谷崎潤一郎、、あるいはアンチエロティシズムの文学(6)(2022)
6 谷崎と政治
谷崎は『東京をおもう』の中で、「政治の方に関心を持っていない」と記している。だが、マゾヒストであることはそれだけで政治的である。レオポルド・フォン・ザッハル=マゾッホは、晩年、トルストイ主義に傾倒する。マゾヒズムが政治と直接的に結びつくのはトルストイ主義との遲逅である。トルストイ主義は、一般的には、「質素な生活」を勧める禁欲主義的理想と見なされている。しかし、「暴力による悪に対する無抵抗」をモットーとするトルストイ主義は一種のアナーキズムである。
17世紀半ば、ロシア正教会下で行われた典礼改革に対して、その受け入れを拒否し、いくつかのセクトが教会から独立している。皇帝アレクセイの信任を得た総主教ニーコンは教義と無関係と思われる瑣末なことを改革と称したため、それを皇帝による介入と判断した聖職者たちは分派する。これは「教会分裂(ラスコール)」と呼ばれる。「分離派(ラスコーリニキ)」は社会の各層に支持を広げ、ドストエフスキーやトルストイも関心を強く持っている。その中には、鞭打ちによって神との一体化を試みる鞭身派や一切の性的快楽を拒絶する去勢派などがある。トルストイのアナーキズムはこれらのセクトからの影響が無視できない。
トルストイ主義とは晩年の作品--『懺悔』や『福音書』、『わが宗教』、『救いは汝のうちにあり』、『芸術とはなにか』など--に具現している思想を指す。その理論は、福音書に由来した素朴とも言うべきメシア信仰に彩られ、神秘主義的なアナクロニズムに覆われている。アナーキズムは、1970年代以降、被抑圧者の暴力を権力への対抗手段として肯定する傾向にあるが、トルストイはそれも否認する。「非暴力」の行使は被抑圧者に忍耐を勧めるものではなく、「万人のため、従って権力を所有する人々、わけてもこれらの人々のためである」。トルストイがいかなる発言をしても、世界的な名声を博した大文学者であるという理由でロシア政府でさえも黙認する。そのロシアを救うのは福音書の教え以外にはないと『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を書いたトルストイは、本気で信じている。
トルストイは、「絶対君主制であろうと、議会制であろうと、総督政治であろうと、第一あるいは第二帝政であろうと、ブーランジュ式の統治であろうと、立憲君主制であろうと、コミューンないしは共和制であろうと」、いっさいの国家も政府も認めない。数あるアナーキストの中で最も激しい口調で反国家の言葉を書き記したのは彼なのである」(アンリ・アルヴォン『アナーキズム』)。
さらに、アンリ・アルヴォンは、『アナーキズム』において、トルストイ主義を次のように要約している。
あらゆる抑圧形態を敵視しながらも、トルストイは財産制度に抵抗することしかできない。富は罪悪である、なぜならそれは富を所有する者の所有しない者にたいする支配を保証するからである。このような財産の帰趨は、生産手段、土地、道具が問題となるとき、とくに顕著となる。生産手段の所有者は、もっぱら自己のために労働者を労働させることができる。トルストイの考える解決法は、愛の公理から着想を得ている。どんな人間も、みずからの力量に応じて労働する。ところが必要な分を得るだけで、それ以上は得ていない。このようにして、人間は自分自身の生活手段だけでなく、病人や老人、子供たちの生活手段も確保していないことになる。すべての個人的利益の排除、トルストイはこれを福音書の名において主張する。またミールの支配原理を念頭において、これを主張するのである。ミールとはロシアの農村共同体で、そこでは万人がその個人的利害にとらわれずに全員一致して労働する。
トルストイの批判は、他のアナーキズムとは比較にならないほど、根源的である。1910年、死の2ヵ月前、トルストイはヨハネスブルクに住む弁護士のガンジーに手紙を書き送る。「私たちには世界の果てとも思えるトランスヴァールでのあなたのご活躍は、私たちの関心の的となっております。それは、今日、地上に存在するもののうちで最も貴重なものです」。ガンジーによって、トルストイ主義は、インドで独立という劇的な勝利を収める。「暴力を用いて欲深い人たちを追払った人たちが、つぎには自らが、その敗北者と同じ病気に悩むことになる。これは歴史が教えてくれたことである」(ガンジー『ガンジー自伝』)。トルストイやガンジーは、確かに、晩年、極端に性に対して禁欲的姿勢をとっていたが、それは彼らが、若いころ、サディスティックにのみ性を考えていたことへの自己批判である。「父の危篤時の肉欲の恥辱は……私がどうしても消したり忘れたりすることのできぬ汚点である」(同)。
サディズムよりもはるかにマゾヒズムを真剣に受けとめる必要がある。サディズムはテロリズムとして政治的に顕在化し、その目指すものは破壊であり、それを通した再生である。一方、マゾヒズムは他社との共生を望む。暴力が不要だから、政府も必要ない。アナーキズムの中でも、最も荒唐無稽と思われていたにもかかわらず、これに共鳴したガンジー、さらにマーチン・ルーサー・キングの勇気ある行動が歴史の新たな展開を招く一つの原動力となったように、マゾヒズムは創造を目標とする。このマゾヒズム=アナーキズムの系譜はジョン・レノンによって無神論的に、さらに徹底化される。
