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福田恆存、あるいは臨界感覚(4)(2005)

六 非平衡感覚
 福田恆存は「戦後左翼」や「戦後民主主義者」に自己劇化ではなく、自己欺瞞を見出したのであります。彼らは「自己批判」して、それをしないものを糾弾します。が、その精神構造自身は何一つ変わっていないのです。戦前と同様、ただ時流に乗っているだけであります。彼はそんな風潮に危機を覚えたのです。

 が、この日本文化会議理事に依拠して、フリードリヒ・ニーチェやD・H・ロレンス、T・S・エリオットといった西洋人による西洋近代文明の自己批判を援用して西洋文明を糾弾する厚顔無恥さ同様、いわゆる戦後の進歩派知識人を攻撃する保守派は真に「滑稽」でありましょう。彼らは「うしろぐらさ」さえ感じていないからであります。「節操」のなさは戦後民主主義者と同じです。福田恆存は反共産主義者として左派を批判しているわけではないのですから。

 柄谷行人が言及している福田恆存は『平和論にたいする疑問』は、その挑戦的な内容で、激しい議論を引き起こしております。支配的な平和論が「もし第三次世界大戦が起きたら」というような条件節で語られていることを批判し、核兵器で世界全体が滅んでしまうのなら、そこに恐怖などないと主張しています。これはただ現実を言い当てているだけで、「平和運動に対する反対論ではないし、福田の言うことに完全に同意しながらでも平和運動は可能」であります。どうせ人間いつかは死ぬのだから、何もしようがしまいが同じだとはなりません。

 けれども、今日、核兵器への不安は、東西冷戦構造当時と違い、国家による使用から、多方面に拡散しております。核の脅威は世界全体の破滅と言うよりも、小型核爆弾が大都市でテロに用いられるなど限定的な危機へと変容しています。体制が違うので、信用ならないけれども、もし核を使えば全人類を滅亡させるのだから、相手も馬鹿ではあるまいと考えるのが核抑止論であります。核の均衡論がまかり通ったように、東西冷戦構造は大きな平衡状態を保ち続け、福田恆存のレトリックも冴えていましたが、アメリカだけが超大国として残り、世界は非平衡状態にありましては、それも有効ではありません。

 また、英語の「クリティカル(critical)」は二つの名詞の形容詞を兼ねております。一つは「批評」や「批判」を指す「クリティク(critic)」であり、もう一つは、「危機」や「運命の分かれ目」を意味する「クライシス(crisis)」であります。「臨界」は後者に属します。原子核分裂の連鎖反応が始まる直前が臨界であり、合衆国は臨界前核実験を開発し、包括的核実験禁止条約の抜け道になっております。「おなじ平面上の他のいかなる個体にもさきだつて、はやくも鋭敏に危機の到来を予知する精神」は別のレトリックが必要なのであります。

 核テロを防ぐ手段は今の合衆国にはないのであります。湾岸戦争でアメリカ空軍を指揮したチャールズ・ホーナーは、二〇〇五年八月九日付『朝日新聞夕刊』の吉田文彦の「核テロの不安」によると、「ハイテク兵器で他を圧倒する米国を破滅させるものは、核兵器だけだ。核廃絶によってこの可能性をゼロにする方が米国にとってプラスになる。核は『使えない兵器』であり、通常兵器による安全保障が現実的な選択だ」と言っております。この主張の方が現代的でありましょう。

 こうした時代において、むしろ、「非平衡感覚」を持たねばなるまいし、福田恆存を読む意義はその非平衡性=非線形を踏まえた「臨界」にあるのでありますまいか。「批評的」=「臨界的」は依然として古びておりませぬ。彼は線形的な認識の時代を生きておりましたけれども、非線形によって読むことができるのであります。と申しますのも、彼は素朴な二項対立ではなく、複雑な「バランスで生きた人」だからです。「なんぴとにもましてもつとも安定と平穏とを愛するがゆゑに、現実のあらゆる安定と平穏とを拒否するのだ」と彼は書きましたが、非平衡の現実の方に「安定と平穏」がない以上、「臨界」を自己組織化論から捉え直すべきであります。

 福田恆存の「平衡感覚」、すなわちわれらの「非平衡感覚」は「カオスの縁」を探ることです。それは秩序立った線形現象から非線形現象へと移行する境、すなわちコスモスとカオスの臨界点であります。

 自然は安定状態を保つため、自らに変化を与えております。多数の要素が複雑に相互佐用するような系では、それは臨界状態に移行し、系自体によってその過程が起こされるのです。これが「自己組織的臨界現象(SOC: Self-Organized Criticality)」であります。相互作用のある複雑な系は臨界状態へと自己を組織化するのです。自己組織化における「自己」は、都甲潔=江崎秀=林健司の『自己組織化とは何か』によると、「構成要素と、その結果ででき上がる秩序ある構造」であります。臨界状態にあるとき、初期値敏感性があり、連鎖反応を起こし、系の無限個の要素にも影響を及ぼします。雪崩や地震、株式市場の暴落、パニックはその典型例であります。

