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Lost Samurai─新渡戸稲造の『武士道』(4)(1993)

5 『武士道』と教育勅語
 『武士道』を読む限り、苛立ちを覚えるほど、新渡戸はこうした東アジア文化圏に関する知識をほとんど持っていなかったと推察できる。中華文化圏の中の日本という観点が新渡戸にまったくないのには、当時の歴史的・社会的背景に起因している。

 欧米人の中国人に対する感情は、この時期、よくない。19世紀、ゴールド・ラッシュなどによって中国人がアメリカに渡り、合衆国各地にチャイナタウンを建設している。彼らは「上海さん(Shanghai)」と呼ばれ、ドラッグにかかわっているという偏見に基づいて差別されている。1880年代には、パックス・タタリカのモンゴル人に譬えられ、カリフォルニアで、「黄禍論(Yellow Peril)」が唱えられ始めている。

 しかし、アメリカを代表する文化のジャズの誕生には中国人も欠かせない。ニューオーリンズで、ヨーロッパ文化とアフリカ文化、ラテン・アメリカ文化だけでなく、中国人が持ちこんだ東アジア文化が融合して、ジャズが生まれている。付け加えるならば、2世紀に入ると、中国人だけでなく、急増する日本人移民も差別されるようになっている。もっとも、今の日本にも同様の偏見を持って居る人が少なくない。「中国人の不法滞在者が起こす犯罪があまりに多い。中国の政府がどう認識しているか知らないが、水爆を作っている国を援助するくらいなら、その分を東京の治安、中国人犯罪対策に回した方がよほどましだ」(石原慎太郎)。

 新渡戸は、『武士道』において、執筆時の状況を次のように言っている。

 日本の変貌は全世界周知の事実である。かかる大規模の事業にはおのずから各種の動力が入りこんだが、しかしもしその主たるものを挙げんとすれば、何人も武士道を挙ぐるに躊躇しないであろう。全国を外国貿易に解放した時、生活の各方面に最新の改良を輸入したる時、また西洋の政治および科学を学び始めた時において、吾人の指導的原動力は物質資源の開発や富の増加ではなかった。いわんや西洋の習慣の盲目的なる模倣ではなかった。

 日本の名が本格的に世界に知られるようになったのは日清戦争の勝利によってであり、それをきっかけにして、欧米から主権国家として扱われるようになる。半植民知的な不平等条約(1858年の安政五ヵ国条約)が完全に改正されるのは──領事裁判権は1894年に改正されていたけれども、関税自主権の問題が未解決──、『武士道』が公表されてから12年後の1911年(明治44年)である。新渡戸は武士道を「日本の変貌」の「精神的原動力」としているが、「動力」があったとしても、それが働く構造がなければ、力は力として機能しない。武士道か明治のこの時期に発見されるのは、必然的な構造がある。

 1889年(明治22年)に憲法が公布され、翌年には教育勅語が発布される。学校は近代化のイデオロギーを布教する教会であり、学校における道徳教育は最大の争点として今日に至るまで続いているのだが、新渡戸はまったく触れていない。1879年頃、近代化を進める下級武士と天皇と共にやってきた宮中派は教育問題をめぐって軋轢が顕在化し、お互いに発言力を確保しようと激しいイデオロギー闘争をしている。両者の妥協によって近代日本の諸制度が成立していく。

 その典型が1890年に下賜された「教育ニ関スル勅語」、いわゆる教育勅語である。政府内のさまざまな権力抗争の後、次第に、保守派が覇権を掌握し、自由民権運動を代表にする民権派はいきすぎた欧化政策によって、文化的混乱をもたらしていると宮中派と共に考えるようになっている。教育勅語が明治維新のイデオロギー、それも立憲制の原則に完全に反していることを起草者である法制局長官の井上毅も承知していたけれども、もともと欧化派に属していた井上も首相の山県有朋に説得され、自ら執筆をかってででいる。

 『官報』に教育勅語が掲載されたが、その際、文部省訓令第八号の付帯資料として2ページ下段から3ページ上段にかけて収められている。重要法案は『官報』の巻頭に載せるべきであるけれども、「政治上の詔勅ではなく君主の社会的著作として性格を与えたため、当然の措置であった」(佐藤秀夫『教育の歴史』)。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ 克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習イ以テ知能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ尊ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
(『教育ニ関スル勅語』)

