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内向の世代、あるいはMy Generation(1995)

内向の世代、あるいはMy Generation
Saven Satow
Dec. 10, 1995

“The greatest discovery of my generation is that a human being can alter his life by altering his attitudes”.
William James

1 Talkin’ ‘bout My Generation
 1965年11月、ロンドンの観客はモッズ風の衣装をまとったロック・バンドの姿に度肝を抜かれる。おどけた表情のドラマーは、それまで見たこともないほど積まれた巨大なドラム・キットを驚異的なスピードで叩きまくる。大きな鼻をしたギタリストは、時々、ピョンピョン跳びはねながら、右腕をグルグル回し、弦に叩きつけ、パワーコードを弾き続ける。いかつい顔つきのベースは英国ロック史上最高の腕前であり、バックグラウンドとしての楽器を超え、リード・ギターの任を黙々と務めている。逞しい体躯のボーカリストは、マイクを投げ縄よろしくクルクルと頭上で回し、どもりながら次のように叫んでいる。曲のタイトルを”My Generation”と言う。

People try to put us down
Talkin’ ‘bout my generation
Just because we get around
Talkin’ ‘bout my generation

The things they do look awful cold
Talkin’ ‘bout my generation
I hope die before I get old
Talkin’ ‘bout my generation
My generation, this is my generation,baby

Why don’t you all f-f-fade away
Talkin’ ‘bout my generation
Don’t try and dig what we all say
Talkin’ ‘bout my generation

I’m not trying to cause a big sensation
Talkin’ ‘bout my generation
Just talkin’‘bout my G-g-generation
Talkin’ ‘bout my generation
My generation, my generation, baby.

 それはロックが初めて自分たちの「世代」について語った瞬間である。ザ・フーは通常のバンドでのリード・ギターの役割をベース、ボーカルをドラムス、ベースをボーカル、ドラムスをリード・ギターがそれぞれ果たしている。ロックンロールは、それまで、若者のラブ・ソングにすぎなかったが、ポップ・アートに影響を受けたピート・タウンゼントは社会への対峙を見出し、明確に「世代」を意識して、先行世代に対してたんなる「反抗」ではなく、否定を突きつける。

 ザ・フーは1945年前後生まれのメンバーによって構成され、ほんのわずかであるが、ビートルズやビーチ・ボーイズ、ローリング・ストーンズよりも若く、怒れる若者の時代にレコード・デビューすることになる。世代は個別的でありながらも、同時代的に先行世代を共通の敵として否定するときに自己規定される。そのため、主語は一人称単数形であって、一人称複数形ではない。”My Generation”はポップ音楽を象徴する曲としてそのアーティスト自身の世代の思いをこめてカバーされていく。

 そんなザ・フーが、69年のウッドストック・フェスティバルのステージにおいて、主役の一組となったことは当然であろう。ギターを叩き壊し、ドラムスを蹴散らす彼らのステージ・アクトは、確かに、「ラブ&ピース」を訴えつつ、’”Fuck”と中指を立てる六八年世代の一つの象徴でもある。

 モッズ風の衣装をまとい、周囲に山積みされたアンプやドラムを次々に壊しながら、彼らはそれまでに聞いたこともないロック・サウンドを生み出した。そしてそのサウンドによって、のちに、ビートルズ、ローリング・ストーンズに次ぐ、ブリティッシュ・ロック3羽がらすの第3のグループとしての地位がザ・フーに与えられることになる。
 そのくったくのないモッズ風のイメージとステージでの破壊的な行為で彼らは一躍ロック・シーンで注目を浴びた。しかし、ザ・フーの名声の真の基盤となったのは、リーダーでギタリストのピーと・タウンゼントの魂を呼び覚ますような曲であり、また、彼が、ヴォーカルのロジャー・ダルトリー、ベースのジョン・エントウィッスル、ドラムのキース・ムーンとともに生み出す音楽の壮大なアーチだった。

