見出し画像

捕物帳と政談(1)(2023)

捕物帳と政談
Saven Satow
Feb. 19, 2023

「偉い時代劇の作家、池波正太郎とぼくが喧嘩したの。これで喧嘩したのね。淀川さん、『乱』はいいけど、濠がないじゃないかと言ったのね。そんな見方してもろうてたら困るんだ、黒澤明の映画は。そんなこと関係ない。ぼく、黒澤さんに濠がない、言われた人あったよ、言ったら、『バカだね。山の城には壕はないんだよ。だれがそんなこと言った』」。
淀川長治『淀川長治映画塾

1 池波正太郎生誕100周年
 2023年は池波正太郎の生誕100周年に当たる。彼は、1923年1月25日、東京府東京市浅草区(現東京都台東区)に生まれる。戦後、劇作家として活動し、1954年、『厨房《キッチン》にて』を発表、小説家としてデビューする。1957年、『錯乱』により直木賞を受賞、主に時代小説家として執筆活動している。代表作の『人切り半次郎』(1963)や『鬼平犯科帳』(1967~89)、『剣客商売』(1972~89)、『仕掛人・藤枝梅安』(1972~90)、『真田太平記』(1974~82)は映像化されている。1990年5月3日に67歳で没している。

 2023年1月4日付『毎日新聞』の「余録」は池波正太郎100周年記念をめぐり次のように述べている。

 江戸は本所、枕橋の北詰めにあるそば屋は、正月休み明けの4日に限り店名にちなんだ「さなだそば」だけを出す。信州のねずみ大根の搾り汁を合わせたそばつゆは舌が曲がるほど辛く、常連客は寄りつかない。池波正太郎の短編「正月四日の客」だ▲なぜそんなそばを出すのか。ある年の正月4日に訪れた客と主との心の交流をつづりながら、辛いそばに込めた思いが解き明かされていく。客の意外な正体とてんまつに人の世の不条理、哀切が身に染みる▲池波が亡くなって30年あまり。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」の時代小説3シリーズをはじめ、いまだに売れ続けているけうな作家だ。今月25日には生誕100年を迎える▲生誕地の東京・浅草にある記念文庫などでさまざまな催しがある。2月から豊川悦司さんが新たにダークヒーロー、梅安を演じる新作映画2本が連続公開されるのも話題だ。日比谷図書文化館でもきょうから企画展が始まる▲図書部門長の菊池壮一さん(67)は若き書店員時代に池波と交流があった。「軽妙だけど心に響く」。根強い人気の理由を説く。芯を貫くのは梅安に象徴される「人間は、悪いことをしながらよいことをし、よいことをしながら悪事を働く」というテーマだ▲善と悪、光と闇。池波は矛盾を抱えた人間の生き様や世の中を鋭く見つめ続けた。だが、どうもこのごろは悪や闇ばかりが幅を利かせているのではないか。きょうは仕事始め。少しでも善が悪に勝る年にならんことを。

 菊池壮一日比谷図書館図書部門長は池波文学のテーマについて、「人間は、悪いことをしながらよいことをし、よいことをしながら悪事を働く」と解説している。しかし、これは彼の時代小説の舞台である近世の人々の共有する規範意識ではない。むしろ、近代人の認識である。近代は政教分離の時代であり、内的な認知と外的な行動が一体化している必要はない。近代では、相互性があるため、個々人が利他的行為をすれば、社会全体に利他的結果がもたらされるとは考えない。それは合成の誤謬として退けられる。利己的動機に基づいているにもかかわらず、社会に利他的効用が増すことがある。それを端的に示すのがアダム・スミスの「神の見えざる手」である。

 一方、近世人はそのようなアイロニーを容認しない。江戸時代は政教一致であるため、認知と行動に乖離はないとする。よい行為はよい動機に基づいていなければならない。善人が何らかの事情によって犯罪をしてしまう場合には、落語『鹿政談』が示す通り、確かに、情状酌量の余地はある。だが、悪人が結果として善行を施すなど認めない。

 近世を舞台にしながら、近代人の認知行動を巧みに描いていることが池波文学の魅力だろう。近代社会を生きる読者は、近世人の認知行動に触れても、感情移入することができるとは限らない。それどころか、理解できず、戸惑うことさえあり得る。

 一例として、万延元年遣米使節団のエピソードを紹介しよう。それは、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に派遣した使節団である。これは1854年の開国後最初の公式訪問団だ。その旅の間、武士たちは一様にアメリカ人が礼をわきまえていないと厳しい目を向けている。

 水兵が亡くなり、艦上で葬儀が執り行われることになった時のことである。艦長が参列したことに、使節団一行は皆驚く。当時の日本の常識では一水兵の葬儀に艦長が参列することなどあり得ない。そんなことをすれば、周囲から礼儀知らずと非難される。儒教はマクロからミクロまで上下関係で世界を秩序立てる。それに忠実な武士からすれば、上位が下位を同列に扱うことは礼を知らないと見える。

 現代人は、すでに近代を生きている当時のアメリカ人の方に武士たちよりも親近感を覚えるだろう。病死した社員の葬儀に社長が弔問に訪れたら、世間は共感することはあっても、礼儀知らずと非難することなどない。

 こうした近世の武士の認知行動を描いた時代小説にはなかなかお目にかかれない。もっとも、そういうシーンを目にしたら、説明されなければ、今の読者にはその理由がわからない。時代小説は同時代の読者に訴えようと、前近代人との類似性を強調する。しかし、それが行き過ぎて、作家は彼らを近代人と同じような認知行動をすると描くこともしばしばである。時代小説は前近代を舞台にしながら、近代人の願望を表象する文学である。オリエンタリズムと同様の思考構造をする懐古主義がそこに見える。

 時代小説を否定するために、こういった指摘をしているわけではない。文学史上の傑作も少なくない。また、エンターテインメント性の強いジャンルなので、読者事情も考慮されてしかるべきだ。ただ、近年、新しさを追求するため、映像を含めて作品の登場人物の認知行動が現代人により引き寄せている傾向がみられる。そうした作品は、当然、同時代からの受けがよい。しかし、過去を現在の延長と見なすのだから、それは現代人の自惚れである。前近代についても、近代についても、なんとなくわかったつもりになっているだけだ。前近代と近代の違いの方がより新鮮である。

 池波正太郎のヒット作は捕物帳に属する。しかし、近世にそのジャンルは存在しない。あったのは政談である。今日、捕物帳が広くサブカルチャーで人気を博している反面、政談は古典芸能に主に限定されて語り継がれている。この二つのジャンルは誕生・発展した時代の発想と結びついているために、こうした状況が生じている。この関係を考察することは、前近代の人々の認知行動がいかなるものだったのかを明らかにする。それが新たな時代小説の可能性にもつながる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?