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三文批評、あるいはベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』(1)(2006)

三文批評、あるいはベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』
Saven Satow
Feb. 26, 2006
 
「『君は成功した。勝者だ』と言われるが、僕は常に負け犬の気分だ。薬を買う金がないだけで人々が死んでいく今の世界で、誰が勝者になれるというのだろう」。
ボノ
「私どもはこんな代物が何の値打ちもないことをよく承知しております(Nos haec novimus esse nihil)」。
ジョン・ゲイ
 
序幕 人間の置かれた状況のたよりなさについて
 
 ユルゲン・ハーバーマスは、『公共性の構造転換』の中で、19世紀のヨーロッパにおいて、劇場にこそ公共性があり、民主主義があったと指摘している。彼にとって、公共性はコミュニケーションに基づいている。劇場で演劇や音楽を鑑賞する際、観客はそれに対し、喝采や非難を表明するが、そうした「観衆」の中に公開の場における自由な討論=コミュニケーションが確立していたのであって、それが近代民主主義である。劇場の民主主義は政府から独立して、政府を監視・批判する。
 
 けれども、1920年代から始まる大衆社会の誕生と共に、劇場からコミュニケーションが失われ、この公共性は消えていったとハーバーマスは嘆いている。公共性がコミュニケーションだとすれば、それの欠如した行為は公共性とは言えない。
 
 喝采と非難が渦巻いた一つの頂点が、1913529日、パリのシャンゼリゼ劇場におけるイゴール・フェドロヴィチ・ストラヴィンスキーのバレー組曲『春の祭典-異教徒ロシアの音楽』の初演である。セルゲイ・パブロヴィチ・ディアギレフのバレエ・リュスの公演として行われ、振付はヴァーツラフ・フォミチ・ニジンスキー、オーケストラの指揮はピエール・モントゥーである。そのとき、サクラをしこんでいたせいもあって、観客は集団ヒステリー状態と化している。
 
 劇場はまるで地震で揺れているみたいだった。観客が罵り、怒号し、口笛を吹くので、音楽はまったく聞こえなかった。ひっぱたく音や、殴り合う音まで聞こえた。()ある婦人は隣のボックス席の男の顔をひっぱたき、ある二人の紳士は互いに決闘を申し込んだ。
(ギョーム・アポリネール)
 
 『春の祭典』は、翌日の新聞で、「春の虐殺」とまで酷評されている。
 
 しかし、それは今や過去の光景である。大衆の時代の劇場には、かつての「観衆」はいない。客は舞台から一方的且つ無批判的にカタルシスを感じている。役者も演劇とはそんなものと疑いもしない。
 
 この変化を背景に、劇場型民主主義と言えば、メディアを通じて、メッセージ以上に、イメージに訴える軽薄な政治を指すようになっている。それは、センセーショナリズムを用いて、有権者にカタルシスを味合わせ、為政者は思うがまま権力を行使できる全体主義である。
 
 こうした劇場におけるカタルシスの支配に危機感を覚え、「異化効果(Verfremdungseffekt)」を提唱した一人の劇作家がいる。
 
 あれが、三文のベルトだよ!
 
1幕 人間が日に日に非情になっていくので、それに対処するために文学者B・ブレヒトが書いた作品では、この世で極めつきの惨めな者たちが、日ごとに頑なになっていく人間のハートにさえ訴えかけるような扮装をあてがってもらっていた
 
アンドレア (大声で)英雄を持たぬ国は不幸だ!
()
ガリレイ ちがうぞ。英雄を必要とする国が不幸なのだ。
(ブレヒト『ガリレイの生涯』)
 
 ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht)ことオイゲン・ベルトルト・フリードリヒ・ブレヒト( Eugen Berthold Friedrich Brecht)は、サミュエル・ベケットやアントナン・アルトーと並んで、20世紀最大の演劇の革命家である。ピーター・ブルックは「現代の最も有力で最も影響するところが大きくて最もラディカルである演劇人」と讃えている。
 
 ブレヒトはアリストテレス以来のカタルシス説を厳しく批判する。彼にとって、ナチズムはカタルシスの近代の到達点だからである。ブレヒトは、『男は男だ』で、平凡な男がカタルシスに満ちた集団の中で戦闘マシーンに変容していく過程を描いている。大衆を扇動するナチズムが支配的になっていく時代状況下、彼は、マルクス主義を参照し、観客が俳優や物語に感情移入するのを避け、劇の対象化を通して批判的に認識することを要求する手法を編み出していく。
 