谷崎はマゾヒストであるが、トルストイ主義に接近してはいない。彼の思想ははるかに受け身である。谷崎は、近代化が進むにつれ、その理念に反する事態がもたらされるけれども、人々はそれを喜んで受け入れていることを示す。ロックの社会契約論によれば、近代において政府は社会のためにある。その考えを援用して、政府は人々に公共サービスを用意する。自由で平等、自立していたはずの個人はそれにより政府に依存することになる。しかし、人々はそれを忌避するどころか、喜んで利用して政府に従属する。近代化はマゾヒズムを社会に浸透させるのではないかと谷崎は問う。
谷崎の政治思想を物語るのが『小さな王国』である。小学校の学級の噺だが、彼はここで国家の起源について描いている。指導者を中心にいくつかの人間集団が形成される。その間で抗争を繰り返すが、次第に突出したカリスマの下に一つの共同体にまとまる。これはトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』とマックス・ウェーバーの『職業としての政治』を思い起こさせる。
谷崎はその中で次のような経済活動を描いている。
やがて沼倉は一つの法律を設けて、両親から小遣い銭を貰った者は、総べて其の金を物品に換えて市場へ運ばなければいけないと云う命令を発した。そうした巳むを得ない日用品を貰う外には、大統領の発行にかかる紙幣以外の金銭を、絶対に使用させない事に極めた。こうなると自然、家庭の豊かな子供たちはいつも売り方に回ったが、買い取った者は再びその物品を転売するので、次第に沼倉共和国の人民の富は、平均されて行った。貧乏な家の子供でも、沼倉共和国の紙幣さえ持って居れば、小遣いには不自由しなかった。
豊かな家庭の子はもらった小遣いを物品に変え、共和国の市場に提供する。他方、貧しい家庭の子は不要である。累進課税のような発想である。共和国の大統領は自国通貨を国民に発行する。その貨幣を持っていれば、市場に用意された物品と交換できる。物品を手に入れた子はそれを自分のために利用するだけではなく、転売し、富が再分配される。これは一種の社会保障である。貨幣はその共同体の権威の信用を反映する。市場の予定調和的均衡は資本の流動性や投機の円滑さによって達成される。資本は、転売によって、自己増殖を繰り返していく。沼倉共和国は福祉国家を指向していると見ることができよう。ただ、政府と中央銀行が一体化したこの共和国の体制ではインフレを招きやすく、実際、発生している。
この経済活動に担任教師も次のように加わっている。
「どうだね、沼倉。一つ先生も仲間へ入れてくれないかね。お前たちの市場ではどんな物を売つて居るんだい。先生もお札を分けて貰つて一緒に遊ばうぢやないか」
かう云つた時の貝島の表情を覗き込むと、口もとではニヤニヤと笑つて居ながら、眼は気味悪く血走つて居た。子供たちは此れ迄に、こんな顔つきをした貝島先生を見た事がなかつた。
「さあ、一緒に遊ばうぢやないか。お前たちは何も遠慮するには及ばないよ。先生は今日から、此処に居る沼倉さんの家来になるんだ。みんなと同じやうに沼倉さんの手下になつたんだ。ね、だからもう遠慮しないだつていいさ」
沼倉はぎよつとして二三歩後へタヂタヂと下つたけれど、直ぐに思ひ返して貝島の前へ進み出た。さうして、いかにも部下の少年に対するやうな、傲然たる餓鬼大将の威厳を保ちつつ、
「先生、ほんたうですか。それぢや先生にも財産を分けて上げませう。 ―――さあ百万円」
かう云つて、財布からそれだけの札を出して貝島の手に渡した。
「やあ面白いな。先生も仲間へ這入るんだとさ」
一人が斯う云ふと、二三人の子供が手を叩いて愉快がつた。
「先生、先生は何がお入用ですか。欲しい物は何でもお売り申します」
「エエ煙草にマツチにビール、正宗、サイダア、………」
一人が停車場の売り子の真似をして斯う叫んだ。
「先生か、先生はミルクが一と罐欲しいんだが、お前たちの市場で売つて居るかな」
「ミルクですか、ミルクなら僕ん所の店にあるから、明日市場へ持つて来て上げませう。先生だから一と罐千円に負けて置かあ!」
かう云つたのは、洋酒店の忰の内藤であつた。
「うん、よしよし、千円なら安いもんだ。それぢや明日又此処へ遊びに来るから、きつとミルクを忘れずにな」
しめた、と、貝島は腹の中で云つた。子供を欺してミルクを買ふなんて、己はなかなかウマイもんだ。己はやつぱり児童を扱ふのに老練なところがある。………
公園の帰り路に、K町の内藤洋酒店の前を通りかかつた貝島は、いきなりつかつか店へ這入つて行つてミルクを買つた。
「ええと、代価はたしか千円でしたな。それぢや此処へ置きますから」
と、袂から先さつきの札を出したとたんに、彼は苦しい夢から覚めた如くはつと眼をしばだたいて、見る見る顔を真赤にした。
「あツ、大変だ、己は気が違つたんだ。でもまあ早く気が付いて好かつたが、飛んでもないことを云つちまつた。気違ひだと思はれちや厄介だから、何とか一つ胡麻化してやらう」
