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岩手県の地域医療と宮沢賢治の羅須地人協会(2)(2021)

2 岩手県の地域医療
 岩手県の地域医療史は2010年代に社会福祉研究において盛んに考察されている。中でも、高岡裕之関西大学教授がよく知られている。教授は、岩手県の地域医療史を研究した上で、『総力戦体制と「福祉国家」』、において、福祉国家をめぐる従来の定説に異議を申し立てる。

 戦後、西側諸国の標準的プラットフォームは「福祉国家」である。しかし、社会福祉の観点からみると、日本をそう呼ぶことなどできないと冷戦下の国内の研究者は認識している。そもそも「福祉国家」は修正資本主義で、天皇制という封建制が残る後進国の日本は社会主義に向かうべきだとする論者も少なくない。他方、冷戦終結後、それに対し、15年戦争下で社会保障制度が整備され始め、先進諸国と比べて不十分であったが、戦後も続けられてきたのだから、日本型の「福祉国家」が機能してきたとする説が登場する。

 高岡教授はこの二つの説のいずれにも異議を申し立てる。社会主義云々は規範的見方で、冷戦終結後においては時代離れしている。また、15年戦争期に、厚生省が誕生、国民保険・厚生年金制度が始まったことは確かである。1922年に健康保険法、38年に旧国民健康保険法、58年に新国民健康保険法がそれぞれ制定、61年に国民皆保険制度が完成する。だが、こうした流れは直線的に進んできたわけではない。戦時期の制度設計はあくまで総力戦体制への貢献が目的である。戦争遂行の道具で、戦後の国民生活の向上や公共の福祉といった前提と異なる。

 医療の社会保障は、むしろ、地域が先行して進み、後に国が制度に取り込んできたのが実情だ。その最も先進的な例が岩手県である。1930年代から地域医療の取り組みが本格化、戦後の国の社会保障制度形成にもゆかりの人物が影響を与えている。高岡教授はそれについて大門正克編『「生存」の東北史』の「第4章 近現代日本の地域医療と岩手の医療保健運動」において詳細に論じている。ただ、同論文は少々わかりにくいので、読む際に注意深さが要る。

 1930年代から50年代に亘る岩手県の地域医療運動は、高岡教授によると、3期に分けることができる。第1期は1930年代から40年代前半までである。この時期の医療健康運動は、産業組合法に基づく医療組合および、それを統合した医薬購買販売利用組合連合会が主体となって進められ、戦時下は農業会が引き継いでいる。第2期は国家総動員体制が解体した1940年代後半である。それ以前に整備された医療施設の継承が課題になる。最終的に、病院を中心とする医療施設は県直営化に落ち着く。第3期は1950年代である。病院の県直営化を踏まえ、岩手県国民健康保険団体連合会(国保連)主導の下、基礎自治体において医療保険運動が展開される。以下、高岡教授の『近現代日本の地域医療と岩手の医療保健運動』について解説していこう。

 第一次世界大戦後、医師の数は全国的に右上がりになったけれども、無医村のそれも増加している。岩手県では、210強ある村の内、ほぼ5割が無医村である。そこで、複数の村が共同で出資、広区域組合として医療利用組合を結成して広区域利用病院を創設する運動が起きる。

 この背景は二つに大別できる。一つは医療の社会化運動である。1911年に鈴木梅四郎が設立した社団法人実費診療所が発端で、軽い費用負担による診療を実施している。1920年代に入ると、全国各地に公立の実費病院や市民病院が創設、無産運動もそれに取り組むようになっている。

 もう一つは近代医学の進展と連動した医療の病院化である。20世紀を迎えた頃から、医療従事者の世代交代が進む。従来の民間療法の開業医に代わり、高等教育機関で近代医学を学んだ医師の数が増加、1920年代に両者が逆転する。それに伴い、複数の専門医が勤務する総合病院が求められるようになる。しかし、資金が足りない。そうした事情を克服するチャンスを与えたのが広区域組合である。その代表が1930年代の賀川豊彦による運動で、秋田県や青森県の組合が影響を受けている。

 医療の社会化と医療の病院化を背景にして1930年代、岩手県の医療利用組合運動が発展、各地で広区域病院が建設される。この医療利用組合は産業組合法を法的根拠にしている。

