同時代的視点─小林多喜二の『蟹工船』(2)(2008)
二
葉山嘉樹の『海に生くる人々』はプロレタリア文学を代表する作品であるだけではない。初めて文学的価値も認められたプロレタリア文学である。葉山はこれを獄中で執筆し、一九二六年一〇月、改造社より単行本として刊行すると、それは当時の文学界に衝撃をもたらしている。葉山は作家活動に入る前に数多くの職に就いている。船員もその一つである。この作品にはそうした彼の経験が生きている。葉山は、いまだ組織を持たない海の労働者たちを顔のある存在としてそれぞれ描きわけ、彼らが階級意識に目覚めていく過程を生き生きとしたタッチで記している。
葉山は『海に生くる人々』を次のような文体で記述している。
室蘭港が奥深く広く入り込んだ、その太平洋への湾口に、大黒島が栓をしている。雪は、北海道の全土をおおうて地面から、雲までの厚さで横に降りまくった。
汽船万寿丸は、その腹の中へ三千頓の石炭を詰め込んで、風雪の中を横浜へと進んだ。船は今大黒島をかわろうとしている。その島のかなたには大きな浪が打っている。万寿丸はデッキまで沈んだその船体を、太平洋の怒濤の中へこわごわのぞけて見た。そして思い切って、乗り出したのであった。彼女がその臨月のからだで走れる限りの速力が、ブリッジからエンジンへ命じられた。
冬期における北海航路の天候は、いつでも非常に険悪であった。安全な航海、愉快な航海は冬期においては北部海岸では不可能なことであった。
藤原は、そのいつもの、無口な、無感情な、石のような性格から、一足飛びに、情熱的な、鉄火のような、雄弁家に変わって、その身の上を波田に向かって語り初めた。
「僕が身の上を、だれかに聞いてもらおうなんて野心を起こしたのは、全く詰まらない感傷主義からだ。こんなことは、話し手も、聞き手も、その話のあとで、きっと妙なさびしい気に落ち入るものだ。そして、話し手は、『こんなことを話すんじゃなかった。おれはなんてくだらない、泣き言屋だろう』と思うし、一方では、『ああ、あんなに興奮して、あの男に話さすんじゃなかった。この話はあとあとの生活の間に何かの、悪い障害になるかしれない』と、思うに決まってる。ところがそんな結果をもたらすような話だけが、何かのはずみで、どうしても話さずにはいられない衝動を人に与えるものなんだ。あとで何でもないような話は、何かのはずみに、だれかを駆り立てて、話さずには置かないというような、興奮や衝動を与えはしないんだ。僕は、今日、僕が本をむやみに読んだという話から、僕は我慢できなくなったんだ。それほど、僕は『本を読んだ』ことが、僕にばかげた気を与えたらしいんだ。『本を読んだ』ことは、僕が起きるのにも、眠るのにも、ものをいうのにも『本を読んでる』ような感じを人に与えるらしい。つまり僕は本の読んでならない乾燥したものばかりを読んだんだ。(略)
この『海に生くる人々』は林房雄や中野重治といった左翼に属する文学者のみならず、宇野浩二や千葉亀雄をも魅了する。それどころか、プロレタリア文学からおよそほど遠い横光利一や川端康成らが同人に名を連ねる「新感覚派」の雑誌『文芸時代』から葉山に執筆依頼が舞いこんだほどである。若き小林多喜二もすっかり惹かれ、『葉山嘉樹』の中で彼を文学上の「自分の親父」と敬愛している。
社会主義思想に立脚した文学作品ならびに出口の見当たらない貧困や劣悪な労働環境などの社会問題を扱った小説は、プロレタリア文学登場以前から発表されている。木下尚江の社会主義小説は前者の代表である。他方、後者としては、一九一〇年代後半に出現した宮島資夫の『坑夫』(一九一六)や宮地嘉六の『放浪者富蔵』(一九二〇)など現場での労働経験を記した「大正労働文学」が挙げられる。
