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AIと労働なき世界(2024)

AIと労働なき世界
Saven Satow
May, 19, 2024

「俺の人生から、恋を取っちまったら何が残るんだい?3度3度飯を喰って、屁をたれるし、つまり造糞機だ」。
車寅次郎『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』

1 AIが人間の仕事を奪う?
 2015年12月、野村総研とオックスフォード大学は共同で『AIの導入によって日本の労働人口の49%の仕事が10-20年以内になくなる~601 種の職業ごとに、コンピューター技術による代替確率を試算~』というレポートを公表する。これは、近い将来、機械によって人間の労働者のおよそ半数が失業すると社会的に受けとめられ、さまざまな反応を引き起こす。

 「確かに、AIは今の労働を奪うだろうが、機械化の歴史が教えてくれる通り、生産性の向上に伴い新たに仕事を生み出すから、人間はそれに従事することになる」。「AIの代替は特定の職種に限定されているので、人間は棲み分ければいい」。「導入には信頼性やコストの問題があり、それの解決には時間がかかるから、想定通りには進まない」。「新しい科学技術は、これまでの歴史が示しているように、取り返しのつかない悪影響を及ぼすことがあるので、規制の必要がある」。「AIの仕事は、一見効率的に思えるが、画一的で、臨機応変のできる人間には人間のよさがある」。

 これら以外にも多様な意見が提示されている。ただ、急速に進歩するAIの職場への進出の流れは止められないという共通認識があるため、ラッダイト運動は今のところ起きていない。

2 『オートメーションとユートピア』
 報告書自体を含めこうした議論は人間にとって労働が不可欠であることを前提にしている。しかし、ジョン・ダナハー(John Danaheror)はそれに異議を申し立てる。一連の議論は現在の状況を自明視した上で、機械化の是非を論じているだけであって、いかなる社会を目指すのかという問いが欠けている。そこで、彼はすべての生産労働がオートメーション化された社会を構想する。それが『オートメーションとユートピア─労働なき世界で人間は繫栄する(Automation and Utopia: Human Flourishing in a World without Work)』(2019)である。

 ジョン・ダナハーは、AI)やオートメーション、ロボット工学といった新興テクノロジーの倫理的・社会的影響に関する研究で知られる哲学者である。1982年生まれの彼はアイルランドのユニバーシティ・カレッジ・コーク(University College Cork: UCC)において博士号を取得、その後、アイルランド国立大学ゴールウェイ校(National University of Ireland, Galway)や英レディング大学などで学究生活を送っている。

 ダナハーは、『オートメーションとユートピア』において、自動化とAI によって人間の労働の必要性が大幅に削減される潜在的な未来について詳しく掘り下げる。彼はオートメーションが社会や経済、雇用に与える変革的な影響を説明している。確かに、自動化が広範な雇用喪失につながり、個人やコミュニティ、政府にとって重大な課題を引き起こす可能性がある。しかし、それは決して暗黒社会ではなく、「ユートピア」をもたらすと彼は主張する。

  「ユートピア」は人間の繁栄が優先される理想社会である。ダナハーは、従来の雇用が存在しない状況において、社会が仕事や余暇、個人の充足の価値をどのように再定義するかを考察する。そこは仕事の悲惨さから人間が解放され、創造性と探求の機会に満ちた理想郷だ。それは人類の繁栄の理想像で、人々が新たなものを発明したり、スポーツやゲームをしたり、仮想現実を探索したりするなどに時間を費やすことができるようになる。人間は個々人が抱く価値観に基づく幸福を追求できる。言わば、機械化による無制限労働が完全に自動化された結果、すべての人間が「有閑階級」(ソースタイン・ヴェブレン)になるというわけだ。それが労働の終わった世界というユートピアの彼のヴィジョンである。

