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新井政談(1)(2022)

新井政談
Saven Satow
Sep. 10, 2022

落盡殘紅始吐芳 
佳名喚作百花王
競誇天下無雙艷 
獨占人間第一香
皮日休『牡丹』

1 インフレ
 インフレは古来より最も深刻な経済問題の一つである。古代ローマ滅亡の一因にインフレがあげられることはよく知られている。また、第一次世界大戦後のドイツで起きたハイパーインフレはナチスが育つ社会的土壌を用意したとしばしば指摘されている。インフレは発生すると制御するのが難しく、国家体制を転覆させかねない危険な経済問題である。
 
 しかし、近年、先進国の間でインフレへの警戒感が緩んでいる。むしろ、低インフレ・デフレによる長期停滞という「ジャパニフィケーション(Japanification)」、すなわち「日本化」を懸念し、当局は超低金利政策を実施している。こうした状況を前に、ポール・クルーグマンをはじめ経済学者の中に、インフレターゲットを提案する者も出現する。それは、政府・中央銀行が一定の範囲の物価上昇率を目標として達成するための金融政策を実行すべきだという理論である。明らかにインフレに対する恐怖はなく、制御できるという前提に立っている。さまざまな異論が示される中、黒田東彦総裁の日銀はインフレ率2%を目標にこの政策を実施する。
 
 家計や企業、市場がインフレ期待を抱くことは確かだ。けれども、それは、すでにインフレが起きていて、より進むだろうと予想した上で、周囲の動きを見て損をおしない、あるいは得をしたいと行動する動機である。例えば、当局が対策を打ち出すようなインフレ発生であれば、せおぁつ防衛のため、家計は予想行動する。金融当局が人為的に誘導しようとしても、インフレが実際に起きていなければ、家計や企業、市場もそうした期待などしない。もしインフレが始まらなかったら、損をするからだ。なお、インフレ期待の測定はミシガン大学消費者態度指数を始めとする調査や各種の指標、市場が予想する期待インフレ率であるブレーク・イーブン・インフレ率(BEI)などを参照して推定する。
 
 インフレを過去の問題とする楽観的見通しは、さらに過激な理論を登場させる。それが「MMT(Modern Monetary Theory)」である。インフレが起きない限り、変動相場制下で自国通貨を発行している政府は財政赤字を気にする必要がない。現代貨幣理論はそう説く。このポストケインズ派のマクロ経済学はJ・M・ケインズの『貨幣論』を論拠にしている。
 
 新古典派は租税収入を民間の経済活動の一部と捉えている。一方、MMTは政府による国債発行が民間活動を促し、その一部が納税されると考える。卵ではなく、鶏が先だというわけだ。これは、経済活動の原資が借金であり、そこに貨幣の起源を見出す『貨幣論』の主張を思い起こさせる。それは売買取引の前に信用取引があるという考えだ。
 
 新古典派は貨幣を物々交換の媒介物と見なす。インフレは総需要に対し総供給が小さい状態である。一方、財政赤字は歳入より歳出が大きい状態である。新古典派は財政規律が緩むことによりインフレが発生すると主張するが、両者に直接的な因果関係はない。しかも、金本位制と違い、現代の政府は変動相場制で自国通貨を自由に発行できる。自国通貨建ての債務であれば、政府が尊重すべき財政規律は赤字ではなく、インフレである。ただ、その急激な悪性インフレはここのところほとんど見られない。
 
 通常、財政赤字が膨らむと、返済リスクが高まるので、国債の金利が上昇する。ただし、自国通貨建てで、市場で買われている限り、金利上昇はない。しかし、内外の金利差が大きくなれば、自国通貨安で、輸入品の価格が上昇、インフレが起きる。ここで金利を放置するなら、物価は高騰する。インフレ抑制のために、当局は金利を上げざるを得ない。けれども、先進諸国の当局はいずれも低金利政策を維持しており、内外差は小さい。
 
 先進国がインフレに悩まされたのは石油危機の時である。日本は第一次、アメリカは第二次と時期はズレるものの、1世代以上前の出来事だ。それだけ長い間起きないとすれば、専門家も発生の可能性を軽視し、過去の教訓も活かされない。インフレは一旦始まれば、急激に悪化、制御不能に陥るという恐怖の体験者の警告にも耳を貸さない。
 