 資本主義の進展に連れ、寡占や独占の弊害が露呈してきたため、1900年、産業組合法が制定される。この法律の規定する産業組合は主に四つの事業、すなわち信用・利用・販売・購買である。これが協同組合の誕生を後押しする。後の農業協同組合や生活協同組合、信用組合、信用金庫などの活動が用意される。医療利用組合もこの産業組合の一つである。利用施設として病院や診療所の設立を行うものである。こうした組合運動は、1919年、島根県鹿足郡青原町(現津和野町)において無医村からの脱却を目指して始まっている。

 ただ、県内の病院建設をめぐる事情はそれぞれ異なっている。購買利用組合盛岡病院のように市街地産業組合を前身にしていたり、全国労農大衆党者を代表に無産運動関係者が実費診療所を設立したり、政治家を始め地域の有志の寄付によって創設したり、地域の産業組合が主体となったりするケースがある。

 医療利用組合病院設立に関して県外からの影響も少なくない。無産運動による実費診療所開設は秋田県から刺激を受けている。また、気仙郡では、地元の医師の反発を抑えるために、産業組合の青年連盟が賀川豊彦を招いて講演会を開き、病院開業にこぎつけている。実は、医師会は医療利用組合の拡大には反対の姿勢をとっており、以後もそれは変わらない。

 こうして進められた運動だったが、すぐに課題に直面する。賀川豊彦に傾倒する岩手県産業組合主任官佐藤公一は、医療利用組合の経営基盤の脆弱さを懸念、改善策を思案する。余剰金を積み増す施設がある一方で、赤字が膨らむところもある。彼は町村産業組合連合会を母体にして、県内の医療組合を統合するアイデアを立案する。収支を全体でプールし、経営の苦しい病院の赤字をそれで補填する。また、統合に伴い、組合員であれば、全県で利用可能にすれば、参加人数も増える。

 1936年9月、岩手県医薬購買利用組合連合会が設立、佐藤は理事長に就任する。統合時に2万6000人だった組合員は38年には10万人を超える。また、出資総額46万円は41年に91万円に増加する。加えて、連合会は従来の治療のみならず、予防も重視、保健婦の設置を奨励している。

 1938年4月、国民健康保険法が制定される。この国民健康保険制度は市町村が実施主体である。だが、岩手県は町村産業組合連合会を基盤として地域医療制度を整備していたため、県外の実践も参考にしつつ、独自の実施方法で進めていく。法律に先立ち、かつての相互扶助組織である薬師講を模範にした保険共済事業運動に乗り出している。

 しかし、医師会が国民健康保険と医療利用組合、すなわち産業組合が結びつくことに反対する。そのため、市町村レベルの国民健康保険組合が設立される。けれども、すでに両事業を実施している医療利用組合が実質的に代行として国保事業を担当する。また、町村産業組合、すなわち市町村レベルの産業組合も医療事業を行っている。こうした事情から岩手県医療事業を実施している代行組合が中心となって国制度を取り扱うことになる。だから、国保組合は医療利用組合と重なり合っているのが実情である。

 日米開戦を控えた1941年11月、医薬購買利用連合会が岩手県信用販売購買利用組合連合会に統合されて解散、医療事業はこの組織が引き継ぐ。しかし、43年12月、岩手県農業会が設立され、その医療事業を管轄することになる。医療利用組合がすでに全国最多の13の病院を設置、農業会の下でそれが15にまで増加する。ただし、医療は社会保障ではなく、国家総動員体制に貢献し、生産力増強のための労働力の保全・育成が目的である。

 それは厚生省の設立経緯からも理解できよう。1938年1月、厚生省が寺内寿一陸軍大臣の提唱により設置される。これは内務省の衛生局及び社会局が独立した機関で、国民の体力向上、結核等伝染病への罹患防止、傷痍軍人や戦死者の遺族などの他、労働行政も管轄する。明らかに、社会保障ではなく、戦争遂行のための組織である。なお、戦後の1947年11月に、労働行政部門が労働省として厚生省から独立している。

 1942年に国民保険制度が戦争遂行のための国策と位置づけられる。国保制度が始まったものの、国保組合では限界がある。そのため、国保組合に基づく医療保険の協同組織の必要性が関係者の間で言われるようになる。だが、戦時中に実現することはなく、これは戦後の課題となっていく。

