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人間中心主義批判としての実在論の復権(2019)

人間中心主義批判としての実在論の復権
Saven Satow
Sep. 20, 2019

「本能とは、個体を超えた自然の設計というものを否定するためにもちだされる窮余の産物にすぎない。自然の設計が否定されるのは、設計が物質でも力でもないので、設計とはなにかということについて正しい概念が形成できないためである。」
ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』

 世紀末から思想界で実在論の復権が顕著である。それまでは差異や他者といった多様性への着目から唯名論が優勢だったが、それを撮りこんだ実在論が提唱されている。その際、人類学の存在論的転回や哲学の思弁的実在論などは従前の唯名論が人間中心主義だと批判している。唯名論は相対主義を取り、実在論を普遍主義と見なしてきたが、その図式を転倒させている。

 唯名論と実在論は中世神学の普遍論争に由来する。「普遍論争(Problem of Universals)」は「普遍」の実在性をめぐる論争である。個々の事物が存在することは確かである。問題なのはその個々のものを類とする普遍が実在するのか、それとも名目にすぎないのかである。普遍を実在する説を「実在論(Realism)」、名目上とする説を「唯名論(Nominalism)と呼ぶ。

 実在論の代表的論者としては、神の存在証明で知られるアンセルムスを挙げることができる。また、トマス・アクィナスは実在論の立場から唯名論との調和を試みている。 他方、唯名論は、自由恋愛のアベラールや「オッカムの剃刀」のオッカムのウィリアムなどがいる。

 「オッカムの剃刀(Occam's Razor)」は、ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでないとする指針である。これは現在でも科学的思考において一般的に採用されている。説明原理や変数、条件をできる限り減らし、事象を調査・実験・分析して因果性・相関性を明らかにする姿勢である。なお、「オッカム」は家族名ではなく、出身地で、個人名は「ウィリアム」である。しかし、「オッカム」と呼ばれることが多い。

 普遍論争は、言わば、プラトン対アリストテレスの代理戦である。イデア説との賛否であるから、その後の思想家も実在論と唯名論のいずれの傾向に属するかを分けることができる。大陸合理論は前者、イギリス経験論は後者に大別できるだろう。

 「唯名論(Nominalism)」の”Nominal”は「名目」とも訳され、むしろ、こちらの方が馴染み深い。名目の類義語は「仮想(Supposed)」や「擬似(Pseudo)」である。前者は仮に想定したものであり、後者は外見上似ているが、本質的には異なるものを指す。この名目の反対語が「ヴァーチャル(Virtual)」である。ヴァーチャルが「実在 (Real)」の類義語で、それは表面的にはそう見えないけれども、本質において現実を感じさせるものを意味する。リアルの反意語は、「実数(Real Number)」と「虚数(Imaginary Number)」の関係が示している通り、「虚(Imaginary)」である。

 実際には、実在論的なものも唯名論的なものも社会には存在する。株式や債券の市場は取引所が実在する。それに対し、外国為替や労働の市場は名目的なものである。また、「国内総生産(Gross Domestic Product: GDP)」には「名目GDP(Nominal GDP)」と「実質GDP(Real GDP)」の二種類がある。前者はその時の市場価格で評価したもの、後者はそれを物価変動で割ったものである。名目GDPは物価変動が反映されるので価格ベース、実質GDPはその影響を除くから数量ベースとなる。消費動向を見たい時には名目ではなく、実質を参照する。このように、実在論と唯名論のどちらが正しいかという議論は必ずしも建設的ではない。

 すでに述べたとおり、70年代は差異、80年代は他者がキー概念であったため、思想は全般的に多様性を指向している。ホロコーストのような出来事には文脈、すなわち立場によって異なった認識が生じる。それを鳥瞰して一くくりにすることなどできない。実在論は、普遍論争が示す通り、普遍主義と見なされ、相対主義の唯名論に対して旗色が悪い。ジャック・デリダを始め70年代以降の思想家はプラトンを仮想敵にしていることが少なくない。しかし、90年代を迎えると、多様性を取り込んだ実在論が主張されるようになる。

 エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロは人類学に従来支配的だった認識論からの「存在論的転回(Ontological Turn)」をもたらす。彼は認識論との対抗から存在論を用いている。だが、これは唯名論から実在論へと言い換えられる。オッカムの剃刀が示している通り、従前の経験科学は唯名論に属するからだ。

 カストロは一つの世界に対して複数の認識があるという発想を批判する。そうではなく、複数の世界が存在する。ヒトにはヒトの世界、クマにはクマの世界、カラスにはカラスの世界、サボテンにはサボテンの世界、海には海の世界がある。人はもともとなりきる存在である。それらの世界になりきることによってヒトは交差する。レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』によれば、シベリア先住民はシカ(エルク)を狩る際、その皮を被ってなり切る。シカと相互誘惑し、融合が生じる直前に仕留める。その後、儀式的作法を通じてヒトに戻る。こうした存在論的人類学は、従来が多文化主義とすれば、多自然主義である。

