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巨人の死–追悼大江健三郎(2023)

巨人の死–追悼大江健三郎
Saven Satow
Mar. 14, 2023

「文学は、人間を根本から、励ますものでなければならないと思います」。
大江健三郎

 捕虜として閉じ込めた黒人米兵を「獲物」と見ていた少年は、交流するにつれ、そう思えなくなる。次第に二人の関係は人間同士の触れ合いに変わっていく。

 終戦直後、アメリカの兵士と日本の子どもの関係は「ギブ・ミー・チョコレート」として語られるが、戦時中を舞台にした『飼育』ではそれが転倒している。1958年、この小説により大江健三郎は、当時最年少の23歳で、芥川賞を受賞する。彼は、その後、文学を始め広範囲な領域で積極的に活動し、影響を与えていくことになる。その姿はまさに文学の巨人である。

「僕が話すことの原理は、おとなと子どもはつながっている、続いているということです。子どものときの自分につながっていることで、過去につながっているし、これからの子どもにつながっていることで、未来に、つまり人類の全体の歴史につながっているということです」(大江健三郎)。

 大江健三郎は戦後日本文学最大の小説家である。彼は戦後文学におけるすべての諸課題を作品に取り込んでいる。学生デビューの大江に憧れて作家を志した若者は数知れずだが、その多くは夢破れている。中には、力に圧倒されて一旦諦めたものの、彼が持ちえない社会人経験を糧に作家活動に入った内向の世代もいる。彼以後の作家は大江が整理した文学世界を基盤にしている。

 そうした諸課題を扱うために、大江はさまざまな小説の方法を実践する。一人称や三人称のみならず、物語や私小説、短編から長編まで取り組み、いずれでも傑作を著している。文体も多彩である。しかし、それは扱う課題に応じて挑戦的に用いているのであって、芸風ではない。

 その意図のために、大江の文体には不自然さがしばしば伴う。例を挙げよう。大江は代表作の『万延元年のフットボール』で固有名詞を避け、普通名詞に置き換えている。固有名詞は文脈を共有していなければ相互理解が成立しにくい。他方、普通名詞は文脈に依存せず自らの情報を言い表す。ただし、そのイメージが個々人の知識に左右される。この文体は普遍性を指向しつつ、個別的に想像力を喚起する。固有名詞のない世界を描こうとすれば、不自然な文体になるのは当然で、それに気がつかないまま彼を非難することは洞察力に欠ける。

 大江は実存主義や構造主義など思想の流行に敏感である。けれども、その影響から生まれたであろう小説はそこに収まりきれない。書簡体形式の『同時代ゲーム』はミハエル・バフチンのダイアローグ性に依拠しているとされている。しかし、この長編は、その理論だけでなく、マジック・リアリズムなど同時代の流行思想を詰め込んだ作品である。思想を理解すると言うよりも、大江はそれが小説にどのように使えるかに関心がある。「教わって『知る』、それを自分で使えるようになるのが『分かる』」(大江健三郎)。

 大江は小説を書くために読む。楽しんだり、論じたりすることが目的ではない。小説が具体化の作業であるのに対し、批評は抽象化である。優れた小説家は芳醇な後者の能力を示す反面、後者が貧弱であることが少なくない。大江も同様で、個性的な誤読がかなり見受けられる。評論は、彼の署名がなければ、読むに値しない作品がザラだ。大江の思想は小説にこそある。

 大江がこれほど総合的な作品群を書き得たのは戦後民主主義にコミットしていたからである。戦後民主主義は、西洋近代を独自に消化して形成した政治・社会・文化に亘る包括的思想の大正デモクラシーの復活強化だ。彼はその意義を受けとめ、課題に取り組む。近代の理念の導く理想をいかに現実にするかを追求する。

 それは文学に限らない。彼は戦後民主主義に基づく行動をする作家の姿勢を晩年まで貫いている。体系的な戦後民主主義への批判は概して断片的で、その折衷主義的思想はしばしばグロテスクだ。大江は、目覚まし時計のように、戦後民主主義に反する兆候があれば、抗議運動を開始する。「僕の原点は、どうしても、戦後民主主義です」(大江健三郎)。

 大江健三郎は小説を書くために生まれてきた人物である。戦後のみならず、近代日本文学において彼は谷崎潤一郎に匹敵する小説家である。実際、谷崎同様、日本の作家の伝統よろしく彼も猫派で、『日常生活の冒険』において猫について書いている。この巨人が2023年3月3日に88歳で永眠したとの訃報は大きな喪失感を社会の広範囲にもたらしている。しかし、大江自身はそうした状況に対してこう言うだろう。「人間には回復する力がある。だから、それを信じなきゃいけない」(大江健三郎)。
〈了〉

本作は「目覚まし時計」・「猫」・「チョコレート」の三題噺として執筆されています。

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