 教育勅語はこのように定義を欠く曖昧な儒教道徳と通俗道徳、皇国史観が混在しているだけでなく、3ヵ月程度で仕上げたやっつけ仕事だったため、文法上のミスまである。「一旦緩急アレハ」と記述されているが、この場合、已然形ではなく、「一旦緩急アラハ」と未然形でなければならない。「教育勅語には非常に悪いところもあったし、とてもいいところもあったはずで、全部だめだったというのはよくない」(森喜郎)。

 「総じて、日本社会の教育理念の根源を『良心』とか『神』とかに求めるのではなく、歴史的存在であると同時に現在の支配構造の要となっている天皇制に求めているところに、この勅語の基本的特徴があったといえる」(『教育の歴史』)。教育勅語は現体制の正当化を理論的な根拠に基づいて訴えるのではなく、まがまがしい神話的な言説を無根拠に並べ立てている。「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく、その思いで私たちが活動して三〇年になった。(略)われわれ国会議員の会も神社本庁のご指導をいただきながら、ほんとうに人間社会に何が一番大事なのかという原点をしっかり皆さんに把握していただく、そうした政治活動をしていかなければならない」(森喜郎)。

 教育勅語は新たなる価値を育むためではなく、保守が目的になっている。近代的な法治国家建設を目指した明治維新に反した徳治主義的な教育勅語が道徳の基礎づけを行ってしまう。このフェイクの近代国家は1894年(明治27年)に日清戦争で勝利してしまう。維新以前の日本は大陸からの影響なしには考えられないが、日清戦争の勝利はもはや日本は中国に学ぶものなどないという意識を多くの日本人に与えている。『武士道』はこうした時代の雰囲気で生まれ、教育勅語から決して遠くない「基本的特徴」を持っている。「東京では、不法入国した三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。大きな騒擾(そうじょう)事件すら想定される。警察の力には限りがあるので、自衛隊も、治安の維持も目的として遂行してもらいたい」(石原慎太郎)。

6 武士とは何か
 新渡戸は、『武士道』において、武士道の起源について次のように分析しているが、そこには大陸からの影響がまったく記されていない。

 武士道は上述のごとく道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるもの、もしくは教えられたるものである。それは成文法ではない。精々、口伝により、もしくは数人の有名なる武士もしくは学者の筆によって伝えられたる僅かの格言があるに過ぎない。むしろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法たることが多い。不言不文であるだけ、実行によっていっそう力強き効力を認められているのである。それは、いかに有能なりといえども一人の人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名なりといえども一人の人物の生涯に基礎するものではなく、数十年数百年にわたる武士の生活の有機的発達である。道徳史上における武士道の地位は、おそらく政治史上におけるイギリス憲法の地位と同じであろう。しかも武士道には、大憲章もしくは人身逮捕令に比較すべきものさえないのである。十七世紀初めにおいて武家諸法度が制定せられたことは事実である。しかし武家(諸)法度十三ヵ条は概ね婚姻、居城、徒党等に関するものであって、教訓的規則はほんの僅かだけ触れられているに過ぎない。それ故に我々は明確なる時と場所とを指して、「ここに泉の源がある」と言うことができない。ただそれは封建時代において自覚せられたものであるから、時に関する限りその起源は封建制と同一であると見てよかろう。しかしながら封建制そのものが多くの糸によって織り成されているのであり、武士道もその錯綜せる性質を享けている。イギリスにおいて封建制の政治的諸制度はノルマン征服の時代に発していると言われるが、日本においてもその興起は十二世紀末、源頼朝の制覇と時代を同じくするものと言いうるであろう。しかしながらイギリスにおいて封建制の社会的諸要素は遠く制服者ウィリアム以前の時代に遡るがごとく、日本における封建制の萌芽もまた上述の時代より遥か以前から存在していたのである。

 新渡戸が「封建制そのものが多くの糸によって織り成されている」と言っているように、武士による支配は鎌倉幕府から始まるが、それは必ずしも線的ではない。「侍」は「伺候する」を意味する「さぶらひ」に由来し、主君の側に仕える近侍であり、必ずしも、武士を指すわけではない。

