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中村光夫、あるいはわが青春に悔なし(5)(2005)

7 「近代」の借り着
 中村光夫が批判するのは倒錯した意識であり、これは戦後も一貫しています。中村光夫は、1951年11月に発表した『はにかめる栗鼠』において、外務大臣重光葵が訪米した際の二つのエピソードをきっかけにして、日本人が鬼畜米英と罵っていたアメリカ人に対し、戦後になると、彼らにこびるようになっていると批判しています。

 訪米中の重光外相がハワイ=サンフランシスコ間の旅客機に登場していた時、彼が自分の寝台を子供連れのアメリカ人女性に譲り、それが日本で「美談」として報道されます。中村光夫は、「この『美談』をすなほに呑みこむことができませんでした。それは氏がこのやうな親切を発揮したのは、相手がアメリカ婦人だからではないか。もし日本婦人だつたらどうだらうかといふ疑問がすぐ頭にきたから」と次のように指摘します。

 外国を旅行したことのある者は、誰しも、外交官の伝統的な特権意識が――ことに「一般邦人」にたいして――どんなに強いか知つてゐる筈で、そのなかでも官僚的だと云はれる重光氏が大臣の公務で旅行してゐる場合、肩書もない一般国民の乗合ひには、たとへそれが子供をつれた母親だらうと、孫を抱いたお婆さんだらうと、自分のために予約された寝台をゆづる筈はないと思はれたからです。
 このやうな特権意識はある意味では正しいかも知れないのです。外務大臣重光氏はけつして自分一個のたのしみのために旅行してゐるのではありません。
 彼の双肩には日本国の運命がかかつてゐる、と云つては少し大げさすぎるかも知れませんが、ちよつとぼんやりしてゐると、重大な不利をまねくことは、何も今度にかぎつたことではありません。

 しかも、重光外相はアメリカのナショナル・プレス・クラブで自らを「はにかめる栗鼠」と譬えて、極めて卑屈な演説を行っていると中村光夫は次のように批判します。  

 これは大分評判になつたので、今でも記憶してゐる人が多いかと思ひますが、念のために当時の新聞から引用すると、氏はここで自分を「はにかみ屋の栗鼠」にたとへ、その日の朝ワシントンの公園で、放しがひの栗鼠に「手づから」餌をやる貴婦人を見たが、「婦人がこの小さな動物に対してあふれんばかりの好意を持ち」栗鼠がそれになついてゐる有様は、あたかも「平和的共存を保証する眼に見えない合意」を象徴するもののやうに見えたといふのです。(略)
 情けない卑屈さです。かりに主客がところをかへて、アメリカ側のたとえばダレス氏が、こんな比喩を持ちだして、我々が貴婦人でお前たちは放し飼ひの栗鼠だと云つたら、おそらく重光氏自身も腹をたてたらうと思ひます。
 かういふ相手に云はれたら、怒らなければならないやうなところまで、自分自身を卑下する必要が、一体どこにあるのか、といふことになると、そんな必要はどこにもなかつたことは明かです。
 問題は、重光氏がかういふ何の必要もない自己卑下を、かういふ儀礼的な席でなぜアメリカ人たちのまへでやつて見せたかといふことですが、それはおそらく、氏が同じく必要もないのに、アメリカの婦人に飛行機の寝台をゆづつたのと同じ動機であつたらうと思ひます。

 これを重光外相の個人的資質に還元すべきではありません。「今日の日本文化の或る性格を象徴するものであり、したがつて僕等自身の問題として反省するべきものを含んでゐると思はれます」。「たえず外国のもっとも新しいものをできるだけ素早くとり入れるために、見逃すまいとしている精神が、いつのまにかその内面を空虚にし、生活との間に不思議な断層をつくってしまった」。

 そこで、中村光夫は「文化的地盤の準備」が異文化との「平和的共存」につながると次のように述べています。

 彼等は植民地の白人から無知な原住民の召使が狡知と我欲によつて獲得する人間としての最低の尊敬、すなはち不信と警戒の念さへ得られぬほど、相手に従属してしまふので、このやうに高尚な、いはば無償の卑屈さが、長年にわたる文化的地盤の準備なくしてあり得ないことは明かです。
 事実、彼等のなかには、学問その他の才能ではかなりすぐれた人も居り、日本人同士のつきあひではそれほどそれほど下劣でも卑屈でもない人が多いのです。ただ彼等は外国人と接触すると相手をあまり「理解」できすぎ、それによつて自分も文化的に向上したやうな気持になるために、人間対人間の関係をこえた、(あるいはそこまでゆかぬ)無私の従属をもとにした「平和的共存」を謳歌することになるのです。

 中村光夫は欧米の制度と言うよりも、それを生み出した文化に目を向けます。外国人と接するには、まず相手の文化を理解する必要があります。自分自身が馴染んできた文化を自明にしていては、「自分も文化的に向上」しません。近代の超克は、近代を文化から「理解」することなしに、討議され、「知的協力委員会」と違い、「平和的共存」の議論に至らないのです。重光外相をめぐる日本の言説には、戦争の経験がまったく生かされていません。

 森毅は、『むしろ洋魂和才』において、近代日本が諸制度を西洋から輸入しながらも、その背景にある文化を顧みなかったと次のように述べています。

 明治以来、西洋の制度をいろいろとりいれたけれど、最大の失敗は「和魂洋才」にあったと思う。制度を変えながらも、文化をとりいれなかった、ちぐはぐさにある。戦後教育だって、制度は変わっても、文化はむしろ過去への一元化を志向している。
 制度を変えるからには、それに伴う文化の変化をイメージしなければなるまい。さまざまな価値を持った人たちが、それぞれに生きていくにはどうしたらよいか、それは洋魂に学ぶほうがよい。制度よりむしろ、そのことを考えてほしい。
 多様化と自由化を肯定したうえで、どのような制度がありうるかと考えさえするなら、制度はどうあってもたいしたことじゃない。