 「思弁的実在論(Speculative Realism)」はポスト・カント主義に代表される関係主義の克服を目指す哲学の立場である。アルベルト・トスカノやレイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマン、カンタン・メイヤスーなどが含まれる。この名称は、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで2007年4月に行われた学術会議に由来する。

 イマヌエル・カントは『純粋理性批判』において存在や認識を経験と理性の中で捉えることを主張する。存在は自立してあるものではなく、関係の連結点である。人間の認識には有限性があり、現象を知ることができても、物自体は不可知である。カントはこのコペルニクス的転回により素朴実在論を乗り越える。近代や現代の哲学者は、その批判者であっても、カントの関係主義を踏襲している。

 論者はそれぞれ個性的なので、思弁的哲学について断言することは難しい。ただ、彼らがカント以来の関係主義の転倒を試みていることは共通している。もっとも、関係主義ではなく、それを「相関主義(Correlationism)」と呼び、認識論に代わって「アクセスの哲学(Philosophies of Access)」として批判する。

 メイヤスーは『有限性の後で』において「思考と存在の相関物にしかアクセスできず、片方を抜きにしてはそのどちらにもアクセスできないという考え」と相関主義を規定している。また、アクセスの哲学は実在に対する人間の優位を説く哲学のこととする。この「アクセス」は拡張された認識である。認識がもっぱら精神活動に関連するのに対し、アクセスは身体も含む。

 この「アクセス」に限らず、思弁的実在論者はIT用語を借用することが少なくない。グレアム・ハーマンは「オブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology: OOO)」を自称している。

 相関主義もアクセスの哲学も、メイヤスーによると、人間中心主義的な思想である。相関主義はアクセスできないものを思考することは不可能であると主張する。しかし、それでは、人類誕生以前のような人間の存在しない世界のことを考察することができなくなってしまう。世界は人間をおかまいなしに実在する。相関主義やアクセスの哲学を克服するために、理由なき絶対的偶然性を絶対者とする必要がある。

 従来のインターネット上のコミュニケーションは人間中心である。しかし、今やIoT(Internet of Things)、すなわちインターネットを通じた物同士のコミュニケーションが爆発的に増加している。ビッグデータの多くはそれが占めている。人間による認識は困難で、そのかいせきにはAIが不可欠だ。データベース構築もオントロジーの発想が取り入れられている。近代科学が基づいてきた唯名論=認識論ではなく、実在論≒存在論がビッグデータ時代には見直されねばならないというわけだ。それは思弁的実在論が注目されていることとも呼応する。BD時代は実在論=存在論の科学時代と言えるだろう。

 思弁的実在論は人間の優位を認めない。それどころか、生物と非生物も区別しない。こうした主張は必ずしも彼らが初めてではない。20世紀初頭、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルはすべての動物が独自の時空間で生きているという「環世界」の考えを提唱している。また、1960年代にジェームズ・ラブロックらが提唱したガイア理論は地球と生物が相互作用によって環境を構成するとし、それを一つの巨大な生命体と見なしている。これはディープエコロジーの論拠の一つにもなっている。さえあに、江戸後期、臨済宗の僧侶儀山善来「一滴の水を惜しめ、草や木の命の声を聞け」と言っている。水上勉がその影響を受け、「一滴の水」から原発に対する批判を行っている。

 ただ、今の実在論の復権はかつてとは比較にならないほど人間中心主義の弊害が政治や経済など広範囲に亘って顕在化して言うからだろう。エコロジーの政治のプレゼンスを高める同時代的文脈が現代の実在論の進展と無縁ではない。現代の実在論の重要な問題提起は人間中心主義批判である。名目論は西洋中心主義の相対化には貢献したけれども、この点では不十分だと指摘する。

 人間中心主義の問題点について説明しよう。

 近代は自由で平等、自立した個人によって成り立つ社会を理念とする。社会契約説によれば、政府、すなわち国家はその社会のための機関である。功利主義によると、個人の功利、すなわち幸福の増大が社会にとって望ましい。その際、経済成長や科学技術の進展による物資的豊かさが必要で、それにはそうした活動の自由が不可欠である。国家は産業発展を邪魔しないのみならず、促進する制度整備や政策実施を担当していく。

 しかし、急激な産業発展は自然環境にその回復力を大きく上回る負荷を加える。それは無視できない状態に至り、公害を始めとするさまざまな環境問題が噴出する。こうした状況は近代文明自身への懐疑をもたらす。

 この事態は物質的豊かさの追求が招いたことは確かである。それは社会の功利の増大に基づいており、この幸福はあくまで人間が中心だ。その信託を受けた政府の活動も同様である。産業主義には人間中心主義が背後にある。