 武士は平安時代に生まれた朝廷ならびに国衙の抱える民兵や非中央権力的な武装集団のことである。体制側の軍人は「武官」と呼ばれている。芥川龍之介の『いもがゆ』で描かれた藤原利仁のような六位以下の下級技能官人層が本来の侍である。

 ちなみに、「浪人」は主君を離れ、封禄を失った武士を指す。最初は、落ちぶれて困窮したという意味の「牢籠」から「牢人」の字が用いられたが、後に、「浪々」、すなわちさすらい歩くから「浪人」へと変わっている。

 武士という単語は『続日本紀』(797)に登場するが、ここでは社会的な身分呼称ではなく、職能として用いられている。11世紀後半以降に一般化する武士は、馬に乗れ、矢を射れる武芸保持者の呼称に加え、その地域での領主の意味が含まれるようになり、特定の社会的身分をめぐる集団の呼称へと変化する。武士の出現が中世という時代の形成には不可欠であるが、武士誕生の原因は依然として解明されていない。ただ、それには東北地方の動向が決定的な影響を与えていたと見られている。豊かな東北地方の特産物をめぐる武力衝突が武士を誕生させたというわけだ。

 武士は貴族と姿勢を異にしている。死の運命が到来するとしたら、受動的に待つのではなく、能動的に華々しく散ることを選ぶ。『愚簡抄』は武士という新たな人間像に驚きを持って語っている。東大寺再建の行事の折、参列した源頼朝の家来が風雨に晒されながら、身じろぎ一つせず、主君を待ち続けている。貴族たちにこのような光景などあり得ない。

 鎌倉後期から南北朝期、反幕府あるいは反荘園領主的な行動をとった武装集団である「悪党」が出現している。彼らには在地領主、有力農民、狩猟、漁労、商工業、交通、金融などさまざまな階層が含まれる。中には、柿色の帷子(かたびら)をつけ、笠や面を被り、飛礫(つぶて)や走木(はしりぎ)といった武器を使い、賭博や盗みを働き奇抜な異類異形の姿をする者もいる。鎌倉幕府は、山賊や海賊と並んで、取り締まったが、彼らは、徐々に、下級荘官や代官となって荘園を請け負い、富を蓄積し、後期には、無視できない勢力となっていく。後醍醐天皇は楠木正成ら諸国の悪党の力に注目し、彼らを組織して討幕運動に利用する。幕府は、その結果、崩壊し、悪党は、室町幕府が南北朝期を経て安定してくる中で、在地の有力武士である国衆層へと発展する。守護の被官となったり、逆に守護を排斥する国人一揆の中核ともなったりするだけでなく、商工業者や金融業者として都市に定着し始めてもいる。武士には、悪党出身者も少なくない。

 室町幕府は、首都を京都に置いたことからも、鎌倉・江戸幕府とはいささか性格が異なる。室町幕府の支配力は駿河以東には完全には及んでいない。その地域は鎌倉府が統治している。室町幕府の財政は、瀬戸内海を中心にした交易で得られる銭によって成り立っている。東に政治的中心を置いた鎌倉ならびに江戸幕府の財政は年貢米が主である。都市型の支配様式を持っていた室町では商業がリーディング産業であり、鎌倉=江戸では農業が基幹産業である。

 その室町時代には正反対とも思える二つの流行が見られる。南北朝期に流行った「婆沙羅」の風潮・時代精神を体現した大名が登場している。婆沙羅はサンスクリット語に由来し、もともとは金剛石(ダイヤモンド)を意味する。ダイヤモンドが石を砕くことから、音楽・舞楽でメインストリームを外れ、自由に目立つように演じることを指し、さらに、伝統・権威・常識・身分などを度外視した無遠慮な行動、贅沢、派手好みも含むようになる。南北朝期には一つの風潮となり、伝統的な価値観に囚われない奔放で派手な婆沙羅絵や婆沙羅扇がもてはやされている。特に、北朝方の守護の中に、婆沙羅を熱狂的に愛好する婆沙羅大名が多く出現する。近江の守護佐々木道誉、美濃守護の土岐頼遠、足利氏執事の高師直などが代表的な例である。

