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現在進行形の和訳(2016)

現在進現在行形の和訳
Saven Satow
Jun. 06, 2016

London Bridge is falling down, 
 Falling down, Falling down. 
 London Bridge is falling down,
 My fair lady.    

 最近の手術ではBGMがかかっています。リラックスした方がうまく身体を操れますから、執刀医を始めとする医療スタッフのためでしょう。また、局所麻酔ですと、患者は覚醒していますから、恐怖心や緊張感を和らげる効果もあります。

 もっとも、かつて手術中に音楽が流れることなどありません。手塚治虫の医療マンガ『ブラック・ジャック』の第148話「音楽のある風景」がそれを伝えています。

 名医と世界的に知られるD国のチン・キ博士が来日して専門家の前で公開手術を執刀することになります。ブラック・ジャックもその機会を預かります。ところが、見学者はその手術の光景に驚きます。博士がビートルズの『レット・イット・ビー』をBGMにオペを始めたからです。BJも音楽の流れる中では自分なら集中できないとつぶやきます。

 D国では表現の自由が厳しく制限され、自国の音楽以外聴くことが許されていません。音楽愛好家の博士は手術中に外国作品を流すうことを思いつきます。そうしているうちに、オペにBGMがつきものになったというわけです。

 この作品は『週刊チャンピオン』1977年1月17日号に掲載されています。今からおよそ40年前です。この間に手術中の常識が転倒したというわけです。

 佐藤清文という批評家の手術中にもBGMがかかっています。この手術は、局所麻酔のみならず、患者自身が部位を動かさないようにしなければならないタイプです。医師から時々動かさないことが求められます。

 恐怖や緊張をほぐすため、始まりから終わりまでさまざまなインストルメンタルの曲がかかっています。その中には吉田拓郎の『結婚しようよ』も入っています。

 手術の終わる直前、『ロンドン橋』が流れます。患者は思わず苦笑し、術後、手術台で執刀医にため息交じりにこう言っています。「終わる直前に、”London Bridge is falling down”はないだろう?勘弁してくれよ」。

 ところで、この”London Bridge is falling down”は英語の進行形の特徴をよく表わしています。一般的に知られる日本語訳ではこれを「ロンドン橋が落ちる」や「ロンドン橋が落ちた」となっていますが、いずれも間違いです。現在進行形のニュアンスが消えているからです。

 通常、現在進行形の役には「~している」があてられます。”He is playing the piano”なた、「彼はピアノを弾いている」です。けれども、”London Bridge is falling down”が「ロンドン橋が落ちている」とはなりません。日本語の「~している」はある出来事が始った後の状態が継続している時に使います。ピアノの例文ですと、弾き始めて演奏の状態が続いているという意味合いがあります。

 ですから、「~している」は単純現在形の訳語にも用いられることがあります。”She loves you”の和訳は「彼女は君を愛している」です。「彼女は君を愛する」ではありません。愛し始めてその状態が継続しているかです。

 一方、橋が落ちる時間は短いものです。あっという間ですから、継続している状態とは言えません。「~している」の訳語を当てるのは不適切です。「落ちている」」では、落ちた後の状態が継続しているニュアンスになってしまいます。

 それなら、どういう和訳であれば、原文のニュアンスが伝えらるのかとなるでしょう。適当な訳は「ロンドン橋が落ちそうだ」です。

 英語の現在進行形は出来事の始まりから終わりまでを含みます。ただ、出来事には、始ってしばらくは小さな動きが続くものの、閾値に達すると、急速に変化するものがあります。橋の落下はその一例です。実際に落ちる前に、揺れるとか崩れるとかそれに至る動きがあるものです。これを日本語で表わそうとするなら、終わりを念頭に入れて、閾値の前に焦点を合わせることが求められます。

 もっとわかりやすい例で考えてみましょう。

 “He is dying”を「彼は死んでいる」と訳すのは誤りです。彼はまだ死んでいません。けれども、「彼は死んでいる最中だ」ということもありません。死は生命活動の停止です。生と死の間は非連続ですから、死の最中」とは意味がわかりません。また、終わるを念頭に入れなければ、死より生の方に関心が向きます。生きているけれども、死を迎えつつあるが例文のニュアンスです。適当な和訳は「彼は死にそうだ」です。

 もし現在進行形の体系的統一性として「~している」を使いたいのであれば、「~しかけている」になるでしょう。先の例文は「ロンドン橋が落ちかけている」や「彼は死にかけている」となります。

 このように、現在進行形の訳は「~している」だけではありません。「~しそうだ」や「~しかけている」の場合もあります。

 現在進行形は中学校で習います。けれども、英語と日本語の基礎尾的な文法の違いを理解した上で、その用法を説明できるかと尋ねられたら、答えに窮する人も少なくないでしょう。日本語母語話者にとって英は第二言語です。それは体で覚えるだけでは不十分で、頭で学ぶことが必須だということです。基礎的な文法を学習した方が英語を会得するには効果的です。英語ができないのは、わかっていないからでもあるのです。

 『ロンドン橋』を聴きながら、そんなことを思い、佐藤清文は手術台に横になっています。「あとどれくらい?」と聞くと、執刀医は「もうちょっと」と答えます。「あの歌詞は”The surgery is failing”ではない。大丈夫。もうすぐだ。もうすぐ!終わりそうだ」と心に言い聞かせ、その時を待っているのです。
〈了〉

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