 自己組織化臨界現象は複雑さを生み出すのであります。アリジゴクはこの現象を利用して餌を採っております。この昆虫は巣穴の状態を臨界状態に保っています。蟻がうっかりそこにはまってしまうと、いくらもがいても、砂が落ちていくだけで、登ることはできません。自己劇化は自己組織化臨界状態として生じると認識し直すべきであるまいか。臨界状態に達したときに、自己組織化されたものが福田恆存の「自我」であります。

 この読売文学賞受賞者は、『龍を撫でた男』第一幕第三場において、次のような意味深なセリフを書いております。

家則 ぼくは親しいひとがこっちに気づかれずに、ひとりぼんやりしているのを、じっと見ているのが好きなんだよ。
蘭子 なぜ?変な趣味じゃないの。
家則 それあね……、変かもしれないけれどね、とにかくいいもんだよ。きみも一度ためしてごらん、そのひとがますます好きになるから……。

 演戯の基本は、実は、何もしていない状態であります。「こっちに気づかれずに、ひとりぼんやりしている」姿を「じっと見ている」とは意識的には自己劇化していない自己を見つめることでありましょう。それは自己組織化されたものです。これは、むしろ、「ちょっと突っ張り過ぎた」批評自身に対して言えることではありますまいか。彼の批評はそう読まれることがあまりに少なすぎます。「とにかくいいもんだよ。きみも一度ためしてごらん、そのひとがますます好きになるから……」。

 申すまでもなく、藝術とは、精神を通じて、あるいは視覚や聴覚を通じて、精神の最高のいとなみから肉体のあらゆる末梢的なはたらきにいたるまで、心身の全機能の完全な調和をもたらすものであります。文明がその分裂を劃策すればするほど芸術はそれにたえ、それに即応しながら、調和への努力を惜しんではならない。分裂に無関心であってはならぬと同時に、分裂症状に拍車をかけ、あるいはすすんで自己をもそれらの分枝の一たらしめるようなことがあってはならないのです。じつにかんたんな結論でありますが、藝術は趣味であり、一時代の趣味を要請するものであり、論理や倫理の変調を正すものであります。趣味は結果としては、その時代の文明に牽制され、その時代の文明を物語るものであると同時に、もとはといえば、その文明を規正し、われわれを生命の根源に結びつけるものであります。趣味の確立していないところでは、倫理の基準はありえず、科学もまたなにを真としていいかわからない。論理や倫理や情念かあやまつところで、趣味は立ちどまります。真が狂うところで、美は正気を維持します。それは激烈に転廻しているがゆえに静止しているような独楽のようなものだ。論理や情念は転廻しながら同時に静止することはできない。転廻するとすれば、それはあくまで転廻しているだけであり、静止すればただ静止しているだけにすぎない。時間に流されるか、空間に枯死するか、いずれかであります。そして、美とは時間の空間化、空間化された時間を、意味するものにほかなりません。
 われわれはそのために演戯するのではなかったか。たんなる現実の行動は、一見、時間のなかに動いているようにみえて、じつは机のひきだしにしまい忘れたピンのように固定したものであり、同時に、そのピンのように星辰の運行とともに動いているにすぎない。真に時間を経験するために、現実のそとに虚偽の行動を、すなわち演戯をこころみなければならぬのであり、そうすることによってのみ時間ははじめて現実とはべつの次元に真の空間化を得るのだ。その意味において、藝術は人生にとって無用であります。が、そういう藝術もまた人生とともに流されてゆく。矛盾でありましょうか。いや、そうではない──人生もまた、なんの目的ももたぬ無用の存在ではありませんか。
(福田恆存『藝術とは何か』)
〈了〉
参照文献
福田恆存、『藝術とは何か』、中公文庫、1977年
同、『人間・この劇的なるもの』、中公文庫、1979年
同、『福田恆存全集』全8巻、文芸春秋、1987~88年
ウィリアム・シェイクスピア、『シェイクスピア全集』全15・補4巻、福田恆存訳、新潮社、1977~86年

柄谷行人、『意味という病』、講談社文芸文庫、1989年
小林秀雄、『歴史について 小林秀雄対談集』、文春文庫、1981年
高橋康也他編、『研究社シェイクスピア辞典』、研究社出版、2000年
都甲潔他、『自己組織化とは何か』、講談社ブルーバックス、1999年
森毅、『ゆきあたりばったり文学談義』、ハルキ文庫、1997年
ウィリアム・シェイクスピア、『シェイクスピア全集』29、小田島雄志訳、白水Uブックス、1983年
『世界の文学 エテルナ』1、中野好夫訳、筑摩書房、1978年
柄谷行人、「平衡感覚──福田恆存を偲んで」、『新潮』1995年2月号
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/shincho9502.html

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