しかし、ロシア革命の影響により、マルクス主義に基き、搾取される労働者階級の解放を目標とした体制転覆をテーマとするリアリズムに即した作品が試みられるようになっている。「革命」を目指している以上、本来は「革命文学」とすべきであるが、検閲を通るために、「プロレタリア」が使われるようになり、この呼称が定着する。小牧近江と金子洋文、今野賢三によって一九二一年に創刊された『種蒔く人』がプロレタリア文学を本格的に発信し始める。
関東大震災直後の一九二三年にこの雑誌は休刊したけれども、二四年、『文芸戦線』が発刊される。当初は労働者による自然発生的な連帯を描いていたが、青野李吉が一九二六年に『自然生長と目的意識』において社会変革という目的意識を持たなければならないと説いて以降、政治目的に奉仕する性格が顕著になっていく。
もっとも、ご多分に漏れず、革命運動は理念に固執するため、つねに路線対立がついてまわり、プロレタリア文学運動も離合集散を繰り返している。「全日本無産者芸術連盟((Nippona Artista Proleta Federacio))、通商「ナップ(NAPF)」が二八年に『戦旗』を創刊する。小林多喜二がこの『戦旗』に作品を発表し、その活動のおかげもあり、ナップが優勢となる。
ただし、プロレタリア文学を主に読んでいたのは、労働者階級と言うよりも、新たに誕生した「大衆」である。彼らの代表が都市に住むサラリーマンである。一九二〇年代は、日本でも、急速な産業化・都市化に伴い、大衆文化が花開く。一九二二年二月に創刊された『旬刊朝日』が四月から『週刊朝日』へとリニューアルし、同時に『サンデー毎日』も発刊され、週刊誌時代が到来する。
二三年の関東大震災もよって多くの書籍や新聞、雑誌が焼失したこともあり、人々が活字に飢え、空前の出版ブームが起こる。二四年一月、『大阪毎日新聞』と『大阪朝日新聞』が発行部数公称一〇〇万部を突破し、二五年二月、大日本雄弁会講談社が娯楽誌『キング』を始めると、第一号が七〇万部、第二号では一〇〇万部という空前の売れ行きに到達する。二六年一二月、改造社が『現代日本文学全集』全六二巻・別巻一を一冊一円の廉価で刊行を開始する。この成功に刺激を受けた他社も追随し、各種の文学全集を発行して、円本ブームが湧き上がる。
さらに、二七年七月、岩波書店は、ドイツのレクラム文庫を参考に、古今東西の名著を収録した岩波文庫をスタートさせる。他にも、映画は大衆の娯楽の地位を獲得し、企業もキャッチコピーを入れた色鮮やかなポスターを宣伝に採用、加えて、二五年三月二二日、「JOAK」のコールサインと共にラジオ放送が始まる。文学はこうした大衆の目・大衆の耳を意識しなければならず、プロレタリア文学も例外ではない。
先の引用が告げている通り、多喜二は大衆の時代を最も理解していたプロレタリア文学者である。しかし、『蟹工船』は『海に生くる人々』なくしては生まれ得ない。いずれの作品も凍てつく冬の北洋で海上労働者が能化に苦しめられる場面から始まっている。
また、救難信号を発する船を無視して、通り過ぎる点も共通している。さらに、怪我をしたボーイ長と病死した漁師という違いはあるものの、遺体がカムチャツカの冷たい海に葬られるのを目の当たりにして、労働者が明日はわが身だと気がつき、団結して立ち上がり、一旦は勝利したかと思われたけれども、闘争の指導者が官憲に捕らえられるのも同じである。
どちらの作品でも、苛酷な労働環境で酷使される労働者たちが自然発生的にて闘争を始めながら、次第に階級意識を自覚していく。冒頭から結末に至るまで両者は非常に似通い、リメークと言っても過言ではない。
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