 エコロジーはこうした人間中心主義批判を含まざるをえず、それは近代を相対化する思想である。エコロジーの政治は人間社会の維持と繁栄、すなわち人間の満足以外の課題の考察を促す。伝統的な共通善、すなわち公共の利益に人間以外の自然界全体のそれを加味する。むろん、環境悪化は社会における功利を減少させる。功利を増大させるために、政府はエコロジーの問題提起に応える必要がある。だが、人間の幸福追求自体が環境悪化を招くとすれば、自由の制限が伴い、人々の同意が必要となる。

 このように人間中心主義批判は近代文明全体を射程に入れるので、近代以降に蓄積されてきた知識の全否定を招きかねない。それは非合理主義の台頭を許すことになる。

 この非合理主義には二種類がある。一つは既得権や生活習慣の維持のため、エコロジーの異議申し立てを軽視・無視する動向である。それは、アメリカの地球温暖化懐疑論者が示している通り、科学の知見を恣意的に利用する。

 もう一つは人間中心主義批判を推し進め、近代を否定したり、民主主義を罵倒したり、科学技術を無視したりする動向である。こういった反近代主義は自然回帰論とは限らない。現代の実在論から影響を受けた論者にも広く認められる。彼らは近代を相対化することをその否定にすり替える。

 人間中心主義批判に取り組まなければならないのは、こうした極論が左右を問わず苛立ちを覚える人をしばしば魅了するものの、無責任でしかなく、破壊をもたらすからだ。存在論的転回や思弁的実在論の見解には示唆的なものも少なくない。しかし、それに便乗して近代の放棄を触れ回り、その理論に革命的な代替案があるかのように語る。お騒がせ者の「言ってる感」ですめば実害はさほどないが、そこでとどまると断言できないのが今の時代である。

 近代の蓄積を生かしつつ、その潮流の修正を提言し、国内外の社会的コンセンサスを形成する。こうした現実策の代表が持続可能な開発で、それは近代主義とエコロジーの弁証法的止揚である。90年代以降、一つのキー概念を用いて、社会全体を見渡す言説を提起するプレゼンスのある思想家は登場していない。多様性が言説のみならず、実際になっている。認識でなく、世界の多様性を説く現代の実在論はこうした時代を反映している。

温暖化対策求め世界で行動
気候行動サミット前後 132カ国4000超
 ニューヨークの国連本部で23日に開かれる「気候行動サミット」を挟んだ20日~27日にかけて、世界各地で地球温暖化対策の強化を求める行動が一斉に取り組まれます。非政府組織「350.org」が18日までに明らかにしたところによると、132の国で4000超の行動が予定されています。
 ニューヨークの高校生や大学生は20日、政府や企業に地球温暖化対策を求めて授業をボイコットする「学校ストライキ」を予定しています。ニューヨーク入りしているスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさんも参加し、市内をデモ行進します。
 グレタさんは昨年夏、地球温暖化対策が不十分だと抗議して授業をボイコットし一人でスウェーデン議会前で座り込みを開始。世界各地の高校生や大学生の共感を呼び、毎週金曜日に地球温暖化対策を訴える抗議活動「未来のための金曜日」が各国に拡大しました。
 20日からの1週間、ベルリン、パリ、ロンドンをはじめ欧州各地でも若者を中心とした市民が、化石燃料産業への補助金の廃止、自然エネルギーの活用拡大などを訴えます。独仏英などの労働組合が若者のストへ支持を表明しているほか、ミュージシャンや芸術家の間にも支持が広がっています。
日本国内 20都市以上
 「気候危機は、まったなしの緊急事態」―。日本国内では20日、札幌、仙台、福島、東京、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡など20都市以上で実施が計画され、増加中です。さまざまな行動が準備されています。
 気候変動問題に深い関心をもつ日本の研究者が呼びかけ人となり、「Fridays For Future(未来のための金曜日)の若者を支持する日本の科学者としての声明」を発表しています。若者や子どもたちが求めている、安心して生きていける未来、気候変動に関する不正義や不公平の是正というメッセージを支持し、発信することを広く呼びかけています。
(2019年9月19日付『しんぶん赤旗』)
〈了〉
参照文献
おおえまさのり他、『ガイア』、現代書館、1991年
千葉雅也、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』、 青土社、2018年
松村圭一郎他編、『文化人類学の思考法』、世界思想社、2019年
山内志朗、『普遍論争 近代の源流としての』、平凡社同時代ライブラリー、2008年
レーン・ウィラースレフ、『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』、奥野克巳他訳、亜紀書房、2018年
スティーヴン・シャヴィ、『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』、上野俊哉訳、河出書房新社、2016年
カンタン・メイヤスー、『有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論』、千葉雅也他訳、人文書院、2016年
ユクスキュル他、『生命から見た世界』、日高敏隆訳、岩波文庫、2005年
「温暖化対策求め世界で行動」、『しんぶん赤旗』、2019年9月19日
http://jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-09-19/2019091901_03_1.html


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