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やっかいな問題(2007)

やっかいな問題
Saven Satow
Oct. 30, 2007

“Democracy, in silence, biding its time, ponders its own ideals, not of literature and art only—not of men only, but of women”.
Walt Whitman Democratic Vistas

 2007年10月12日、ノルウェーのノーベル賞委員会は同年のノーベル平和賞をアル・ゴア前合衆国大統領と国連の「気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change: IPCC)」に授与すると発表する。2007年10月13日付『朝日新聞』によると、その受賞理由として両者が「人為的に起こる地球温暖化の認知を高めた」点を評価している。現在進行中の地球温暖化が世界の平和と安全に対する脅威であると発し続けた彼らの警告を受賞に値すると判断された結果だろう。

 従来、同賞は、多国間の友好や軍備の廃絶・削減、平和交渉の進行などに関しての業績ないし成果を考慮して与えられてきたが、2004年のケニアの女性環境保護活動家ワンガリ・マータイの受賞以降、その選考基準が変わってきている。環境破壊は平和への脅威であり、07年の4月、イギリスの主導により、国連の安全保障理事会の場で、地球温暖化が議題として初めてとりあげられ、「気候の安全保障(Climate Security)」が安全保障をめぐる重要な課題と認知されている。賛否を含め、さまざまな反応が起きているとしても、今回の受賞もこうした流れに沿っていることは確かである。

 地球温暖化自体は急に顕在化した問題ではないが、今日の国際政治における諸々の矛盾・葛藤・摩擦・衝突を象徴している。この受賞は、その意味で、世界の政治が新たな時代に入ったことを象徴的に示している。

 東西冷戦構造の終結後の1992年、アメリカのフランシス・フクヤマは、『歴史の終わり』において、アメリカの勝利と共に「歴史」は終わると宣言する。しかし、それほど楽観的に歴史は推移しない。東西冷戦というイデオロギー・ポリティクスが解体した後、ナショナリズムに熱狂するアイデンティティ・ポリティクスが世界各地で噴出していく。ユーゴスラヴィアの凄惨極める内戦はその典型例である。

 このナショナリズムは帝国主義や植民地主義への対抗原理ではない。イデオロギーという大きな物語が消失したため、居場所として求められた小さな物語である。

 もっとも、イデオロギー・ポリティクスにしろ、アイデンティティ・ポリティクスにしろ、われわれは脅威にさらされているという被害者意識に組織化の基盤を持っている。いずれも自己を能動的ではなく、受動的に規定する。被害者意識に基づいている以上、そこで行使される暴力は自己防衛と正当化される。政治における組織化には、「反作用(Reaction)」、すなわちまず攻撃の対象を見つけ、それを自分たちの置かれている苦境の元凶とすることが最も容易であり、「反動(Reaction)」を招きかねない危険性をつねにはらんでいる。

 石橋湛山(1884~1873)は、『湛山座談』において、1964年の段階で、将来的に「やっかいな問題」となるのはナショナリズムだろうと次のように述べている。

 ただ、僕が一番おそれ心配しているのは、民族主義、ナショナリズムなんです。これのほうがかえってこわいですね。ナショナリズムはなくなりません。帝国主義は、なるほど理屈で考えればああなるだろうけれども、あんなものは、たんなる議論、理屈だし、実際においても資本家とか一部の人間のいわば理屈みたいなものでもって成り立っている。つまり、そこには人間の感情というようなものが入っていない。ところが、ナショナリズムのほうは民衆の感情ですから、かえってこわいと思う。

 要するにナショナリズムは、資本主義と共産主義がいずれ一緒になるというときにも、なおかつ一番最後まで残る問題だ。つまり肌の色が違うとか、長年住んでいた自然風土なり人種なり肌にしみこんだ歴史的文化が抜け切らない限りは、いつまでも残るのではないか。
 アメリカの黒人問題なんかどうもいつまでも残りますね。黒人問題は基本的には経済問題だという解釈があるけれども、どうもそうではない。それだけではないですね。経済問題というのは理屈を考えてつければそんなことがいえるけれども、どうもそうではない。