 他方、それとは逆にシンプル・ライフも提唱されている。応仁の乱の時代に生まれた四畳半という間取りは、1960年代の「四畳半フォーク」が示していた通り、それは貧乏くささの象徴だったのに対し、当時、最もファッショナブルである。応仁の乱が起きた混乱した時代であるため、鴨長明のような隠者は憧れの的であり、彼らは都の郊外の山の辺に草庵を建てて住んでいたが、その間取りが四畳半である。都の有力者たちも、彼らを真似て、自宅の敷地内に四畳半の草庵を建てている。四畳半は、今のログハウスやフローリングのように、クールである。

 応仁の乱は現代の内戦の典型的な特徴を示している。一五世紀中ば、室町幕府の守護大名に対する統制力が弱まり、各地で守護大名の勢力争いや大名家内部の家督争いなどが頻発する。応仁の乱はこうした背景の下で起きたのだが、直接的なきっかけは、山城守護職の要職にあった畠山家の家督争いである。1467年正月、畠山義就(よしなり)との家督争いに敗れた畠山政長は京都の上御霊社に拠点を構え、義就に軍事蜂起する。義就には山名宗全(持豊)、政長には細川勝元と幕府の主導権を争う二大守護大名が結託したため、内戦が勃発する。細川側は幕府政庁(花の御所)を支配下に置き、山名側はその西方の持豊の屋敷を本陣とした点から、前者が東軍、後者が西軍と呼ばれるようになる。

 1467年五月になると、両派が諸国の軍勢を京都に集め、諸大名が寺社に布陣して全面戦争に突入する。当初、東軍が優位に立ったものの、8月に大内政弘が大軍を率いて上洛すると戦況は変わり、10月、相国寺での激戦で、西軍が勝利する。京都での大規模な戦闘は、この相国寺合戦を頂点として1、2年で終わったが、以後も両軍は京都で断続的にテロもしくは市街戦を繰り広げ、さらに、全国各地でも両派の戦闘が続く。これは、別に、サダム・フセイン政権崩壊後のイラクの情勢を説明しているわけではないとしても、その経験を生かそうとしないとしたら、ただの無能にすぎない。

 両軍の構成は流動的だったが、主な軍勢は次の通りである。東軍に、将軍足利義政を筆頭に、斯波義敏・畠山政長・京極持清・赤松政則・富樫政親、他方、西軍には、義政の弟足利義視を始め、斯波義(よし)廉(かど)・畠山義就・六角高頼・一色義直・土岐成頼(しげより)・大内政弘らが加わっている。東軍は20ヵ国の兵20万もしくは16万、他方、西軍は20ヵ国の兵11万6000あるいは9万を集めたと『応仁記』(作者・成立年共に不明)は記している。1473年、細川勝元と山名宗全が相次いで没すると停戦への動きが始まる。年末には義政の息子の義尚が第九代将軍に就任したが、東軍では細川氏の結束が固く、一方の西軍では大内政弘が指揮権を掌握したため、依然として両軍は山城一帯で臨戦態勢を崩していない。

 ところが、77年になって、大内政弘が将軍家に懐柔されて兵を引き揚げ、美濃守護の土岐成頼が足利義視父子を伴って撤退すると、中央の戦闘は終結する。以後、戦いの舞台は地方へと移る。この内戦により、幕府の権威は有力な地方政権程度にまで失墜してしまう。将軍義政は戦争による混乱にもかかわらず、政治にあまり関心を示さず、東山に山荘を造営して、芸術の世界に耽溺し、その母親の日野富子も信じられるのは金だけとばかりに蓄財に走ったため、人々から非難される。足軽や盗賊が寺院や屋敷を焼き払い、宝物を略奪してまわったこの時代の京都は、1980年代のベイルートや90年代のサラエヴォのように、応仁の乱という内戦による市街戦を経験した首都であり、京都から逃げ出した難民や亡命者が日本各地に小京都を建設している。

 現在、日本の伝統文化と見られているものの中に、能や狂言、生け花、茶の湯など室町時代に起源を持っているものが少なくない。それは公家文化と武家文化、町人文化が融合している。京都はまさにそういった流行の最先端であり、小京都は破壊される前のファッショナブルな京都を模して各地の有力者が建設し、亡命者が、そこに洗練さを加え、今に至るまで、独自の発展を遂げていく。室町時代は、このように非常に振幅の大きい時代であり、武士はこうした混乱と繁栄の中で力を振るっていく。「汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ルナミダハ」(飯尾常房)。

