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子規の写生文(2019)(1)

子規の写生文
Saven Satow
Aug. 31, 2019

「巧を求むるなかれ、拙を蔽うなかれ、他人に恥ずるなかれ」。
正岡子規

第1章 汎用文章としての写生文
 正岡子規が提唱した「写生文」は、今日に至るまで、最も基本的な文章心得の一つとして影響を及ぼしている。小学生の頃、飾らずに、事実や人物や事物、風景、心象をありのままに書くことを教師から作文指導された人も少なくないだろう。原稿用紙を前にしても文章をどう書いたらいいかわからない。そんな人にとって、この対象について簡潔にありのままに書くことは最初の綴り方の指針である。子規は、『叙事文』(1900)の中で「或る景色を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず、只ありのまゝ見たるまゝに」と述べている。このように作文指導のモットーは「写生文」の思想から派生したものである。

 写生文は文章の書き方を草の根に育んでいる。前近代において、日本の人々の識字率は必ずしも高くない。古代や中世は言うに及ばず、寺子屋が普及した近世であっても、自由に読み書きができることは支配者・エリートの証である。だが、近代に入ると、公教育の普及に伴い、人々の識字率は上昇する。もはや特別な人だけが読み書きができるわけではない。学識や教養のある知識人のみが読み書きをしている時代には、古典を共通理解として文章の創作・鑑賞の規範としている。しかし、識字能力の急速な普及はそれが成り立たない状況をもたらす。読み書きはできるようになったものの、無教養なので、創作・鑑賞の基準がわからない。

 こういった状況ではストックの知識がさほどなくても読んだり、書いたりする文章が求められる。そこに登場したのが子規の写生文である。これは多くの賛同者を巻きこんで運動と化し、近代の文章心得として人々の間で受容されていく。

 柳田國男は写生文運動の価値の意義を早い時期から認めている。彼は『国語の管理者』(1927において「文章と生活との結合」を実現したと評価している。また、司馬遼太郎は、『文章日本語の成立と子規』(1976)において、万人向けで、汎用性が高く、共通性のある文章モデルを創作したと言っている。「山会」を通じて「一つの言語社会に、その社会の他の諸要因も参加してついには共通文章語を成立させ」た子規に漱石以上の「密度の高い評価」を与えるべきとする。

 この「山会」は、1899年より始まった子規を囲む文章会で、俳人や歌人が集っている。名称は子規が1900年に語った「文章には山がなければならぬ」に由来する。この「山」は中心のことである。会は1902年の子規の没後も続けられ、『ホトトギス』の恒例になっている。

 芥川龍之介は、『文芸的な、余りに文芸的な』(1927)において、正岡子規の写生文の散文にもたらした影響について次のように述べている。

 しかし僕の言いたいのは「しゃべる」ことよりも「書く」ことである。僕等の散文も羅馬のように一日に成ったものではない。僕等の散文は明治の昔からじりじりと成長をつづけて来たものである。その礎を据えたものは明治初期の作家たちであろう。しかしそれは暫く問わず、比較的近い時代を見ても、僕は詩人たちが散文に与えた力をも数えたいと思うのである。
 夏目先生の散文は必ずしも他を持ったものではない。しかし先生の散文が写生文に負う所のあるのは争われない。ではその写生文は誰の手になったのか? 俳人兼歌人兼批評家だった正岡子規の天才によったものである。(子規はひとり写生文に限らず、僕等の散文、──口語文の上へ少からぬ功績を残した。)

 芥川はここで近代日本の散文の源泉を明らかにしている。子規の写生文運動は漱石などを通じて日本近代文学の散文に、二葉亭四迷等の言文一致運動と並んで、決定的な影響を与える。写生文は近代散文における文章作成の最も基本的な規範だというわけだ。

 もちろん、写生文の心得がすべての散文をカバーできるわけではない。散文の文章は目的によって大きく三つに分けられる。それは事実を伝えるもの、意見を述べるもの、共感を求めるものである。写生文は主に最後のタイプに適している。

 事実は作者の外側にある物事である。事実型は、そのため、5W1Hによって象徴される概観や因果関係などを具体的に伝達するものだ。新聞記事が典型例である。

 意見は作者の内側にある考えである。意見型は理由を納得してもらうものだ。意見は、感想と違い、明確な理由がある。それを補強するのが根拠で、これは作者の外側にある。重要なのは、そのため、理由である。これを納得してもらうために、実例を挙げたり、視点を替えたりなど根拠を示す。外側にあるものを作者と読者が共有してその結論の妥当性を了解する。批評がこのタイプの一例である。

 共感は自分の内側の心情の他者との共有である。共感型は心の動きを理解してもらうものだ。心情であるから、明確な理由がないことも多い。読者はその心の動きのシークエンスをたどることで追体験したり、感情移入したりする。共感型の文章は感性に訴えかけるので、感情の多様性を表わす機能がある。ただ、近代では、社会に対する自意識の優位を確保する目的で、恣意的選択を感情の多様性とすり替える場合があるから、注意が要る。また、新たな価値観の発見や忘れていた価値観の自覚として用いられることもある。その価値観の共有が文章を理解する前提にしばしばなる。随筆や紀行文がこの共感型に属する。

 小学校の読書感想文は共感型に属する。本を読んで、自分の内面で生じた感想を記すが、その際、特に論拠を提示する必要がない。写生文の影響がこのような作文指導において強いとすれば、その文章は共感型が一次的で、事実型や意見型は二次的である。「名文」もそこに偏ってしまう。

 近代は自由で平等、自立した個人によって成り立つ社会を理念としている。個々人はそれぞれ不可侵の内面を持っている。この内面の平等を前提にして作者の体験を読者が追体験して共感する。こうした感情の共有は、読むために前知識を必要とする文章では起きにくい。万人にわかりやすいように、専門用語に覆われたり、枝葉が多かったり、凝った修辞を駆使したりすることは避けられる。このような要請に応える写生文は汎用文章である。

 写生文に対する評価は肯定的なものだけではな。最も鋭い指摘をしたのが写生文の実践者でもある夏目漱石である。漱石は、『写生文』(1907)において、写生文の特徴を「大人が小供を視るの態度」によって書かれた文章であるとし、描写対象に感情移入する小説家の文章と対置している。写生文を認めながらも、「二十世紀の今日こんな立場のみに籠城して得意になって他を軽蔑するのは誤っている。かかる立場から出来上った作物にはそれ相当の長所があると同時に短所もまた多く含まれている。作家は身辺の状況と天下の形勢に応じて時々その立場を変えねばならん」と述べている。過去との断絶を強調する写生文には扱える主題に限界がある。絶対視せず、相対的に捉え、主題を含めた作品御諸事情に応じて使い分けるための一つの方法論と理解すべきというわけだ。

 今なぜ写生文かと問われることはあまりない。電子メールやSNSの普及に伴い、人々はかつてないほど文章を読み書く時代を迎えている。特に、書くことがこれほど身近になった時期は歴史上初めてだろう。そのため、わかりやすくㇺ誤解しにくい文章の書き方の需要も大きい。しかし、それは事実型や意見型である。共感型の写生文が再発見されることは必ずしも起きていない。

 ただ、写生文が20世紀の日本において文章の基本的な規範だったことは確かである。それを再検討することは文章を書く時代である今を見つめ直すことにもつながる。


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