 そのブレヒトの名を一躍有名にしたのが三幕の音楽劇『三文オペラ(Die Dreigroschenoper: The Threepenny Opera)』である。ブレヒトの作品の中で、作者自身を唖然とさせるほど、最も商業的に成功した作品であるが、後に知られる「異化効果」や「叙事的演劇」、「教育劇」、「社会的動作」など彼独自のタームはこの発表段階ではまだ考案されていない。けれども、それらは将来的な課題として潜在的に提起され、大衆の登場により変容していく劇場空間に対する大胆不敵な挑戦があり、後年のブレヒト演劇につながる新しさがそこには大いに見出せる。それは大衆社会におけるコミュニケーション=公共性の模索である。
 
 ブレヒトは、1928年、ベルリンのシッフバウアーダム劇場の新座主兼プロデューサーのヨーゼフ・アウフリヒトから杮落とし用に作品を依頼される。金が欲しかった彼は、実際には、ほとんど用意していない状態にもかかわらず、『乞食オペラ』の改作を執筆中だとプロデューサーをうまく丸めこむ。たまたま、前年に秘書のエリーザベト・ハウプトマンがロンドンでジョン・ゲイの『乞食オペラ』(1728)のリバイバル上演を観劇し、途中までドイツ語に翻訳していたのを思い出し、それを構想中のオペラとしてオーナーに見せたと推測されている。
 
 ブレヒトは、場面設定を19世紀末のヴィクトリア朝のイギリスに移し、彼女とそれをモチーフにした作品を大急ぎで書き上げる。失敗した自作のセリフを使い回したり、気に食わなかったゲイの歌詞をすべてボツとしたり、フランソワ・ヴィヨンやラドヤード・キプリングの詩を引用したりなどして何とか体裁を整えている。
 
 さらに、無調音楽の作曲家クルト・ヴァイルを誘い、音楽をつけてもらっている。社会諷刺の演劇に興味があったヴァイルは、大道演歌の節回しに、幅広い音楽の知識を活用し、古典的なオペラからタンゴ、ジャズのパロディを作曲する。
 
 リハーサルに入っても、役が変わるわ、台本の変更はあるわ、役者が腹を立てるわ、演出家のエーリヒ・エンゲルは降板するわと難題山積で、関係者に気の休まる暇もない。彼らは精も根も尽き果てた状態でようやく初演にこぎつけている。ほとんどぶっつけ本番という有様で、これがヒットするなどと想像したものは誰一人としていない。
 
 このやっつけ仕事が1928831日に初演されると、辛辣な皮肉たっぷりでありながらも、魅惑溢れるエンターテインメント性により、ワイマール共和国の観客を魅了する。それは世界恐慌とナチスが台頭する前夜の出来事であることは寓意的である。谷川道子の『大衆の心をとらえた「新しさ」』によると、批評家は絶賛し、「マック・ザ・ナイフ」を筆頭に、劇中歌がレコード化されて、ラジオから流れ、街で口ずさまれている。一年のロングランを記録しただけでなく、30年までに120を超す劇場で4,000回以上も上演される。その後、チューリヒやウィーン、モスクワ、ニューヨーク、東京、パリでも公演され、三一年、GW・パプスト監督により最初の映画化が試みられている。
 
 『三文オペラ』の影響は、現在に至るまで、広範囲に及んでいる。1932年、武田麟太郎郎が、1959年には、開高健が『日本三文オペラ』をそれぞれ執筆している。また、「マック・ザ・ナイフ」は、ベトナム戦争時の国防長官ロバート・マクナマラのニックネームとなる。
 
 Neither conscience nor sanity itself suggests that the United States is, should or could be the global gendarme.
(Robert S. McNamara)
 
 不協和音を多用するザ・ドアーズの曲には明らかにブレヒト=ヴァイルからのインスピレーションが見られる。中でも、『アラバマ・ソング』は聖書のパロディ劇『マハゴニー市の興亡』の劇中歌をモチーフにしている。
 
 シッフバウアーダム劇場は、1954年、ブレヒト作品の拠点として、「ベルリーナー・アンサンブル劇場」と改名している。
 
 「まず食べていけること。モラルはその後」と書いたということだけで私は文学史に残るだろう。
(ブレヒト)
 
