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子規の写生文(2019)(2)

第2章 スケッチと写生文
 子規の写生文は美術の「写生」、すなわち「スケッチ」から着想を得ている。しかし、それは耳学問ではない。子規は近代美術の描き方を学習し、絵画を創作している。それは子規が美術のリテラシーを習得したことを意味する。リテラシーは識字能力のことである。この概念が言及される時、しばしば読むことだけで、書くことが見逃される。批判的読解がリテラシーに基づくものとするのは全くの誤解だ。書き方を知った上で、それと照らし合わせて批判的に読むことがリテラシーによる態度である。書き方の知識のないままいくら懐疑的に読んでも、それはリテラシーがあるとは言えない。

 マンガをいくら読んでも、描けるようになれない。マンガを描くためにはそのリテラシーの習得が不可欠である。言うまでもなく、リテラシーを学んだからと言って、面白いマンガが描けるわけではない。しかし、それがあることで、そのマンガが文法を踏まえているかが理解でき、妥当性・独自性・革新性を判断することが可能になる。リテラシーを知らないと、マンガを論じる際、その固有性が無視され、文学と変わらない議論がしばしば見受けられる。

 リテラシーはその領域固有の文法である。リテラシーを習得していないと、思いこみや思いつきにとらわれ、見当外れのことをしてしまいかねない。子規は文章には「山」、すなわちポイントが必要だと文学者に指導している。それにはリテラシーが不可欠である

 「写生文」は近代西洋美術のスケッチの文学への応用である。スケッチは大正を大づかみに描写することだ。その際、細部にとらわれず、形を捉え、明暗によって立体感を出す描き方のデッサンが用いられる。スケッチは創作の下絵として利用したり、全体の見通しを確かめたり、アイデアを試したりするなどの用途がある。スケッチやデッサンを完成作品とすることは一般的ではない。いずれも近代美術における基礎的な技法で、その教育に欠かせない。

 絵画は足し算によって対象を描く。白い画用紙やキャンバスに、鉛筆や筆で形や色を加えていく。スケッチやデッサンはその最もシンプルな描法である。それは、言わば、枝葉末節にとらわれず、目の前の樹木の全体像を立体的に手早く描き表わすことだ。

 絵画は具体的・個別的なものを描くが、抽象的・一般的なものを直接的に扱うことができない。描写するのは外面であって、暗示させることは可能でも、色も形もない内面をそうするのは無理である。また、絵画の時制は現在である。過去や未来の事物であっても、現在としてそれは表われる。

 猫の絵があるとしよう。そこに描かれているのは具体的・個別的な猫である。猫一般でも、その概念でもない。また、愛や罪といった色や形のない概念を直接的に取り扱うことは不可能である。そのためには、創作者と鑑賞者が共有する知識や経験に基づき、想像力によってそれをイメージさせるものを描くなどの工夫が用いられる。

 スケッチは対象を具体的・個別的なものとしてではなく、抽象的・一般的な形と色によって把握する訓練としても利用される。美術は、自分を含めた誰かに示すことを前提にした実用以上の形と色の組織化である。芸術家は身体を動かし、道具を使って作成する。スケッチはこの形と色の組織化を体得するためのトレーニングでもある。

 このスケッチの発想は学問研究においても基礎的な姿勢である。初心者には枝葉末節にとらわれず、体系の全体像を大づかみにすることが求められる。また、実際の事象を扱う研究でも、複雑であるからさまざまなことが気になるけれども、変数を効果的に推定して限定した分析が優れた考察となることも少なくない。本質とは何かという問題設定に置いてスケッチの発想は美術に限らず、汎用性が高い。

 とは言うものの、これを文章の書き方に移植するには難しさがある。言葉は絵と違い、抽象的・一般的なものを表わし、具体的・個別的なものを示すことが難しい。もちろん、固有名詞があるけれども、それは文脈を承知していて初めて理解できるものである。抽象的・一般的ではなく、具体的・個別的な描写が言語表現では課題になる。美術とは逆に、対象をできる限りシンプルに具体的・個別的に描くことが写生文には求められる。

 抽象的・一般的なものである言葉を具体的・個別的にするには、修飾によって限定することが必要になる。「犬」に「痩せた」を修飾したとしよう。すると、「犬」集合から非「痩せた」犬は省かれ、「痩せた」犬に制限される。しかし、修飾が多くなれば、素描の原則に反する。

