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『灰とダイヤモンド』に見る検閲(2008)

『灰とダイヤモンド』に見る検閲
Saven Satow
Sep. 10, 2008

「検閲を用い、要求するのは権力者であり、言論の自由を求めるのは身分の低い人たちである」。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

 2008年6月15日に『映画監督アンジェイ・ワイダ─祖国ポーランドを撮り続けた男─』がNHK・BS2で放映されています。監督は、その中で、『灰とダイヤモンド』をどのようにして検閲から突破させたのかについて語っています。

 『灰とダイヤモンド』は1959年に公開され、映画史上に残る名作の一つです。この原作は、イェジ・アンジェイェフスキーが1946年に発表した小説です。ドイツ軍の降伏後の1945年5月、ロンドン亡命政府系のゲリラとソ連の後押しを受けるポーランド労働者党(後のポーランド統一労働者党)との内戦が始まる直前の4日間のある地方都市を舞台にしています。

 ソ連の衛星国として体制が成立して以降、ポーランド統一労働者等はこの小説を社会主義のプロパガンダとして利用します。ポーランド人ならよく知っている作品なのです。

 ワイダ監督は、こういう作品だからこそ、検閲を潜り抜け、体制批判を盛り込めると考えています。

 検閲は同じ社会主義体制でも国によって違います。スターリン体制のソ連は撮影に立ち会いましたが、ポーランドではそこまでしません。そこで、監督はシナリオに肝心なシーンのセリフを書かず、映像で表現する旨を記しておきます。文章があれば、検閲はできますが、なければ、許可するほかありません。

 これは映画ならではの機転です。テレビはお茶の間で見るため、音声を聞いているだけで内容がつかめるようにしなくてはなりません。一方、映画は、テレビと違い、ながら視聴はできませんから、セリフによらず、映像で表現するシーンが多くできます。映像で語らせることが映画では大切なのです。黒澤明監督は、「いつも映画を撮る前にもしこれがサイレントならと考えることにしている」と語っています。

 当局は、ポーランド労働者党県委員会書記のステファン・シチューカが主人公であると公認しています。しかし、監督は彼を暗殺するマチェックに主人公を変えるのです。

 実は、マチェックは原作ではあまり登場しないのですが、ハンサムで颯爽としたズビグニエフ・チブルスキーをキャスティングし、サングラスをかけさせ、ファッショナブルな衣装で決めさます。それによって、観客がマチェックに感情移入しやすくすると同時に、よき社会主義者を暗殺する堕落したブルジョア的な精神の持ち主と当局に思わせることができるのです。

 実際、試写を見ても、検閲官は主人公をシチューカだと疑いもしません。けれども、シチューカを演じたのはヴァクラフ・ザストルジンスキーです。さすがにそれがあまりに冴えないので、検閲官たちからどうにかならなかったのかと注文がつけられています。それに対し、監督は、この役にはジャン・ギャバンがふさわしく、そういう俳優を探したがポーランドでは見つからなかったと弁解しています。

 監督は、なんだかんだと文句を言われるだろうが、ラストシーンを見れば、絶対に無条件で検閲を通過すると確信しています。

 ラストシーンは鮮烈な印象を見るものに残します。保安隊に見つかった後、町外れのゴミ捨て場に放置されたマチェックはうめき、笑いながら死んでいくのです。

 見終わった検閲官は、拍手喝采をして絶賛します。偉大なる同志シチューカが志半ばで、愚劣なブルジョアの手先マチェックに暗殺されたものの、奴はクズらしくゴミ捨て場でくたばり、こうした反乱は無意味に終わって、ポーランド社会主義はその損失にもかかわらず、遺志を受け継いで邁進していくというわけです。まさに見事なプロパガンダ映画です。

 しかし、公開された映画を見た観客の反応は違います。

 観客は、感情移入したマチェックがゴミ捨て場に放置され、死んだ犬のように扱われている姿に涙し、当局の非人間的な仕打ちに憤りを覚えているのです。

 これが監督の狙いです。

 検閲は、通常、製作者と検閲官の間の駆け引きだと思われています。しかし、検閲がなぜ行われるのかと言えば、それが第三者に公表するにふさわしいかどうかを審査するためです。権力の見せたいものほど、民衆には別の思いを抱きがちです。監督は当局と観客の意識のズレに着目し、そこを利用しています。監督は観客と意識を共有し、その市井の人たちを信じているのです。

 この方法は非常に高度で巧みです。けれども、以後の作品ではなかなか検閲を突破できません。当局も映像自体に目をつけるようになっています。ワイダ監督の検閲との闘いは東西冷戦の終結まで続くこととなります。

 『灰とダイヤモンド』という傑作が生まれた理由は。ワイダ監督が観客を信じたという点に集約されるでしょう。映画監督に限らず、優れた表現者には受け手に対する信頼があります。もちろん、受け手を信用していない送り手もいますし、中には、信頼のないのが明白なのに、太宰治の『走れメロス』のように、名作扱いされているものもあります。しかし、そういう作品は「この後どうなるんだろう」という想像を邪魔します。

 検閲は、当局にとって、好ましい完結した解釈を与えるためになされます。受け手が自分なりに反芻することなどもってのほかなのです。その意味では、観客を信じていない映画監督は検閲官と同じです。

 自己検閲や自粛が何かと起こる日本社会です。表現は、何よりもまず、市井の受け手を信じることから始まる──『灰とダイヤモンド』はそれを教えてくれるのです。
〈了〉

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