 『三文オペラ』の筋は次の通りである。
 
 ロンドンの暗黒街ソーホーの盗賊団長の「匕首マック(マック・ザ・ナイフ)」ことメッキース(マクヒース)は残酷な悪事で恐れられている。本人は、表向きには、子分からの上納金で優雅に暮らし、金が貯まったら非合法でヤバイ強盗稼業から足を洗い、合法的に搾取できる銀行業に鞍替えするつもりでいる。おまけに、マックは警視総監タイガー・ブラウンと植民地軍時代の戦友で、お互いに助け合っている。
 
 また、乞食の王ピーチャムも、マック同様、子分のショバ代で食っている男だが、マックが彼の娘ポリーを攫って、貴族の馬小屋にしけこみ、結婚式を挙げると、激怒して彼を警察に訴える。さすがのブラウンも今度ばかりはマックを庇いきれず、逃走を勧める。
 
 マックはポリーに子分の面倒を任せて身を隠すが、木曜の夜に売春宿を訪れる習慣をやめられず、結局、昔自分がヒモであった娼婦のジェニーにチクられてパクられる。けれども、彼はブラウンの娘ルーシーをたらしこみ、その手引きでまんまと脱獄する。ブラウンは安堵するが、乞食の親玉ピーチャムに、マックを再逮捕しなければ、間近に迫った女王の戴冠式を乞食の大デモで台なしにすると脅す。
 
 仕方なく、ブラウンはマックを逮捕し、戴冠式の日の早朝に処刑すると決める。しかし、マックが絞首台に立ったとき、女王の使者が馬で登場し、彼を恩赦し、貴族にすると告げる。めでたし、めでたし。
 
 『三文オペラ』は内容として市民的発想を扱っているが、発想を描写することだけではなく、発想を描写する手法によっても市民的発想を扱っているのだ。このオペラは、観客が劇場でどういう人生を見たいと望んでいるかという問題についての一種のレポートである。だが、観客は同時に見たくないこともいくらかは見せられることになるから、つまり自分の見たいものが演じられるだけでなく、自分が見たいものに対する批判まで (自分が主体としてではなく容体として)見せられることになるから、原理上は劇場に新しい機能を与えることができるわけだ。しかし、劇場自体は自己の機能転換ということには激しく抵抗するものだから、観客のほうが、ただ劇場で上演されるという目的を追うだけでなく、劇場を変革するという目的をも追求しているようなドラマを、自ら劇場に不信の念を抱いて読んでみるのは有益なことである。今日では劇文学よりも劇場のほうが絶対に強い。この演劇機構の優位とは、生産手段の似伎ということに他ならない。演劇機構は自分が他の目的に機能転換させられないように抵抗する。その場合には、上演することになったドラマを、それが機構の中での異物のままでいないように作り替えてしまうという方法で抵抗する。ただし、ドラマが異物にならず処理できる部分はそのままにしておく。新しい劇作を正しく演ずるという必然性──これは劇作にとってよりも劇場にとってのほうが重要なのだが──は、劇場が何でもかんでも上前できてしまうという事実によって著しく弱められてしまう。劇場は一切のものを「劇場に取り込んで」しまうのだ。もちろん、劇場のこの優位性が経済的な根拠から来るのは自明のことである。
(ブレヒト『「三文オペラ」へのブレヒトの覚書』)
 
 泥棒に人殺し、乞食、娼婦といった裏の世界と警察などの表の世界がつながっている資本主義社会を諷刺している。登場人物は、そろいもそろって、ろくでなしで、観客が共感を覚えることはない。マックと結婚するポリーにしたところで、打算高く、旦那がトンずらこくと、代わりに盗賊団の姉御になっている。
 
 彼らは金と暴力しか信じられることができず、平気で人を裏切る。しかし、これはアーノルド・ロススタインやアル・カポネの生きる世界とさして違いはない。「一人、二人を殺せば、人殺しで、たくさん殺せば、英雄だ」や「進行強盗など、銀行設立に比べれば、子供騙しの仕事にすぎない」のセリフが示している通り、ブルジョアの手口の方が裏の住人より合法的な分だけ質が悪い。
 
 また、デウス・エクス・マキーナ(deus ex machina)の登場の如く、まったく理由のない強引なハッピー・エンドは、御都合主義的な劇やオペラの結末のパロディである。と、このように『三文オペラ』は一般的には理解されている。
 
 ピーチャム
 この世は貧しく、人間は悪
 残念だがその通り!
 三人全員
 ほんとうに残念だぜ(残念だわ)
 本当にいやだぜ(いやだわ)
 だからだめなのさ(だめなのよ)
 どうしようもないぜ(ないわ)。
 

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