 岩手県では、1940年代、国民健康保険の給付率100%を目指す取り組みを基礎自治体が始める。全国的に見ると、5割程度に過ぎなかったが、実際に達成する自治体も出現する。

 戦後、膨大な医療施設を抱える日本医療団と全国農業会の動向が医療制度の再構築を左右する。国民体力の向上などの政府の目標に対応するため、医療団は病院の買収・新設を進める。また、農業会は、1947年5月時点で病院167、診療所354を有している。

 日本国憲法が1946年11月3日に公布、47年5月3日に施行される。それを踏まえ、民主的国民医療保険体制構想が広く議論されるようになる。

 GHQは戦争協力をした組織の解体を進め、その中には医療団や農業会も含まれている。医師団は紛糾したが、他のアクターと協同組合案を提起する。ここでも岩手県人脈が活躍する。東北六県及び北海道の農業会が日本医療団支部・国保組合連合会(医療制度対策緊急協議会)が民主的刻医療保険体制対策要案を発表する。この原案は三団体の岩手県支部が起草したものである。岩手県農業会厚生部長高橋新太郎、並びに医療団職員代表として審議会委員となっていた佐藤公一がそれを推進している。

 現在まで続く農業協同組合の医療事業は、1919年(大正8年)、窮乏している農村地域の無医地区の解消と低廉な医療供給を目的に始まり、全国的に広がる。1948年からは農業協同組合法の下で厚生連が農業会の医療事業を継承している。岩手県における農村保健活動は岩手県厚生農業協同連合会が設立、50年、産業組合以来の医療事業が県に移管される。

 この協同組合は、勤労者農民の生産及び生活協同組織などを一元的に統合した機構の下、治療・予防・生活指導を総合的に実践する社会保障共同体である。主眼は保険セ策の医療組織の一体化、並びに国民の自主的健康管理体制の確立である。この案は憲法の生存権に基づく医療の民主化の達成を目的とする。これは、市町村及び職域の国民保険協同組合を基盤にして、その上に都道府県と全国があるという三層構造をしている。医療国民保険組合と社会保障の一体化を目指し、疾病・分娩・廃疾・養老・婚姻等に対する補償給付を実施する。また、保健婦・健康相談所・保育所・共同炊事・浴場・集会所・図書館・母子寮等の保健施設の増加を推進する。都道府県連合会では、勤労階級の生活上における欠乏間の満足を社会的に保証するものである。

 しかし、政府がGHQに打診したものの、医療の一般施設は国営・府県営として処理することになり、岩手県案は幻に終わる。また、GHQにより農業会が解散させられ、医療施設が宙に浮き、これも県営に落ち着く。農業会に代わり国保連が国保と医療の一体化を進めるが、頓挫してしまう。そこで、国保の充実に運動の主眼が移る。

 医療施設は県営、国保は市町村レベルとなり、一体化のヴィジョンは挫折する。そこで、国保連は市町村団体の充実に目標を変更していく。

 ただ、独自色を強める岩手県の取り組みが全国的に注目される。1950年代の岩手県国保運動の課題の一つは国保未実施市町村の解消である。1953年に全県国保普及が達成、これは国内初の快挙だ。県は直営診療施設を整備、活動が活発化できるようにする。治療と予防の効果を期すことや診療の度毎の窓口負担の軽減あるいは全廃も目指している。

 直営診療施設、すなわち直診は厚生省が戦後国保組合の立て直し策として設置、奨励をしたものである。1946年から診療所に補助金がつくようになると、これが直診所に充てられるケースが増えている。岩手県では、1950年代から国保直診数が増加する。戦後の混乱期には国保がマヒ状態で、直診が強く求められている。その目的は大きく二つある。一つは無医村、すなわち医師のいない基礎自治体の解消、もう一つは国民の健康向上である。

 岩手県の国保運動の目標は10割給付である。当時は全国的に国保の給付は5割程度だ。1949年、気仙沼が県内初の10割給付を達成する。ただし、国保事業が住民に理解されているとは言い難く、村が不足分を一般会計からの繰越金で補填している。対象は直診のみで、開業医が適用外だったため、医師会はこれを不平等と反発する。医療は生存に不可欠であり、不平等があってはならないという主張はもっともである。岩手県の国保運動はこうして進められている。