 1990年以降の世界情勢は、フランシス・フクヤマの見通しではなく、湛山の予測通りに進展している。一般的に、湛山に関する言説は、経済という観点から日本の帝国主義を大日本主義として批判したということが強調されるが、この見解が示しているように、彼の認識はもっと広い。経済学は合理的判断をする「経済人」、すなわち「ホモ・エコノミクス (homo economicus)」を議論の前提にする。けれども、実際の人々は合理性だけで生きてはいない。合理性だけではなく、非合理性も念頭に置かなくては十分ではない。資本主義にしろ、共産主義にしろ、帝国主義にしろ、いずれも経済的な問題であるのに対し、ナショナリズムは「感情」に揺り動かされる「やっかいな問題」だからである。湛山は、続けて、「ナショナリズムをどういうふうにしてプラスの方向に向けるかということが問題ですね」と言っている。扇動家が民衆に仮想敵への集中攻撃を訴えるように、情熱的な精神状態はあることに極度に集中しすぎると起きやすい。ナショナリズムの克服には自分自身を掘り下げ、他者との協同=共感の関係を結ぶほかない。

あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいなやつらばかりだ
     羊歯の葉と雲
        世界はそんなにつめたく暗い

けれどもまもなく
そういうやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであろう
(宮沢賢治『政治家』)

 90年代から吹き荒れたアイデンティティ・ポリティクスの嵐は沈静化しつつあるが、それはナショナリズムが克服されたと言うよりも、それ以上に大きいグローバル規模の変動が到来しているからである。地球温暖化のもたらしている脅威だ。

 地球温暖化には、未来性・グローバル性・カオス性という三つの特徴がある。気候変動によると見られるさまざまな被害が世界各地に起きているが、これはほんの前触れにすぎない。今以上の天変地異がいずれやってくる。また、温室効果ガスの地球規模への拡散が問題になっている。しかし、土壌汚染にしろ、海洋汚染にしろ、一定領域にある濃度の汚染物質が留まってしまうから起きたのであって、拡散できるのなら、被害はあまり発生しない。さらに、直接的に生体に害を及ぼす有機水銀やダイオキシンと違い、温室効果ガスの一つである二酸化炭素はそれ自体で有毒ではなく、さまざまな要素と複雑に、カオス的に絡み合って温暖化を招いている。西洋近代文明を支えた最大の数学ツールは微積分であるが、これは線形の事象や現象には使えるけれども、カオスは非線形であり、発想の転換が要る。

 環境問題には地球温暖化のような新しい問題だけではなく、公害といった古い問題も依然として世界各地で発生している。これらは地球温暖化の陰に隠れているのではない。古い問題への認識の甘さから新しい問題を招いてしまっただけでなく、広義でも、狭義でも、地球温暖化に何らかの形でつながっている。

 未来は現在の意思決定のプロセスに参加することができない。また、環境問題は、京都議定書が示している通り、一国だけで対応するのは不可能である。そのため、環境と発展の相克が国際会議の場で議論されることになる。

 現在世界が直面している政治を「エコロジー・ポリティクス」と呼ぶこともできよう。ウェストファリア条約以来の国家主権の見直しを迫り、国家を相対化させる地球温暖化は国際政治の考え方そのものに再考を促している。エコロジーは近代文明自体にその批判を向けている。政治がこの挑戦を受けとめるには、文明に関する深い洞察が不可欠であり、既成の政治観だけでは不十分である。近代科学に基づく産業社会も見直さなければならない。政治の根本的な再検討なくしてエコロジーの問題提起に応えることができない以上、新たな民主主義の展望を必要とする。

 ただし、エコロジーは「理屈」で、「人間の感情というようなものが入っていない」。それに対する反発がナショナリズムとして噴出することはあり得る。大きな問題と小さな問題が作用と反作用しつつ国際社会を揺り動かす。エコロジーもナショナリズムという「やっかいな問題」を無視することなどできない。

 こうした世界情勢に右往左往する日本政治に対し、湛山思想の再検討を提唱することは有意義である。言うまでもなく、湛山は地球温暖化を知らなかったし、エコロジー・ポリティクスを前提として思考していたわけでもない。しかし、湛山は歴史において表層的な現象ではなく、本質的な意味を問い続けている。「やっかいな問題」のような湛山の先見性は、射程の長い文明史観に基づく「民主主義の展望(Democratic Vista)」が可能にしている。湛山の洞察は新たな政治を構想するための手がかりとなり得る。
〈了〉
参照文献
石橋湛山、『湛山座談』、岩波同時代ライブラリー、1994年
宮沢賢治、『宮沢賢治全集2』、ちくま文庫、1986年
フランシス・フクヤマ、『歴史の終わり』上中下、渡部昇一訳、知的生きかた文庫、1992年

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