「汚れた手」としての政治(7)(2022)
第7章 直観主義と功利主義
政治判断は根拠に基づく複数の選択肢からの決定である。ある選択をすれば、他を斥ぞけることになる。その際、犠牲が伴い、そこに責任が生じる。しかし、根拠は政治家個人が納得すれば十分というわけではない。多くの人々を説得できるものでなければならない。そのために、経験科学的分析に基づく予測を論拠として提示する必要がある。
そうした知見を根拠とするシナリオは、変数を変更して設定するため、複数用意される。条件が一つに固定されているのであれば、それしかあり得ないけれども、そのようなことは政治判断の対象ではない。複数のシナリオから一つを選ぶ動機は価値観であり、決定者にはその説明が求められる。
政教分離に伴い、近代では個々人に価値観の選択が委ねられている。ただ、そうした状況を踏まえながらも、近代倫理思想の思考の枠組みは大きく二つある。それが直観主義と功利主義である。
前近代は共同体主義の時代である。共同体が先にあり、そこに個人が属する。共同体で共有される規範に従う対価として権利が付与される。政治の目的はこの共同体の規範に基づく徳の実践である。現実の状態がそれを通じて規範が教える理想へと達する。この美徳の実践の卓越性を模範とするのが卓越主義であり、古代における主流の倫理思想である。
しかし、近代は政教分離を基本原理とする個人主義の時代である。価値観の選択が個人に委ねられているため、理想が人々の間で共有されていない。こうした状況の下、卓越主義に代わる倫理思想の二大潮流が直観主義と功利主義である。
直観主義は義務論とも呼ばれ、イマヌエル・カントが提唱した行動の動機を重視する倫理観である。道徳的実践は命令として理性に与えられるものを動機としていなければならない。それは「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法である。行為が道徳的であるには、その個人だけではなく、広く人類が納得するような普遍的理由に基づいていなければならない。動機が普遍的倫理を根拠にしていることにより、実践が道徳的と判断される。
政教分離に伴い、価値観の選択が個人に委ねられ、多様化している。けれども、近代の理念は社会の前提である。例を挙げると、自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成している。近代政治の目的は平和の実現である。他にもまだある。その内容の理解には違いがあるとしても、こうした理念を否定すれば、近代社会が成り立たない。理念や原理原則を共有しているからこそ近代が成立・持続できるから、それらは普遍的である。こういった共通認識を根拠にした実践なら、広く人々は受容できる。
このカントの直観主義を現代的に再検討したのがジョン・ロールズである。
彼は、『正義論』(A Theory of Justice)』(1971)において、「無知のヴェール」の思考実験によって定言命法の前提となる「原初状態」を仮定する。さまざまな価値観の人が同席して正義の原理について議論したとする。その際、自分の能力や思想、社会的立場など一切の特徴を認知できなくなる「無知のヴェール」を被っている。自身が何者であり、その社会においていかなる利得を得られるのか予想できないヴェールを剥がされた時に最悪な状況に置かれているとも限らない。その可能性を考慮して議論すれば、「マクシミン・ルール」に基づいて、最も公正な正義の原理が導かれるとロールズは主張する。
これを踏襲した上で、彼は次のような二つの原理、正確には三つの原理を提起する。
第一原理
各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な制度枠組みに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な枠組みといっても他の人びとの諸自由の同様に広範な制度枠組みと両立可能なものでなければならない。
第二原理
社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない
ーー(a) そうした不平等が各人の利益になると無理なく予期しうること、かつ
(b) 全員に開かれている地位や職務に付帯すること。
こうしたロールズの問題提起により、現代政治における最も重要な原理は「正義Jjustice)」である。それは国際政治の場面でも同様だ。
他方、功利主義はジェレミー・ベンサム を始祖とする思想で、結果を重視するため、帰結主義とも呼ばれる。その行為が道徳的であるかは結果によって判断される。ただし、それは個人的ではなく、社会的効用の増減が基準である。幸福計算に基づく「最大多数の最大幸福」はその端的なスローガンだ。利己的な動機による行為であっても、結果として利他的であれば、それは道徳的ということになる。
価値観が多様化すれば、快・不快の内容は異なる。しかし、いずれであっても幸福を求め、不幸を避けることでは共通している。各々の価値観に優劣はないのだから、それらは計算できる。「ポストモダン」が流行した際、価値のヒエラルキーが崩れ、フラット化したという言説が真淑やかに主張されたが、それは功利主義への無知を露呈していたに過ぎない。
社会の目標は幸福を増やし、不幸を減らすことである。功利主義は差別や格差の改善を進める。その際、逆差別といった反論が発せられることもあるが、限界効用によりそれは当たらない。1杯目のビールは2杯目よりうまい。このような限界効用の計算に基づけば、被差別者の不幸の減少は他の人のそれよりも社会的効用の総和が大きくなる。
卓越主義は前近代の倫理思想であるため、近代の市場経済を前提にしていない。それに対して、この二つの倫理思想は市場経済も踏まえている。功利主義は、経済学説でもあるので、理解しやすい。また、直観主義は伝統的な共同体の慣習に従うのではなく、ルールを決めてそれを守るという発想で、現代の市場経済の常識である。カント主義はマルクス主義経済学や制度学派、経営学に影響を与えている。
また、先に述べた通り、現代の政治・経済のヴィジョンを語る際に欠かせないロールズのカント主義も重要である。影響力もあるため、それに対する厳しい指摘も少なくない。中には、IS-LM分析を用いて、ロールズの主張が厳密には成り立たないと批判する論者もいる。しかし、ロールズの「無知のヴェール」は不確実性の比喩と理解すべきである。市場経済には、計算可能なリスクだけでなく、不確実性がつきまとう。それを念頭に置き、対処することが市場経済の持続には不可欠だ。計算による予測が不可能な不確実性は大震災やパンデミックが物語っている。ロールズが『正義論』で突きつけたのは不確実性の問題である。
近代以前に生まれた卓越主義は現代の武力行使の根拠となり得ない。「勇気」がその共同体の美徳であるとしても、国家の武力行使の理由にはなり得ない。一方、直観主義や功利主義はその正当化として援用される。功利主義は既に述べた通りである。ただし、限界効用もあり、何をもって均衡とするかは難しい。また、義務論は集団安全保障や人道的介入などの論拠となる。この前者は侵略の絶対悪を理由にするように理解しやすいが、後者のロジックには説明が要る。ウエストファリア条約以来、主権国家への内政干渉は許されない。しかし、ナチスによるホロコーストの反省から、ジェノサイドを代表に著しい人権侵害を内政問題と国際社会が見逃すことは許されない。その際には、普遍的認識に基づき、国際社会が武力介入する。もっとも、このコンセンサスの形成が諸般の事情によって困難である。
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