 ただし、ダナハーはSF作家ではない。哲学者である。彼は一つの未来像を提示するだけですませない。彼の関心はいかなる理論的基礎づけを行ってその世界を目指すかだ。ダナハーは「正義と配分」や「意味と目的」、「社会構造と制度」をめぐるさまざまな問いを突きつけ、読者にどのような社会を追求するのか考えることを促す。そうした問いを考察せず、彼の青写真の欠陥を指摘することは建設的ではない。重要なことはどのような社会が到来するかではなく、どのような社会を目指すのかである。野村総研の報告書との違いはここにある。

 社会は正義、すなわち社会的公正に基づいていなければならない。自動化の恩恵の分配の原理をいかなるものであるのか、加えて、オートメーション・システムによって生み出された資源や富へのアクセス権はどうなるのかが問題になる。また、仕事は個人のアイデンティティや充実感を形成する役割を果たすこともある。そうした個人は、従来の労働のない世界で、どのようにして人生の意味と目的を見出すことができるのかも検討しなければならない。

 既存の社会構造と制度は人間が生産労働に従事することを前提に設計されている。仕事の終わった世界に適用するようにそれらを変更する必要がある。資源のみならず、機会への公正なアクセスを確保するために変革が不可欠である。また、自動化テクノロジーの開発と展開は倫理原則に従うわなければならない。潜在的な危害を軽減し、オートメーションによって人間の幸福を確実に向上させるにはどうすればよいかを吟味しなければならない。

 実際、ダナハーが提起した問いに抵触する事態はすでに生じている。一例を挙げると、AIが発明した科学技術に関する特許をその機械に認めるように求める訴訟が国内外で起きている。アメリカのコンピュータ科学者スティーブン・テイラーは、自作のAIが考案したとする「食品容器」と「点滅信号」について、AIを「発明者」として特許の出願をしたものの、2019年にイギリスの知財当局は「機械は発明者になれない」とそれを却下する。そこで、彼は訴訟に踏み切ったが、2023年12月、英最高裁は現行法が「発明者は人間でなければならない」としてAIが特許権を得ることを認めないとの判断を示している。この判決に対して、代理人弁護士は「イギリスの特許法がAIが生み出した発明を保護するのに不適格で、新技術の開発のため、AIに依存する産業を支援するのには全く不十分だと明確にした」と指摘する。また、知財当局者はAIの生成したものを「特許制度や知的財産としてどう扱うべきかという疑問は当然だ」とし、「政府が関連法を見直すか検討を続ける」と述べている。

 近代における公共の利益は社会でのコミュニケーションを通じて形成される。AIが急速に進歩して行く中で、目指すべき社会像に関するコンセンサスが必要である。ダナハーは、これらの問いに批判的に取り組み、労働なき社会を構築するための多様な可能性を考察することを読者に求めている。それは近代を超える社会を構想することだ。労働は近代を基礎づける体系的理論に組みこまれている。仕事が終わった世界を迎えるには、それを再構成する必要がある。従って、近代の克服が『オートメーションとユートピア』の真の目標である。

3 近代と労働
 ダナハーの企ての意義を理解するために、労働が思想史においてどのように位置づけられてきたかを見てみよう。労働は前近代と近代ではそれが大きく異なっている。

 前近代は共同体主義の時代である。共同体が先にあり、それの認める規範を共有する個人が内属する。個々人の行動は道徳的に判断される。労働も例外ではない。前近代における世界各地の共同体の規範は多様であるけれども、こうした認知行動の構造は共通している。

 勤勉さが共同体で尊ばれることが多いのはそれが規範の説く美徳に適っているからである。しかし、勤労を認めつつも、労働よりも余暇に意義を見出す規範もある。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で「スコレー」を得ることこそが人生の目的と延べている。「スコレー(σχολή)」は古典ギリシア語で「閑暇」を意味する。けれども、それはたんなる暇ではない。共同体で共有されている規範に基づいた学問や芸術に専念し、幸福を実現するための自由で満ち足りた時間である。そうしたスコレーの有意義な活動をすることが市民の幸福である。働き詰めであることは幸福ではない。