 修飾の機能は文章を飾ることではない。それは限定である。修飾を使うことでその対象を含む集合を絞りこみ、個物に近づく。就職を用いずに事物をありのままに描くことが写生文であるなら、それは抽象的・一般的なものを提示するにすぎない。

 ここで陥りやすいのが比喩──正確に言うと、直喩と隠喩──の誘惑である。確かに、比喩を利用すれば対象をイメージしやすい。「ウナギのように痩せた犬」と言われれば、ほっそりとした犬が思い浮かぶ。けれども、これは別のものとの類似性に着目した置き換えである。「ウナギ」の抽象的・一般的なイメージに依存しており、素描から離れている。

 先に挙げた原則に基づいた修飾法の一つは、ある部分だけを描写して全体像をイメージさせることだろう。「痩せた」の代りに「あばら骨の浮いた」としよう。それは眼前の犬に関する病者である。しかも、修飾が少ないにもかかわらず、「痩せた」よりも具体性が増す。これは換喩や提喩の発想で、あくまで一例だ。

 スケッチの発想に基づいて「写生文」の理論を展開するなら、このようなものになるはずである。スケッチは細部にとらわれず、全体の色や形を捉えることだ。ところが、写生文は飾らずにありのままに書くことがモットーになっている。

 写生文の代表例とされる 寒川鼠骨の『新囚人 入獄(四)』(1900)の冒頭は、次のようにスケッチの発想が認められない。

余は一枚の紙片と共もに警官に送られて薄暗い所へ来た。両側が壁で、天井が石で、床がタヽキで、前の方も後の方も戸が閉つて居る。それに二人と並んで歩行く<わけには行かぬ程狭いので、小さい窓が所々に高く切ってあるけれども、其れは只空気を入れる為めと見えて殆んど光線は入らないと言つてもよからう。だから其暗さは恰度黄昏の時のやうで、人の顔は見えるけれど目口鼻は明かには見えない。おまけにヒヤ/\と気味の悪い空気が動いて居る。其構造は部屋とも言へず廊下ともつかぬ。世間では未だ曾て見た事のない構造で、殆んど名のつけやうもないが、強て名を付けたら先づ穴蔵とでも言ふのであらう。
此穴蔵の殆んど中ほどに、火鉢を置いて椅子に倚つた黒い物体が二ツ居つた。
「御土産が一ツ」
と言つて警官は紙片れと一緒に余を彼の物体に渡して行つた。物体の一ツは佩剣で立派な看守の姿だ。

 文が長ったらしく、枝葉末節が多い。また、未知のもののイメージを比喩に頼っている。子規は称賛したと伝えられるが、この文章はスケッチの発想から遠い。近代を迎え、作者と読者の理解の共通基盤として古典教養は十分ではない。その場にいない読者も作者と同じものを見ているような現実感が共感をもたらす。それが写実である。その際、あれこれ言葉を増やすと、気をとられて関心が肝心の対象に集中しない。だから、できる限り、シンプルに描写しなければならない。

 その子規自身は、『六たび歌よみに与ふる書』(1898)において、「写生」に関する認識を次のように述べている。

生の写実と申すは合理非合理事実非事実の謂にては無之候。油画師は必ず写生に依り候えどもそれで神や妖怪やあられもなき事を面白く画き申候。併し神や妖怪を画くにも勿論写生に依るものにて、只ゝ有りの儘を写生すると一部一部の写生を集めるとの相異に有之、生の写実も同様の事に候。是等は大誤解に候。 

 スケッチは色や形を大づかみにすることである。その技術を生かして架空の存在を描くことは発想と矛盾などない。さもなければ、特撮物の新怪獣選定の際に、デザイナーが候補のスケッチを見せるということもあり得なくなってしまう。

 ここの子規の「写生」は必ずしもスケッチ自身を意味していない。子規の理解は観察に置かれている。「有りの儘」に描くことは「合理」的・「事実」的に描写しなければならないことではない。だが、「合理」的・「事実」的に認識することが必要だと子規は説く。それは「有りの儘」が従来の価値観や先入観、イデオロギーにとらわれないことである。ただ、これは科学的姿勢であって、スケッチとしての「写生」とは必ずしも言えない。

 しかし、子規はスケッチを誤解しているわけではない。子規は、スケッチを通じて、それが基づく西洋近代の原理を見出している。「写生」として語っているのはスケッチよりもその根本にあるもののことである。

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