さう考へたので、彼は大声にからからと笑つて、店員の一人にこんなことを云つた。
「いや、此れを札と云つたのは冗談ですがね。でもまあ念の為めに受け取つて置いて下さい。いづれ三十日になれば、此の書附と引き換へに現金で千円支払ひますから。………」
『小さな王国』はこのように閉じる。男女の設定ではないが、他の谷崎作品と共通した構造をしている。物語が進展するにつれ、空間が淀み朽ちていき、それを活性化させるために教師と児童の秩序が逆転、その従属に主人公は幸福感を覚える。
この件はジョン・メイナード・ケインズの『貨幣論』を思わせる。彼は貨幣の起源を借金に見出す。借金の印が貨幣に進化したというわけだ。新古典派は貨幣を物々交換の媒介物と見なし、租税収入を民間の経済活動の一部と捉えている。一方、ケインズ主義は政府による国債発行が民間活動を促し、その一部が納税されると考える。卵ではなく、鶏が先である。経済活動の原資は借金であり、そこに貨幣の起源がある。それは売買取引の前に信用取引があるという考えである。
このケインズ主義を理論的基礎付けとして福祉国家が登場する。しかし、福祉国家は自由で平等、自立した個人という近代の理念に反する事態をもたらす。引用した通り、主人公の教師が沼倉共和国に参加する時、彼は大統領に従うことを受け入れている。もはや自由でも平等でも自立してもいない。「われわれは自由であっても、しかし不幸であることがありうることを認めなければならない。自由とは、よいことばかりを、あるいは災いの少しもないことを意味するものではない。自由であることは、ある場合には、飢える自由、高価な過ちを犯す自由、または命がけの危険を冒す自由を確かに意味するかもしれない」(フリードリヒ・A・ハイエク『自由の条件』)。
谷崎は、すでに述べた通り、近代を転倒する。彼は『小さな王国』で社会契約説から福祉国家への道筋を描いている。しかし、この近代の過程は自由で平等、自立した個人だという理念に反する状態を招きかねない。福祉国家は人々に政府への依存をもたらす。構成員同士は平等でも、政府は主人のように振舞うが、人々は受け入れる。谷崎は、新自由主義者と違い、攻撃的な口調で声高に福祉国家を批判しない。マゾヒストとしてユーモアを持って描く。
谷崎の批判はしばしばこうしたユーモアの方法をとる。彼は関東大震災が起きたことを聞くと、「『しめた、これで東京がよくなるぞ』という歓喜が湧いて来」たと次のように思ったと『東京をおもう』に記している。
井然たる街路と、ピカピカした新築の舗道と、自動車の洪水と、幾何学的な美観をもって層々累々とそそり立つブロックと、その間を縫う高架線、地下線、路面の電車と、一大不夜城の夜の賑わいと、巴里や紐育にあるような娯楽機関と。そして、その時こそは東京の市民は純欧米風の生活をするようになり、男も女も、若い人達は皆洋服を着るのである。
さらに、「自分は外人が廣重の絵を珍重するような意味で、舊き日本をエキゾティズムとして愛」し、「外人の遊覧客と同じような気分をもって奈良や京都に遊」んだとも述べている。これは志賀重興の『日本風景論』に端を発する国粋主義への批判である。ナショナリストは八景を始めとする伝統的な日本の風景を否定、西洋人の価値観に沿ったものを評価する。その代表が日本アルプスである。徳富蘇峰のような国粋主義者は歴史に対しても西洋近代的な価値観で再構成し、それを「伝統」と称している。蘇峰は、『新日本の詩人』において、欧化主義をバネにした国粋主義を唱えている。欧化主義は花鳥風月など伝統的な価値観を破壊し、「平民的」、すなわち国民的な視点から日本史や民俗学の領域が「詩人の材料」に提示される。歴史から日本の西洋に対する優位が見出され、観念的な欧化主義は愛国主義の高揚へと転じる。国粋主義は西洋近代の認識を用いながら、優越性の観点から日本の歴史を再構成する。古典教養に通じた谷崎はそうした彼らの屈折を糾弾することをしない。むしろ、西洋人から見た日本の体験を書き綴る。それがマゾヒズム的ユーモアによる批判であり、谷崎の政治思想である。
She'll always be there trying to grab a hold
She thought she knew me, but she didn't know
That I was sad and wanted her to go
Parasite lady
Parasite eyes
Parasite lady
No need to cry
I didn't wanna have to get away
I told her things I didn't want to say
I need her and I hope she'll understand
Parasite lady
Parasite eyes
Parasite lady
No need to cry
(Kiss “Parasite”)
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