 けれども、パンデミックにより、企業や家計の経済活動が滞り、総需要が減少、各国政府はできる限り供給を維持するため、未曽有鵜の財政支援を行う。また、中央銀行も大規模金融緩和策を実施、通貨供給量を増加させる。ワクチン接種を始めとする感染抑止対策や医療体制の整備、治療法の確立による行動制限の緩和に伴い、失われていた需要が回復傾向を示したものの、物流の滞りや人手不足、エネルギー価格の高騰などにより供給が制約されてインフレが進行する。さらに、ロシアがウクライナへ侵略行動を始め、国際的な経済制裁や対抗措置によりエネルギーや穀物などの価格が急騰し、インフレが世界的に急伸する。
 
 巨額な公的債務と通貨の過剰供給、経済制裁という状況下で石油危機以来のインフレが進んでいる。少なからずの国の中央銀行は、その抑制のため、金利を上げるなど金融引き締め政策を始める。しかも、他国に比べて金利が低いと、自国通貨が安くなり、エネルギーを代表に輸入品の価格が上昇する。中央銀行は金利を思い切って上げざるを得ない。
 
 一旦始まると、制御するのが困難であるインフレの恐ろしさを現代の経済学者も実感している。MMT賛美の声も以前ほど聞こえない。
 
 江戸時代にインフレの原因を通貨供給量の過剰と捉え、その理論に従って金融政策を実施した知識人がいる。それが新井白石(1657~1725)である。彼は政治家であり、儒学者、洋学者、経済学者、文学者である。一介の無役の旗本でありながら6代将軍徳川家宣の侍講として御側御用人や間部詮房等と共に幕政を実質的に主導、「正徳の治」と呼ばれる治世に関わっている。
 
 白石は、おそらく日本史上最高の知識人の一人である。それは、著作というよりも、同時代人の証言が物語る。ここでは、余興として作成されたと思われる史料を紹介しよう。
 
 まず、相撲の番付を模した『学者角力勝負附評判』である。これは、白石の死後半世紀ほど経った天明年間(1781~89年)に出回ったとされる。それによると、西の大関が新井白石である。当時、横綱は番付にはなく、大関が最高位である。また、勧進相撲において西が「勧進方(ホーム)」、東が「寄り方(ビジター)」であり、前者が後者より上とされる。『評判』は白石を最高だと伝えている。ちなみに、東の大関が熊沢蕃山、東の関脇が荻生徂徠で、西が伊藤仁斎である。中江藤樹や木下順庵は前頭筆頭、貝原益軒や太宰春台は世話役と位置づけられている。
 
 次に、蘭学者見立番付の『近来繁栄蘭学曾我』である。これは歌舞伎の曽我狂言の芝居番付のパロディで、寛政年間(1789~1801年)の作とされる。『近来繁栄蘭学曾我』は四番続狂言の形式であり、白石が第一である。第二には青木昆陽の名があり、第三が前野良沢、第四は杉田玄白である。続狂言は、一幕物の離れ狂言と違い、複数の幕に亘って展開される筋を持つ歌舞伎芝居である。これは白石が蘭学の開拓者だということを示している。
 
 これらは明らかに余興である。しかし、だからこそ、白石の業績について当時の人々の間で知られ、認められていたことを物語る。お遊びでランキングを作るとしたら、誰からも異論が出にくい人選になるものだ。NPB史上の番付を作るとしたら、長嶋茂雄が最高位とすることに異論はないだろう。しかも、白石は儒学者としても蘭学者としても最高の評価を受けている。このようなオールラウンドの知識人は白石以外にいない。
 
 しかし、今日、白石への評価は必ずしも芳しくない。中でも経済政策に対しては厳しい批判が寄せられている。実証的データを上げて、その問題点を指摘する研究も少なくないい。ただ、白石は非常に体系的な思考をする知識人である。批判が正当であるとしても、その体系的理論が十分に理解されているとは言い難い。そこで白石の理論的体系性について論じてみよう。
 

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