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犯罪と社会性(2007)

犯罪と社会性
Saven Satow
Apr. 22, 2007

「貧乏が犯罪の母であるとすれば、精神の欠陥はその父である」。
ジャン・ド・ラ・ブリュイエール『人さまざま』

 2007年4月19日の衆議院本会議で、少年院送致の年齢下限を現行の14歳以上から「おおむね12歳以上」に引き下げる少年法など関連法改定案が、与党などの賛成多数によって、可決される。少年犯罪の凶悪化や低年齢化に対応するためというのがその理由である。

 すでによく知られている統計だが、戦後一貫として未成年による凶悪犯罪の件数は減少している。近年は少子化が進んでいるので、それに伴い、犯罪件数が減少していることも事実である。家庭裁判所の調査官による報告と少年犯罪の統計は、むしろ、凶悪化と言うよりも、かつて以上の社会性の乏しさを明らかにしている。その方が問題であり、今回の少年法改定はそれに必ずしも応えていない。

 河合幹雄桐蔭横浜大学教授は、2007年2月12日付『朝日新聞』の「時流自論」において、少年犯罪が凶暴化ではなく、「稚拙化」しているのだと述べている。ノウハウさえ身につけていれば、従来、軽微な犯罪ですんでいたはずの行為が、それを知らないために、凶悪犯罪となってしまっている。

 例えば、路地の隅で、2人組みがある少年に「ここんところ、おれもよお、困ってんだけどよ、ちょっと貸してくれねえか?」と言えば、カツアゲである。この場合、1982年3月23日放映『ドリフ大爆笑』のコントでお馴染みだが、いかりや長介先輩が、気弱そうな生徒高木ブーを脅してみせて、その技能を加藤茶後輩に教えるというように、ノウハウが伝承されていく。小さなギルドと言ってもいいかもしれない。

 けれども、ナイフやバットで武装した大勢で、一人に襲いかかって、金品を奪えば、強盗となる。歯止めというものも用意せず、エスカレートしてしまえば、これに傷害、ケースによっては、さらに殺人が加わる。しかも、彼らは結束が固い、いわゆる非行少年グループではなく、たまたま知り合った程度の希薄な関係の群れであることも少なくない。

 この場合の社会性の貧困は社会規範を守る気持ちの希薄さではない。コミュニケーション能力のお粗末さである。

 犯罪をする際に、その罪状を軽くするだけの知恵・技能とその伝承がないために、結果として凶悪化している。そこから見えてくるのはひ弱で未熟な未成年者の姿である。各発達段階には、その時期までに獲得して欲しい社会性の程度があるけれども、そこに達していない。世の中をなめたような態度をとり、遺族や被害者の神経を逆撫でする「凶悪」な犯人がいるが、社会性が欠落し、幼稚な精神構造の持ち主にすぎない。

 さらに、河合教授は、少年犯罪の低年齢化ではなく、「実態は、年齢や性別による『らしさ』の喪失」だと指摘している。成人しているはずなのに、少年犯罪を引きずっているような「稚拙」な犯罪が目立つというわけだ。バラバラ殺人などの表面的には猟奇的に見えたとしても、実際には、死体の起き場に困ったといった場当たり的な対応にすぎず、加害者は特別な人格どころか、先を見越していない未熟な精神の持ち主でしかない。支倉逸人東京医科歯科大学名誉教授は、『検死秘録』の中で、遺体に必要以上の刺し傷があるような「殺し過ぎ」であるとき、加害者は被害者に対して、社会的な意味において、弱者であるケースがほとんどであり、「恐怖心」にかられてそうするのだろうと言っている。『サイコ』や『悪魔のいけにえ』、『羊たちの沈黙』のモデルともなったエド・ゲインのような真に猟奇的な犯罪者は稀である。

 凶悪な犯罪が起こると、その度に、テレビに心理学者が登場し、犯人の「心の闇」、すなわち人格の偏りを分析して、学校や家庭の問題点を指摘して犯罪の原因を解説してくれる。

 しかし、大部分の犯罪は普通の精神を持った人が犯すものだ。経済状況が悪化すると、犯罪が増えるということからもうなずけるだろう。各種の統計は、日本の犯罪の主役を窃盗犯だと告げている。行為者の内的過程をセンセーショナルに伝えたところで、本質的な議論につながらない。細江達郎岩手県立大学教授によると、犯行・非行の生起は、実際には、行為者・被害者・法裁定者との動的関係で展開する社会心理学的現象である。犯罪研究も犯非行の態度形成場面や犯罪発生場面、裁定場面、矯正場面に亘って広範囲に研究される必要がある。ジャーナリズムも、エピソードの報道に傾斜せず、そうした視点を今以上に重視するべきである。