 この時代を省みるとき、倭寇の誕生も忘れてはならない。倭寇は朝鮮半島や中国大陸沿岸を襲い、人や食糧などを略奪している。「倭寇」は「日本からの侵略者」の意味があり、時代と地域によって実体は多種多様だが、南北朝期後半と戦国期の二つにピークがある。

 朝鮮半島の高麗の記録では、1350年に「倭寇の侵、ここに始まる」として、半島南部の各地に倭寇が襲来したため、高麗の軍隊が迎え撃ち、賊300人を殺害したとされている。以後、70から80年代にかけて、大規模な倭寇が頻発し、数千人規模で4、500隻の船団で襲うことも稀ではない。米穀や人、租(そ)粟(ぞく)を運ぶ漕船を狙った倭寇による被害は高麗の衰退の一因となっている。

 1392年、李氏朝鮮が成立すると、日本に倭寇禁圧を要請し、また、徹底的な武力討伐を行うと同時に、投降する倭寇には地位や住居を与える硬軟とり混ぜた対策を打ち出している。倭寇の活動地域は、それにより、中国沿岸へと移ったが、将軍足利義満の時代に始まった日明貿易(勘合貿易)が軌道に乗ると、急激に沈静化する。

 倭寇の構成員は、対馬・壱岐・五島列島や松浦地方の島々の海賊衆、漁民、商人などだったが、朝鮮人も多数加わっている。戦国期になって、日明貿易が途絶えると、中国大陸の南部沿岸や東南アジア沿岸で、倭寇の活動が再び活発化する。特に、1522年からの約40年間が最も激しい、九州全域から瀬戸内海沿岸出身の日本人の倭寇もいたが、この頃は、中国人が多く、東アジアへ進出してきたポルトガル人も参加している。

 これには背景がある。当時、経済活動が発達して貿易が活発になっていたにもかかわらず、明は海禁政策をとり、人々が海外と交易することを認めなかったために多数の密貿易者が生まれ、それらも明は「倭寇」と見なしている。倭寇の7割が中国系だったと考えられている。倭寇は多国籍企業である。

 中国浙江省にあった密貿易の拠点が明の軍隊によって壊滅してからは、彼らも北九州に拠点を移し、日本人倭寇と共に中国沿岸を襲撃するようになっている。この頃の海賊は、世界的に、安全性と効率のため、船よりも海沿いの町を襲うことが多い。ダグラス・フェアバンクスが映画『ダグラスの海賊(The Black Pirate)』(1926)で見せた驚異的な離れ業をできる海賊などいなかっただろう。1567年、明が海禁令を解除し、日本でも、1588年、全国統一を進める豊臣秀吉が海賊禁止令を制定したため、倭寇も沈静化していく。有力な倭寇の一つ松浦党は、それを受けて、大名となり、海賊行為から手を引いている。

 倭寇も商取引の一種であり、武士以上に彼らのほうが現代的であった点もある。蒙古襲来を経験した松浦党は、中央権力を頼らず、小領主が同盟を結び復讐を誓い合っている。当時の契諾状には、談合は多数意見を尊重し、判断は道理に従うなど民主的な内容が記されている。

 海賊の民主性は、実は、日本に限らない。カリブの海賊はイギリスの海軍よりも民主的である。17世紀のポート・ロイヤルの海賊たちの関係は、当時のイギリス海軍と比べて、はるかに自由で民主的である。封建制が残る軍艦の中では、賃金格差はひどく、体罰やいじめ、権威主義が横行していたが、海賊船上は、全員平等な多数決によって決定され、戦利品は山分けにされている。彼らは、確かに、人殺しであり、泥棒であるけれども、決定プロセスの点では、進歩的である。彼らの労働契約書の内容は今日の人権規約に酷似しているだけでなく、怪我等の労働災害も保障されており、労働者保障の先駆けである。

 海賊たちには旧態歴然たる軍隊が嫌で逃げ出した元水兵も多くいたし、ジョン・ラッカム船長の下にはアン・ボニーとメアリー・リードといった女性の海賊もいる。また、海賊になれば、奴隷も自由の身になれる。しかも、ヘンリー・モーガンという船長は海軍提督を上回る能力の持ち主だったと伝えられている。
 