 1965年の「マイ・ジェネレーション」でダルトリーがどもるように歌ったときには、十代の不安と華やかさが、普遍的な反抗の叫びの中から浮かび上がってきた。”年寄りにならないうちに死んでしまいたい”とダルトリーは歌った。この1行で、作者のタウンゼントは、60年代に限らず、いつの時代でもどこの地域でも若者たちが胸に抱く思いを表現したのである。
 しかし、ザ・フーは、ロック演奏の進化に貢献した重大かつ革新的なグループのひとつであった。腕をぐるぐるまわし、ギターの弦に手を叩きつけるタウンゼントの”パワー”コードは、その後のロック世代の数限りないギタリストたちが模倣していった。(略)
 ムーンとエントウィッスルは、タウンゼントによる音の劇的表現に対して、それぞれの演奏を革新することで対抗し、補完していた。巨大なドラム・キット──それまでに見たこともない代物だった──に囲まれて、ムーンは、雷のようなロールと装飾フレーズで、激しいロックのリズムに、クラシック音楽の打楽器奏者のようなドラマティックなアクセントを加えた。ロック界有数のべーシストであるエントウィッスルは、ベースをバックグラウンドの楽器から解放し、ときにはリードギターの役割を果たすメロディを演奏した。特に、「マイ・ジェネレーション」でソロをとったのは、実際はエントウィッスルのベースであって、タウンゼントのギターではなかった。
(ハリー・サムラル『ロックのパイオニア』)

 60年代、音楽シーンとは裏腹に、日本の文学界では、この頃から新たな文学世代の登が見られなくなっていく。毎年、新人は数多く誕生しているけれども、世代を形成しない。決して強くない個性の彼らは、集団で、漠然とした雰囲気に浸っている。戦後しばらく、「戦後派」や「第三の新人」など文学世代が重要な役割を果たしてきたが、依然として、文学的流行は盛んなのに、「内向の世代」以来、文学は世代を生み出せなくなっている。

 「内向の世代」以降にも、浅田彰や中沢新一、上野千鶴子に代表されるニュー・アカデミズム、田中康夫や高橋源一郎、島田雅彦らが属するポストモダン文学などが登場している。彼らはそれまでの価値観を批判して、時代の雰囲気を表象し、流行をリードしていたけれども、厳密な意味では、文学世代と見なすことはできない。

 もっとも、学生運動の衰退と共に、「世代」という語自体が日本では使われなくなってきている。世界的には、「世代」自身が消えたわけではない。1990年代半ば、アメリカで、(「me-ism」の時代に生まれたり、成長期を迎えたりした「Generation-X」の次という意味で)「Generation-Y」と呼ばれる若者たちが登場する。決して、意識していないにもかかわらず、同時代的類似性が生じている。それは同時代的な共通体験ではなく、冷戦構造崩壊後の携帯電話や電子メール、インターネットに代表される電子メディアの共通化によるところが大きい。

 社会に均質化が進むと、人々の間は断片化に傾き、連帯への動きは滞る。「世代」は同世代的な連帯が可能である社会において用いられる語である。それなくして、メディアや識者がいくら命名しようとも、普及することはない。

2 内向の世代?
 小田切秀雄は、1971年3月23日付の『東京新聞夕刊』の文芸欄において、同時代の文学傾向について、「自我と個人的な状況のなかにだけ自己の作品の真実の手ごたえを求めようとしており、脱イデオロギーの内向的な文学世代として一つの現代的な時流を形成している」と書き、彼らを「内向の世代」と命名する。この「内向の世代」のカテゴリーには、論者によって多少の違いはあるものの、古井由吉、小川国夫、阿部昭、黒井千次、高井有一、後藤明生、坂上弘、辻邦生、田久保英夫、柏原兵三、加賀乙彦、三木卓、宮原昭夫、岡松和夫、古山高麗雄、野呂邦暢、日野啓三、大庭みな子、富岡多恵子、上田三四二、饗庭孝男、秋山駿、川村二郎、森川達也、柄谷行人などが含まれる。

 ほとんどが昭和10年代に生まれ、幼い頃に戦争を体験し、60年安保の頃に学生生活を送り、社会人になった後に、70年前後に作家生活に入っている。彼らは、共通して、方法論的志向が強い書き手である。阿部昭のように、理論的方法を意識していない書き手もいたが、彼の場合、理論を反動的に斥けること自体が方法論的とも言える。

 「『内向の世代』に、政治的なラディカリズムとは違った一種のラディカリズムを見ていたが、結局それは物足りなかった」と振り返っている柄谷行人は、『漠たる哀愁』において、「内向の世代」について次のように説明している。

