわけだ。アメリカは独立の際に市民の権利の保障を明文化して公表する。これが成文憲法制度の始まりである。

 現代の国会において予算案の審議が最も重要と位置づけられているのはこうした理由による。近代は社会が人為的につくられたとする。一見習慣に思えることでも、実際には理論による裏付けを持っている。

 市民の生命や財産を守るために専門的組織が必要である。それが警察だ。行政に属する警察は立法があらかじめ制定した法に則って権力を行使しなければならない。罪刑法定主義の原則である。市民が行動を委縮しないように、法の適用は通常人の理性や想像力の及ぶ範囲、すなわち現実検討能力の範囲内でなければならぬ。

 ここで用いられるのが解釈である。解釈は一般的・抽象的規範を個別的・具体的事例に適用させる際に行われる作業だ。これにはいくつかの手法があるが、刑法において類推解釈は認められない。ゴキブリが人間の食べ物を食べることを根拠に両者を同じと見なし、その殺虫に殺人罪を適用することはできない。別のものを同じと見なすので、常識人の想像力の範囲を超えるからだ。

 警察の暴走を抑止するため、それが妥当であるか否かを司法が判断する。警察は自らの判断・活動の妥当性を裁判所に納得させなければならない。近代の刑事では検察に立証責任がある。

 近世の日本では行政と司法が一体化している。朱子学が公式イデオロギーであり、統治は徳治主義に基づいている。為政者は徳があるから統治を担当しているのであって、世間から委託されているわけではない。捜査や判断のいずれでも物的証拠よりも自白が重視される。黙秘権など認められない。当局は取調の際に拷問を使うことがある。物的証拠や共犯者の自白が得られているのに、罪を認めない場合がその条件である。第三者がいないから、証拠の妥当性を容疑者本人に保証させるというわけだ。

 近代は法を人為的に作成された規範と認知する。近代体制を弁護士を始めとする都市教養市民層が推進するのはそのためだ。他方、成立根拠を神話に求めているように、前近代は法を生活の繰り返しから蓄積・形成された習慣と捉える。特定の立法機関を設置しない。立法を法の解釈と解する。いわゆる大岡裁きへの庶民の感心も立法者が解釈者であるという前提に基づいている。

 ミステリー仕立てが捕物帳などのように前近代を舞台にした作品にも使われることがある。これは、ミステリーが一般的に裁判や更生を扱わないから、可能な移植である。実際、ミステリーの推理には公判維持が難しいものも少なくない。坂口安吾は、それをよく心得ていて、『不連続殺人事件』で主人公にたんなる推理だと断言させている。

 金田一耕助シリーズを始めミステリーでは、犯人が真相解明後に自殺する結末が少なくない。これは作品世界を閉じるためである。実際の犯罪は容疑者を逮捕して終わるわけではない。裁判も待っている。また、刑が確定したら、更生の段階に入る。『罪と罰』のラスコリニコフのように、受刑者は自らの罪に向き合わねばならない。逮捕以後の過程の方が長い。しかし、犯人が自殺をすれば、事件はこれ以上の発展性を持たない。自殺が場を閉じる。

 近代において犯罪の被害者も加害者も市民である。市民を容疑者として逮捕するためには、警察は社会が納得する理由と根拠を示さなければならない。その手法が妥当であると理解を社会と警察が共有できる基盤が求められる。それが経験科学である。

 ここまでは形而上学的説明を続けてきたが。科学技術が近代の三支柱の一つになることは産業革命という歴史的事情も必要である。近代の基礎づけに取り組んだ思想家は全般的に科学の持つ客観性・実証性・再現性に期待を寄せている。科学的方法が新たな社会の建設に貢献すると信じている。ただ、知識人である彼らは科学を承知していても、実利から発展してきた技術には明るくない。近代の特徴である科学と技術の癒合に関しては必ずしも予想していない。

 18世紀後半、英国をフロントランナーにして欧州で工業化が始まり、大きな破壊的変化が起きる。それまで科学と技術は別々に発展してきたが、この時期から両者が関連する。科学の発見は学問上の展開にとどまらず、技術を進歩させる。科学は技術に応用され、生産現場を決定的に変える。科学と技術の融合の代表例は化学である。これはアカデミズムが産業に応用されている。化学は漂白や染色で産業革命に欠かせない。生産現場の進歩と共に、社会制度や日常生活も変化する。

 科学と技術は人間の裁量権が異なる。科学に人間の裁量権はない。重力や光電効果を拒めない。他方、技術には裁量権がある。発電の際にどの方法にするかを選べる。科学と技術の融合は、そのため、制御可能性を重要な課題にする。新たな科学技術は。しばしば制御不能に陥り、近代文明への反省を促す。

 経験的出来事や事件、現象を科学によって解明する試みも発展する。科学技術は見えないものを見ることを次々に実現する。それは社会的活動に応用される。統計学と地理学が医学と結びつき、感染症予防の公衆衛生を発達させる。近代的な思考や行動の解明にも科学技術が求められる。

 ブロード・ストリート事件におけるジョン・スノウを例に見てみよう。1854年8月、ロンドンのブロード・ストリートでコレラが流行する。医師のジョン・スノウは患者の発生分布を統計と地図によって分析したところ、特定の井戸を使っているという共通点を発見する。彼はこれらの偏印がその水にあると推理、手押し井戸のレバーを取り外す。コレラの流行は収束する。ミステリーの探偵を彷彿させる姿だ。

 コレラの原因がコレラ菌にあるとロベルト・コッホが発見したのは1883年である。生物学的要因が不明であっても、感染源・経路を解明すれば、感染症の流行を抑えられる。医学的因果性が確かめられていない対象を疫学的相関性によって対処している。因果性は二つの事象の関係を明示するが、相関性は暗示にとどまる。る。因果性が解明できれば望ましいけれども、それが困難な場合、相関性を用いることは実践的である。

 シャーロック・ホームズに『踊る人形』という物語がある。名探偵は人形の絵を暗号文と推理し、英語において”e”の使用頻度が最も高い経験的事実を鍵にそれを解く。さらに、踊る人形を使って新たな暗号文を作成している。この方法はスノウと同じく相関性に基づいている。

 スノウの疫学的研究は近代経験科学に基づく推理であって、警察の犯罪捜査も同様の発想をとる。事件の犯人がわからなくても、物的・状況証拠を経験科学的方法で解析すれば、容疑者が推理できる。見えない犯人が経験科学によって見えてくる。

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