 文化の裏打ちがなければ、制度は儀式化してしまいます。和魂洋才といった傲慢かつ怠惰な姿勢がその事態を招いているのです。国民国家=資本主義体制を導入する際、すべての面で封建的発想を廃棄しなければならないのに、道徳イデオロギーになると、それに依存してしまいます。

 中村光夫は、1951年に、広津和郎とアルベール・カミュの『異邦人』をめぐって論争しています。広津和郎は「作者の心理実験室での遊戯にすぎない」のであって、ムルソーを精神衰弱の末期症状だと書いたのに対し、中村光夫は『広津氏の「異邦人」論について』において「小説の真実性は生活や事実以外にないとする偏見」にすぎず、既成道徳でこの小説を裁くのは不適当であると批判しています。「歳は取りたくないものです」。生きた文化的な観点から小説を考えるという発想が、広津和郎には根本的に欠落しているのです。「さまざまな価値を持った人たちが、それぞれに生きていくにはどうしたらよいか、それは洋魂に学ぶほうがよい」。

 中村光夫は、『「近代」の借り着』において、近代と文化について次のように述べています。

 近代が自己を特色づける文化の生産力を持つのは、その内発性によるものであり、我国にはそれが欠けてゐたことは、前述しましたが、明治大正時代には、その内発性の欠如は、近代化が社会の一部分にしか行はれてゐないこととひとつの均衡を保つてゐました。
 近代のある部門は、外国のものであるが、とり入れなくてはならない、他の部門は、外国のものであるから、とり入れない方がよいと判断する主体が(たとへその判断が間違つてゐても)まだのこつてゐたわけです。
 それが戦後のやうに、外力による近代化が社会のあらゆる面にわたつて行はれると、近代の外発性は、日本文化そのものの性格になり、いはばひとつの完成に達します。
 今日の日本文化の特色はここにあり、僕等はここで世界のどの国も経験しなかつた事態に生きてゐると云へます。
 近代社会に充実と生きる論理をあたへるのがその内発性である以上、僕等の周囲で、近代の価値がすべて裏目にでてゐても不思議ではありません。
 ここで、人々は独立してゐるのではなく、社会から隔絶した孤独を強ひられてゐるだけです。青年たちは自分の人生を選ぶ自由を与へられてゐるのでなく、ただ欲望を刺戟され、それをみたす順序も手続も知らされずに野放しにされてゐます。近代の、安定と均衡を失つた、変化と過度の時代といふ性格は、ここでは他の何処よりはつきりでるので、世相や風俗の変転は、それが根のない輸入品であるだけに速やかなのです。贅沢と貧乏、繁忙と怠惰などの対照も、社会が自己を異質の観念に支配されてゐる度合ひに比例して大きいのです。
 生きる手段はすべて過剰であり、何故生きるのかが曖昧になつてきます。今日、自殺を企てる者と正面からむかひあつて、彼に何故生きなければならないかを説得することは、おそらく誰にもできないのです。
 しかし、このことは、事態がここまで来て、僕等ははじめて、近代を自分のものとした、少なくもそれを自分のものとする可能性が生れたのを意味します。この空虚で繁忙な生活を真正面から見つめることで、僕等ははじめて人真似でない、自分の問題と向ひあひます。
 これは、僕等にとつていはば自業自得のものであり、前例のない難問である点で、僕等にいやでも近代人として思索を強ひる筈です。
 眼前のレッテルや通念にだまされず、いつでも現状を合理化しようと構へてゐる政治家のかけ声をはなれて、僕等の心の歴史を言葉にすることがもしできたら、これまでの近代謳歌の文学とはまつたく別物の、同時代にたいする批判の形をとつた近代思想が生れるでせう。

 近代は、「内発性」があるとき、「自己を特色づける文化の生産力を持つ」のですが、戦前の日本はそれが欠如していても、近代化が部分的にとどまっていたため、「ひとつの均衡」が保たれています。当時の近代化は閉じられた系での均衡をゆるがすほどではないのです。

 一方、戦後は「外力による近代化が社会のあらゆる面にわたつて行はれ」、社会は非均衡へと移行します。「近代社会に充実と生きる論理をあたへるのがその内発性」であるから、この状況は好ましくないと思われかねません。しかし、中村光夫によれば、この非均衡において、「僕等ははじめて、近代を自分のものとした、少なくもそれを自分のものとする可能性が生れたのを意味します。この空虚で繁忙な生活を真正面から見つめることで、僕等ははじめて人真似でない、自分の問題と向ひあひます」。近代は社会という系を開かせ、非均衡をもたらします。近代の文化はこうした非均衡から生まれてきます。けれども、近代の持つ非均衡への傾向という意義は日本であまりに理解されてきません。1/fゆらぎを探しもせず、非均衡をいかがわしく思い、均衡を維持しようとするとき、近代に対する倒錯した意識が生まれてしまうのです。

 日本における近代の変容には大きく二種類が挙げられます。一つには定着する際に、日本の現状への適応です。もう一つは閉じられた系の均衡を崩さないために、政治的意図に基づく改変、すなわち「洋魂」の排除です。明治政府は近代のイデオロギーを学校を通じて全国に普及・浸透させていきます。学校は近代を布教する教会であり、教師は宣教師なのです。青春も近代学校教育制度の産物であり、それもこの倒錯した意識がもたらした制度によって歪曲されています。


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