「内向の世代」は、小田切秀雄が命名したものだが、それ以後彼がどう命名しようとそんなふうに「──世代」として定着したことがなかったところからみれば、これはたぶん最後の「文学世代」だったのだろう。日本の近代文学史は、新人が出て来るとき、前世代を否定すべき新しい主張を共同的に掲げて登場することを示している。あとでバラバラになるとしても。この現象が終ったということは、いわば「近代文学」が終ったということである。
 もっとも「内向の世代」に新しいスローガンなどなかったし、積極的に結集したのでもない。ただ、それはある否定性においてのみ、共通していた。その点では、「戦後文学派」に対して「第三の新人」と呼ばれた人たちの登場の仕方と似ている。「内向の世代」の前にいたのは、大江健三郎だといっても過言ではない。大江健三郎が戦後文学派の課題を吸収してしまっていたとしたら、同世代の作家が位相的に安岡章太郎や遠藤周作といった「第三の新人」に似てくるのは当然であろう。彼らはほぼ大江と同世代であった。そして、同世代に大江がいたために、その文学的出発を遅らされ、一旦作家になることを諦めた人たちであった。彼らはそれぞれ非文学的な勤め人の生活を経験していた。
 彼らは、主観性やアクチュアリティを拒否するところから始めた。その意味で、政治的現実から背を向けて「内向」する作家たちとして否定的に位置づけられたのである。私はそういう評価に反対だった。古井由吉や後藤明生は、「第三の新人」とはちがって、内向しうるような自己や内面をまったく信じていなかった。自己そのものが「関係」でしかないという視点を、これほど明確に方法的にもっていた作家たちはかつていなかった。中上健次もまたここから出発したのである。これに比べれば、「全共闘」の物書きの方がはるかに内面的だったし、今なおそうである。

 「内向の世代」の姿勢は内面の芳純さを欠いているがゆえに内向し、空虚を言葉の綾で埋めていくマニエリズムというわけだ。彼らは近代文学や小説を可能たらしめるものを意識している。そうした考えを持った彼らに「内向の世代」という呼称を用いることには問題があると多くの批評家から指摘されているし、そのカテゴリーに括られることを拒絶している作家も少なくない。

 いずれにせよ、内向の世代の作品の文体はそれぞれに個性的であることは、次の例からも、確かである。

 三月の或る夕暮れに、私は公園の枯芝の上で十人ほどの若い娘たちが奇妙な円陣を組んで息をこらしているのを見た。
 物の影が淫らな生きもののように伸び出す春先の日だった。ちょうど一時間ほど前に地下鉄にちょっとした事故があって、まだどの駅でも乗車制限がおこなわれており、私もいましがたまで地下道の牛歩についていたが、列からまだ離れられるか離れられないかの境い目でこれ以上の混乱がふと嫌になり、最寄りの国電の駅に向かって一人で歩き出したところだった。
(古井由吉『円陣を組む女たち』)

 ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことである。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得、わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた。夕方だった。たぶん六時ちょっと前だろう。
(後藤明生『挟み撃ち』)

 木のドアから漏れていた月の光は、朝の光に変って行った。浩はそれをずっと見ていたが、それでもドアを開けてバルコンに出た時、明るさは意外だった。空は真白い壁の綾で切り取られていて、すぐ蕎麦の天井のようにも、遥かにも感じられた。壁はこの人が空を見る時の額縁だった。
(小川国夫『アポロンの島』)

 いくら彼がこのいとこが好きでも、二人がいつまでもこんなふうに小間物を並べて遊んでいるわけにはいかないことぐらいは、わかっていた。これは大したことではなかったろうか? 子供が、自分たちの感情生活が大人たちに一瞥もされない幼年時代の早い時期に、もうこの人生の漠たる哀愁だけは知ってしまうというのは。もしそうだとしたら、あとわれわれが学ぶべきどんな重大な事柄が残されているというのか?
(阿部昭『千年』)

 これらはほんの一例である。近代的自我が内属していた線的な時空間の認識はここには見られない。彼ら以前の作品では、文章の順序と時間の順序が一致し、空間は近代的な遠近法に従っている。ところが、彼らはそれに従っていない。最もオーソドックスな阿部昭の場合でも、子どもは大人へと線的に成長していくという近代的な発達の常識、すなわち教養小説の前提に異議を唱えている。彼らの作品の中では近代的な時空間の知覚が解体・再構成され、「知覚の冒険」とも言うべきユニークな文体に覆われている。

3 大江健三郎と内向の世代
 内向の世代の作家は大江健三郎とほぼ同年代である。学生作家として華々しくデビューした彼は、戦後文学派の継承者と戦後民主主義者を自任し、その課題を作品に吸収した上で、日本近代文学の集大成を試みる。この巨大な作家の存在は、書きうるものが残されていないと同年代の文学青年たちを抑圧する。内向の世代の作家はまさにそういう若者たちである。

 日本近代文学の集大成を成し遂げようとした大江だったが、大きな社会的・歴史的変化によってそのプランの有効性自体が疑われる状況に直面する。日本近代文学が前提としていた「風景」が変容したからである。