Official: [reading a proclamation] Jack Sparrow , be it known that you have…
Jack : [standing on the gallows] Captain, Captain Jack Sparrow .
Official: …for your willful commission of crimes against the crown. Said crimes being numerous in quantity and sinister in nature, the most egregious of these to be cited herewith – piracy, smuggling…
Elizabeth : [standing with her father and her future husband] This is wrong.
Governor Swann : Commodore Norrington is bound by the law. As are we all.
Official: …impersonating an officer of the Spanish Royal Navy, impersonating a cleric of the Church of England…
Jack : [smiling] Ah, yes. [looks over at the executioner who glares at him]
Official: …sailing under false colors, arson, kidnapping, looting, poaching, brigandage, pilfering, depravity, depredation, and general lawlessness. And for these crimes you have been sentenced to be, on this day, hung by the neck until dead. May God have mercy on your soul.
Will : [walks through the crowd to the raised ground on which they stand] Governor Swann . Commodore. Elizabeth . I should have told you every day from the moment I met you. I love you. [walks away; the noose is put around Jack ’s neck]
Elizabeth : [notices Cotton’s parrot] I can’t breathe. [falls backward; the drums sound]
Governor Swann : Elizabeth . [he and the Commodore help her]
Will: Move! [throws sword as Jack falls through, the sword sticks in the wood and Jack has a foothold; he fights to the gallows and there cuts Jack free; they fight all the way up to a tower where they are cornered by Norrington’s men]
Norrington: [to Will ] I thought we might have to endure some manner of ill-conceived escape attempt but not from you.
Governor Swann : On our return to Port Royal , I granted you clemency. And this is how you thank me? By throwing in your lot with him? He’s a pirate!
Will : And a good man. [Jack points to himself proudly, mouths “That’s me.”] If all I have achieved here is that the hangman will earn two pairs of boots instead of one, so be it. At least my conscience will be clear.
Norrington: You forget your place, Turner.
Will : It’s right here…between you and Jack .
Elizabeth : [stands next to Will ] As is mine.
Governor Swann : Elizabeth ! Lower your weapons. For goodness’ sake put them down! [the weapons are lowered]
Norrington: So this is where your heart truly lies, then?
Elizabeth : It is.
Jack : [notices the parrot] Well! I’m actually feeling rather good about this. [to Governor Swann ] I think we've all arrived at a very special place, eh? Spiritually…Ecumenically…Grammatically? [to Norrington] I want you to know that I was rooting for you, mate. Know that. Elizabeth …it would never have worked between us, darling. I’m sorry. Will …nice hat. Friends! This is the day that you will always remember as the day that – [falls over battlement]
Gillette : Idiot. He has nowhere to go but back to the noose.
Sentry: Sail ho!
Gillette : What’s your plan of action? Sir?
Governor Swann : Perhaps on the rare occasion pursuing the right course demands an act of piracy, piracy itself can be the right course?
Norrington: Mr. Turner .
Will : [to Elizabeth ] I will accept the consequences of my actions.
Norrington: [unsheathes his sword] This is a beautiful sword. I would expect the man who made it to show the same care and devotion in every aspect of his life.
Will : Thank you.
Gillette : Commodore! What about Sparrow?
Norrington: Well, I think we can afford to give him one day’s head start. [the soldiers leave with Norrington]
Governor Swann : So, this is the path you’ve chosen, is it? After all…he is a blacksmith.
Elizabeth : No. [takes off Will ’s hat] He’s a pirate. [the Governor walks away; Elizabeth and Will kiss]
Jack : [is heaved onboard the Black Pearl ; to Gibbs ] I thought you were supposed to keep to the Code.
Gibbs : We figured they were more actual…guidelines. [helps Jack up]
Jack : [ Cotton hands him his hat] Thank you.
Anamaria: Captain Sparrow [puts his coat around his shoulders] …the Black Pearl is yours.
Jack : [walks over to the helm and looks around fondly] On deck, you scabrous dogs! Man the braces! Let down and haul to run free. Now...bring me that horizon. [hums and takes out his compass] And really bad eggs…drink up, me 'earties, yo ho.
(Gore Verbinski “Pirates of the Caribbean”)

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