 この10割給付国保運動は社会保障制度の本旨を実現するものである。吉田茂内閣は、1950年、社会保障制度審議会の勧告を無視する。そのため、50年代に国家レベルの社会保障制度の確立を国保連が中心となって主張する。ところが、1954年、吉田内閣が社会保障予算を大幅に削減する。それに対し、岩手県を始め全国各地で反対運動が沸き起こる。国保連の岩手県大会では、国保給付5割国負担の要求が示される。

 こうした岩手県の社会保障確立運動は憲法25条の生存権を根拠にしたという特徴がある。戦前は、国家による社会保障制度、すなわち公助の不在という環境の下での共助による生存の運動である。一方、戦後の運動は、憲法25条との理念との関係において国家の責任による社会保障制度、すなわち公助の確立を求めている。

 ここまで見てきたことを要約しよう。1930~50年代の岩手県の地域医療は住民の努力によって進められている。近代化が進む日本社会であっても、岩手県は地理的条件や経済的苦境により医療機関の利用が困難である。そのため、1930年代、住民は自分たちの生存を守ろうと立ち上がる。これが戦後にも継承される。

 岩手県は衣料を中心としたコミュニティ形成を展開しようとしていたと言える。それは、中央政府による行政区分とは違った医療利用のための広区である。上からではなく、共助に基づく下からのコミュニティの試みだ。

 本章の冒頭で述べた通り、こうした運動は大きく3期に分けられる。第1基の30年代は産業組合に基づく協同主義が理念である。第2期の40年代前半は、医療保険運動でも国策が強調された中、岩手は国民健康保険の普及を図っている。第3期の戦後、協同主義の運動は国保連に引き継がれる。戦前と戦後の間には継続と断絶がある。憲法25条の理念に基づき、国保制度の確立=社会保障制度の確立=生存県の実現という図式によって運動が展開される。国民健康保険は県民全体にかかわる社会保障制度である。

 岩手県の国保連は国保制度の確立を社会保障制度のそれとして位置づける特徴がある。これには農村県であるという事情が反映されていよう。それは、日本の社会保障制度の成立を農村における医療の需要の高まりから捉えることの必要性を物語る。

 その後についても語っておかねばならない。岩手県の取り組みはモデルケースとして注目され、全国から視察団が訪れている。だが、50年代に運動は失速する。岩手県を含む50年代半ばに自治体の財政事情が悪化したため、10割負担が挫折したからである。

 さらに、50年代後半、自治体財政の改善化と市町村合併により、運動が衰退していく。1958年、岸信介内閣が(新)国民健康保険法を公布する。国保制度を国から市町村への団体委任事務とすることで国家の責任を明確化している。しかし、制度の画一化が図られたため、法的給付率は5割に定められ、公私の医療機関の利用も同一化とされる。運動も制度整備により否定され、直診も減少する。社会保障制度や地域医療の確立に果たした岩手県の運動はこうして忘れられていく。

 しかし、衣料を中心とした共助のコミュニティ形成の理想が完全に途絶えたわけではない。60年代に「生命行政」を掲げる沢内村では、老人乳幼児医療への10割給付実施、乳幼児の死亡率0を達成する。これは福祉の時代におけるモデルとして今日でも語られるが、30年代からの流れを踏まえた実践である。けれども、2005年、平成の大合併に伴い、沢内の10割給付は消滅する。岩手県の地域医療は慢性的な医師不足と財政難に見舞われ、2009年、県立病院網の再編計画が牽制の重要課題になっている。2000年代は新自由主義が隆盛、「医療県」である岩手県の伝統を見失ったかのような動向も起きている。ただ、東日本大震災後、岩手県は「生存」の観点からも軌道修正を試みる。新自由主義は不確実性を軽視しており、災害を始めとする非常時には無力である。そうした流れの中で発生したのが今回のパンデミックだ。

 これからも感染症が重要課題として続く可能性が高い。従って、医療を中心とした共助のコミュニティの取り組みの伝統は再評価・差異実践される必要がある。

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