 1960年に始まった池田勇人内閣が掲げる所得倍増計画実施のため、急速な工業化が進展して、日本社会は高度経済成長に突入し、64年10月10日、アジアで初の五輪が東京で開幕する。農業を中心とする第一次産業から第二次産業・第三次産業へ、すなわち農村から大都市への大量の職業移動が起こる地域移動が発生している。

 その後を継いだ佐藤栄作内閣は全国総合開発計画を打ち出し、地域間の均衡ある開発を促進するため、全国のインフラ整備を推し進める。それに伴い、日本列島の風景が一変していく。高度経済成長により農村を中心とした伝統的な生産手段・生産様式が衰退し、都市と農村の対立は終わり、日本中で都市化=均質化が始まる。

 近世の初めの17世紀、徳川幕藩体制が確立し、戦乱の時代が終わり、日本全国各地で、さまざまな規模で開発が推進される。それは大開発の時代とも呼べるもので、あまりの乱開発ぶりのために、幕府が規制令を出すほどである。この開発によって生まれた景観は、近代に入っても残る。それが変貌したのがこの高度経済成長である。

 1965年、「社会階層と社会移動全国調査(SSM調査: The national survey of Social Stratification and social Mobility) 」の第二画調査が行われる。多くの人々は自分が「中流」に属しているという意識を持ち、中流社会が成立していると報告している。それは四代目桂米丸が落語でとりあげるような家庭である。

 さらに、1972年、日本列島改造計画を訴える田中角栄内閣が発足する。この間、日本の自立を唱えた新左翼運動が退潮し、公害問題といった高度経済成長による歪みが露呈している。加えて、ベトナム戦争は泥沼化し、米中が接近、ドル・ショックやオイル・ショックなどにより、戦後の世界体制の構造が揺らぎ始める。

 風景に結びついている日本近代文学は、そのため、変わらざるをえない。大江が『万延元年のフットボール』で描いた「根拠地」はもはやない。と同時に、柄谷行人が『日本近代文学の起源』の中で明らかにしているように、内面も風景と密接に結びついている以上、新たな文体が必要となる。

 内向の世代は、こうした社会的・歴史的背景の下、登場する。日本近代文学において、「近代的自我の確立」は主要なテーマであるが、内向の世代はその不可能性を明らかにする。内面は確かな実体を持ったアイデンティティではなく、関係性そのものにほかならない。はっきりとした超えるべき悩みを抱え、それと格闘する若者に代わり、彼らの作品では、病んだ心の持ち主が主人公となるのは当然であろう。

 大江にとって、「われらの時代」のように、主語は一人称複数形であるが、彼らにはそれを使うことはありえない。「内向の世代」には”My Generation”がふさわしい。

4 世代の消滅
 世代によって文学を把握するのが近代的発想であるとすれば、文学世代が消失したのは、その意味で、必然的であろう。この内向の世代と大江健三郎を批判的に継承したのが中上健次である。『岬』(1975)により戦後生まれとして初の芥川賞を受賞しているように、彼は新しい時代の中で生まれ育ってきた作家である。

 島崎藤村の『破戒』をプロトタイプとする日本近代文学の主流である自然主義文学から派生した私小説と物語の枠組みだけを残し、自分の修辞法で描くと、風景が一変し、多様な意味が創出される。中上は被差別部落出身であり、消えゆく「路地」を通じてそれを真正面から描くとき、大江の日本近代文学の集大成という試み自体が転倒される。こうした中上の文体は審美的ではなく、土木工事の荒々しさと緻密さが見受けられる。内向の世代が日本近代文学の終焉を予告し、中上健次はそれを展開する。

 中上健次が『枯木灘』を刊行した1977年、村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎は、『保守政治のビジョン』という報告書を政府・自民党に発表する。彼らは、三木武夫内閣時代に政策提言を始めた政策構想フォーラムのメンバーである。高度経済成長は大量の「新しい中間階層」を登場させたが、これはどのようにしてそれを保守政治の支持基盤とできるかをテーマとしている。

 この報告書の議論は一九七五年版のSSM調査を根拠としている。先にも触れたが、これは社会階層や不平等、社会移動、職業、教育、社会意識などに関する社会調査であり、社会学者の手により、1955年以来、10年に一度実施されている。1975年の調査結果は、調査対象は男性のみであるが、階層構造と社会移動の変化や地位達成過程、地位の非一貫性、職業威信などに特長が見られることを明らかにしている。