 凶悪犯罪は短絡的な犯罪であり、社会性の乏しさが現われる。凶悪犯罪の増加という一般的な体感は犯罪の短絡さ=幼稚さから生じていると考えるべきだろう。

 凶悪な犯罪の対極にあるのが巧妙な犯罪だと言える。職業的犯罪者集団が起こす犯罪は、概して、巧妙である。それは経済的利益を主な目的としていないから、ある種の社会性に基づいている。振り込め詐欺はその好例だろう。リスクとリターンを天秤にかけ、社会の動向を熟知し、法や社会的インフラ、心理学などに通じ、集団で犯罪のノウハウを分担・共有・伝承されている。手口が明らかになると、その知恵や技能をもっとまっとうな方向で生かしたらよかったのにと思うことさえある。

 社会世がなければ、職業的に犯罪は行えない。挨拶もできないようでは務まらない。しかし、犯罪で食っていける未成年の犯罪グループはいない。それには社会性が不可欠だからだ。

 社会性が要求されるわけだから、職業的犯罪者の間で格差が生まれ、広がる。ヒエラルキーの上層部はいい思いをするが、大部分は、結果的に、食い物にされるだけだ。

 未成年と成人の犯罪比率はだいたい8対1である。圧倒的に未成年による犯罪が多い。しかし、日本の治安はそうした犯罪者を社会から隔絶して維持されてきたのではない。刑事司法にも限界がある。警察官や刑務官、保護監察官、家裁調査官、保護司などが彼らを社会の中で支援し、社会性を育み、再犯させないようにしてきている。社会から隔絶された時期が長くなれば、社会復帰が難しくなり、再犯率が高まって、治安の悪化が懸念されるからだ。犯罪を考える際に、発生件数だけではなく、政策が適切であるかどうかを判断するためには、再犯率を考慮する必要がある。欧米では厳罰化が進んでいるが、犯罪が軽減してはいない。おまけに、再犯率も必ずしも低くはない。人道的な見地からではなく、経済的利益を目的とした合理性に基づく犯罪はともかく、社会の治安の安定には厳罰化は決して望ましい方策ではない。慎重に吟味しないと、厳罰化が犯罪の減少ではなく、増加を招きかねないという疑念もぬぐいきれない。

 けれども、今回の改定は合理的な治安の維持という根拠に基づいているとは言えない。少年院送致の年齢を現在の「14歳以上」から「おおむね12歳以上」に引き下げる修正案は、与党側が18日に国会に提出し、わずか3時間の審議の後、衆議院法務委員会で採決されている。しかも、法案審議の過程では、小学生の少年院送致が起きないために、「おおむね12歳」との文言にしたのだが、安倍晋三内閣総理大臣、4月18日夜、「被害者の方々の気持ちも踏まえれば、これはやむを得ないこと」と述べ、小学生が少年院に送られることもあり得る考えを示している。安倍首相のこの発言は、この改定が犯罪の抑止ではなく、被害者感情に配慮したものであることを告げている。

 犯罪には加害者と被害者がいる。被害者遺族の感情を無視することはできない。彼らにとって被った犯罪は、社会的には相対的・一般的なものの一つであったとしても、絶対的で、それ固有なものである。あまりに気の毒で、何と言っていいのかわからないほど言葉が出てこないことさえある。

 しかし、それと犯罪の抑制をごちゃ混ぜにして法を改定すべきではない。被害者や遺族への経済的支援・心理的ケア、真相解明に積極的だったとは言えない。また、自殺と同じように、犯罪に対しても政府のそうした対応はまだまだ冷淡である。社会性のある姿勢と思えない。今度の議論はほんのわずかな時間しか経ていない。極めて短絡的である。稚拙な犯罪同様、社会性の乏しさを感じずにはいられない。小学生を少年院に送致する可能性を口にする安倍首相の社会性は言うに及ばない。

 世論は、確かに、対処療法的な防犯家メラの設置や厳罰化で安全だと納得したがる。犯罪は政治の失敗を表象している。社会性の育成をおろそかにさせてきた結果である。コミュニケーション能力の向上が本質的に治安の維持につながる。それには多様で異質な人と出会い、交流することが欠かせない。社会の変化に伴い、必要とされるコミュニケーション能力は高くなっている。けれども、今の政策は逆方向に向かっている。

 にもかかわらず、政治家自身が異質で多様な人とのコミュニケーションを拒み、強引に次々と独善的な法案を決めている。おまけに、その主旨は政府や政治家が強制すれば、課題が解決するという短絡的な発想に立脚している。政治家の「稚拙化」は非常に深刻であり、それが最も憂慮すべき問題にほかならない。
〈了〉
参照文献
河合幹雄、『安全神話崩壊のパラドックス――治安の法社会学』、岩波書店、2004年
支倉逸人、『検死秘録』光文社、2002年
細江達郎、『図解雑学 犯罪心理学』、ナツメ社、2001年
六本佳平、『市民が向き合う法の世界』、放送大学教育振興会、2004年

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