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政治家と演説(2008)

政治家と演説
S aven Satow
Mar. 06, 2008

「声は美の花である」。
エレア派のゼノン

 2008年3月4日付『毎日新聞夕刊』は、「オバマ氏の演説は、どこがそんなにすごいのか」という特集記事で、バラク・オバマ上院議員の演説について分析しています。鶴田知佳子東京外語大教授は「平易でリズミカル、繰り返しを多用」、東照二立命館大教授は「交響楽のように、心に火をつける」とそれぞれオバマ候補の演説に関してコメントしています。全国的にはまったく無名だった彼がここまで躍進した一つの要因に、この演説の巧みさが挙げられます。具体性には乏しいものの、演説するその姿にマーティン・ルーサー・キングやマルコムXをダブらせている監修も少なくないに違いありません。

 マルクス・トゥッリウス・キケロ以来、西洋の政治史において、数多くの雄弁家が語り継がれています。その中には、アジテーターと呼ぶべきベニト・ムッソリーニやアドルフ・ヒトラーなどもいます。また、芸術にも、忘れられない演説のシーンも少なくありません。ウィリアム・シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』、チャーリー・チャップリン監督主演の『独裁者』、フランク・キャプラー監督の『スミス都へ行く』など枚挙にいとまがありません。

 YouTubeなどで故人も含めて多くの政治指導者の演説を聴くことができますが、存命中の政治家で演説上手と言えば、国家評議会議長の職を退いたフィデル・カストロが真っ先に挙げられるでしょう。彼は、長時間に亘り、縦横無尽な演説を繰り広げることで知られています。

 近代以降で最も演説がうまかった政治家と問われれば、その答えはレオン・トロツキーとなるでしょう。その演説には修辞法・内容・身振り・口調とすべて揃っており、彼は「メフィストフェレスの舌を持つ男」とも評されています。

 演説するトロツキーの鬼気迫る姿をハンガリー出身の無名のカメラマンが撮影し、その写真は世に知られる最初のきっかけとなっています。彼の名前はフリードマン・エンドレ・エルネーと言いましたが、一般には「ロバート・キャパ」として知られています。

 その一方で、今の日本の政治を見ると、小泉純一郎元首相のワンフレーズ・ポリティクスが思い返されるものの、雄弁家と評せるほどの政治家は目につきません。安倍晋三前首相に至っては、発音が悪く、何を言っているのか聞きとれないほどお粗末です。もちろん、歴史的にまったくいないわけではありません。戦前には、永井柳太郎や中野正剛といった雄弁政治家の系譜があります。ただ、彼らの音声アーカイブを聞いても、浪曲を思い起こしますので、基準が違うことは承知しておかなくてはなりません。戦後では、春日一幸元民社党委員長の演説は、落語の名人芸のようでしたし、また大平正芳元首相も、シャウトするブルース・シンガーさながらに、炎のような弁舌でなおかつ内容の伴った演説に定評があります。

 実は、演説は近代日本を大きく変えています。近代日本語の書き言葉の成立に大きな影響を及ぼしています。演説は近代と共に日本に輸入されます。自由民権運動家は街頭に出て、演説で自らの主張を民衆に訴えています。街頭演説は近代日本政治の原点です。演説という政治行動はそれまでの日本にありませんでしたから、新聞はこの新たな光景を臨場感を損なわずに読者に伝えるため、新しい書き言葉を試行錯誤していきます。さらに、当局は自由民権運動への弾圧を強め、街頭演説を取り締まりを強化すると、活動家は諷刺をこめた歌を演説の代用として対抗します。この演説歌は演歌の起源の一つです。

 政治家と演説の歴史を振り返ってみると、女性の政治家の名前があまり見当たらないことに気がつきます。ヒラリー・クリントン上院議員も、オバマ候補と比べ、演説は見劣りします。もっとも、論戦や記者会見となると、立場は逆転し、彼は別人のようになってしまいます。優れた女性の政治指導者はいるのに、雄弁家の名前が思い浮かばないのは、政治的指導者に求められる資質が変わったからかもしれません。

 アメリカの政治指導者に、演説に頼らないで、人々に自分の政策を訴えた偉大と言われる人がいます。それがフランクリン・D・ローズヴェルト合衆国第32代大統領です。彼はラジオを通じ、温かみのある肉声で、人々に自らの政策への支持を求めています。それはまるで暖炉を前にした長老が静かに語りかけるような感じです。アドルフ・ヒトラーが熱狂を生み出し、その陶酔の中で人々を虜にしたのとは正反対です。作戦もあったでしょうが、彼は人々の冷静さを信じています。この炉辺談話は、民主的指導者がマスメディアを利用した最初の事例とされています。

 ローズヴェルト大統領はポリオのため、車椅子を使っています。彼が演説を主要な手段としなかったのは、そのせいでもあります。

 それはともかく、炉辺談話は、民主政治における政治的指導者と一般の人々との関係が変わったということを表しています。近寄りがたい君臨する権力者ではなく、個人的な会話もできそうな高感度の高い愛される人がリーダーとして迎えられるのです。女性の雄弁家がいないのは、この状況の変化に敏感だからかもしれません。自分の考えを伝えるだけではなく、聞く耳のあるコミュニケーション能力の持ち主がトップにふさわしいからです。

 冷静さだけでは政治参加は促進しませんが、だからと言って、熱狂さだけでは政治判断・動員がどれほど誤るかは歴史が示しています。ホット・コミュニケーションのみでも、クール・コミュニケーションだけでも不十分です。政治運動には、熱狂と冷静のバランスが必要なのです。
〈了〉
参照文献
山口二郎=杉田敦、『現代日本の政治』、放送大学教育振興会、2003年
山口昌男、『歴史・祝祭・神話』、中公文庫、1978年

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