 この時期は高度経済成長が終わり、一桁成長の安定成長期であるけれども、まだ高度成長期後半の特徴が依然として残っている。「中流」意識を持つ人々の比率は全体の約七五%にも及んでいる。この調査からコンピューターが採用され、詳細な分析が可能になっている。それによって、日本社会でも文化資本の蓄積が進みつつある、すなわち親の財産・地位が本人の学歴が地位達成に強い規定力を持っているとの結果が提示される。また、地位の一貫性──職業的地位の高い人は学歴・所得・権力など他の地位も高いという状態──の暗黙の了解が崩れ、地位の非一貫性という特徴が顕在化しているとしている。それは社会的アイデンティティが曖昧になってしまったとも言い換えられる。

 これを受けて、『保守政治のビジョン』は、小さな所得格差、ほぼ等しい教育水準、マスメディアの全国普及による共通の生活様式は「新しい中間階層」を生み出したと提起する。彼らは既得権益を守ろうとする保守的姿勢と政治的決定をテクノクラートに「委任」するが、その反面、社会的問題を無視し得ない「心のうずき」を抱え、社会に積極的に「関与」したいという二面性を持っている。

 「新しい中間階層」の「委任」と「関与」の拮抗を保守政治は利用して、彼らをとりこむべきだと同報告書は提案している。これは、80年代の中曽根康弘政権に生かされ、高い支持率に支えられて、サッチャリズムやレーガノミックス同様の新保守主義政策が実施されていく。

 80年代までの社会批判は反体制の意味合いがあったが、豊かさが達成されて以後は、日本人の生活している現代社会そのものに対するものへと変質している。戦後日本を考えるとき、70年代と80年代の間には断絶がある。日本は、戦後の米ソ冷戦構造に依存し、80年代には経済大国へとのしあがっていく。

 自動車・家電産業を中心にして巨額の貿易黒字を築きあげ、世界第二位の経済大国に成長し、東京は、世界で、最もファッショナブルかつハイテク化された都市を自認するようになる。日本人が国際的緊張関係を感じ始めたのは、80年代後半以後であり、それまでは外部への意識を閉ざし、内向的である。外からあらゆる情報が伝わっているにもかかわらず、日本は外部を向かない。

 鄧小平の中国は社会主義市場経済に政策を転換し、「東側陣営」などという概念を過去の遺物とする勢いを見せている。戦後の国際秩序の改変はもうそこまで来ている。「委任」と「関与」の間で揺れ動く新しい中間階層は外部に関心がないわけではないが、「心のうずき」はあっても、そこに現実感を覚えない。過剰なまでの情報によって外部を認識していながら、そこに接触することができない。知ることはしても、考えることには不熱心である。

 全共闘運動の敗北を見た新しい中間階層は現実を改革する気もないし、現実を悲観的に無視することもない。ただ彼らは傷つくことを極端に恐れる。新しい中間階層は新しい都市の住人であり、現状を否定せず、受け入れる。この豊かさを謳歌する社会的・時代的状況にふさわしい文学の登場を新しい中間階層は待ち望んでいる。それに応えるべく、日本文学は、80年代を迎えて、急速に変質する。

 村上春樹はこの新しい中間階層が求めたと言えるだろう。その愛読者同様の委任=関与の姿勢が彼には見られる。ノモンハン事件や地下鉄サリン事件などを扱いながらも、村上春樹は委任=関与の段階にとどまっている。村上春樹は新しい中間階層の文学、委任と関与の文学、「心のうずき」の文学であり、それは今も変わらず、読者も同じメンタリティを共有している。

 “My Generation”から”Generation”が消えたなら、”My”だけが残る。村上春樹は、自意識の優位を確認する小説を発表し続けている。委任=関与の弁証法は、結局、自意識の優越に帰着する。あれからさらに変化を経験したにもかかわらず、現代日本は自意識の社会から依然として抜け出せずにいる。
〈了〉
参照文献
阿部昭、『千年・あの夏』、講談社文芸文庫、1993年
天川晃他、『日本政治外交史』、放送大学教育振興会、2007年
小川国夫、『アポロンの島』、講談社文芸文庫、1998年
柄谷行人、『意味という病』、講談社文芸文庫、1989年
同、『畏怖する人間』、講談社文芸文庫、1990年
同、『終焉をめぐって』、講談社学術文庫、1995年
同、『日本近代文学の起源』、講談社文芸文庫、2009年
後藤明生、『挟み撃ち』、講談社文芸文庫、1998年
古井由吉、『円陣を組む女たち』、中公文庫、1974年
ハリー・サムラル、『ロックのパイオニア』2、深津和道訳、東亜音楽社、1996年


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