 アテナイは民主主義の普及した都市国家であると同時に、奴隷労働を利用した経済体制を採用している。アリストテレスの主張はそれを前提にしている。市民も働く。だが、労働しかできない奴隷と違い、政治参加や知識を愛することができる。だから、労働などというものは、本来、奴隷が担えばよいとなる。

 しかし、16世紀の欧州で、自らの道徳の正しさに基づいて殺し合いを繰り広げる宗教戦争が起きてしまう。この経験を教訓に、17世紀英国のトマス・ホッブズは政教分離を提唱する。

 規範は美徳を実践することでこの現実が理想に到達する、もしくは近づくと教える。政治も道徳の説く徳を行い、理想を目指す。けれども、その結果として凄惨な宗教戦争に欧州が覆われる。こうした事態を避けるために、ホッブズは政治の目的を平和の実現に変更する。平和でなければ、よい生き方もままならない。それには政治から宗教を分離することが不可欠だ。政治は公、信仰は私の領域に属し、相互に干渉してはならない。これにより個人に価値観の選択が委ねられる。こうして個人主義の近代が始まる。

 近代において行動の根拠を道徳に見出すことはできない。労働も同様である。そもそも近代人は自由で平等、自立した個人で、相互に主体として扱わなければならない。奴隷は客体であり、近代では人間をそのように取り扱うことなど認められない。近代人は自らの意思決定に基づいて労働をする。

 そこで、ジョン・ロックが近代の原理から労働を理論的に基礎づける。ロックは労働を価値中立的に扱い、それを不可侵の基本的人権との関係により考察する。自然物を利用可能な資源に変えるのは人間の労働である。野山に落ちている栗は人間が拾うことによって食料となり得る。拾うという労働が自然物の栗を資源に変えたというわけだ。他ならぬその人がそうした行為によって獲得したものだから、そこには占有権がある。誰もが自由で平等、自立した個人である以上、これを奪うことなどできない。そのため、労働を通じた所有の権利、すなわち私的所有権は不可侵の人権である。

 同意があれば自由で平等、自立した個人として所有物を取引することができる。この理念を体現しているのが市場である。売買はもちろん、参加も自由である。ところが、ここで決まる価格は誰にも思うようにできない。売り手として参加するなら、高く売りたい。しかし、加わると、供給が増えるので、価格が下がってしまう。逆に、買い手で参加すると、同様のメカニズムによって価格が上がる。参加者は誰もが平等で、自立している。

 このようにして労働と私的所有権、市場経済が近代に位置づけられる。仕事の終わった世界はこうした理論に変更を迫るものだ。

 個人は自由で平等、自立しており、価値観の選択が認められている。いかなる善を信じてもかまわない。けれども、そういう個人が集まって近代社会を形成する。その社会が正義に立脚して機能する目的に基づき、権利の一部を信託し国家を構築する。政府は権利の一部を信託されたのだから、社会のために働く義務を負い、公共の利益の実現に取り組む。ただ、社会的近代の原理を参照しつつ、コミュニケーションを通じて公共の利益が何であるかを動的に形成する必要がある。

 以降の思想家も労働の意義を理論的に基礎づけて行く。コミュニタリアンのG・W・F・ヘーゲルは近代の個人主義・自由主義を批判する。ただし、彼は、『精神現象学』において、近代を踏まえ、あくまで個人から出発し、その意識の発展過程の中で国家に属する認識を獲得すると論じる。前近代のような共同体が先にあり、個人が内属するという考えをとらない。彼は労働を意識の発展過程における「陶冶(Bildung)」の営みとして位置づける。仕事は賃金を得るためだけではなく、社会の中で他者から承認を得るためにも行われるものである。人間は労働と教養を積むことで自己を高め、個人と社会や国家との調和的関係を会得するようになる。

 これを批判したのがカール・マルクスである。労働にそういう役割があるとしても、資本主義が人間疎外を引き起こすので、そのような認識を獲得することは困難である。こういった状況を脱するために、労働者階級は革命を通じて社会構造を変革するほかない。ただし、マルクスは資本主義における労働の実態を糾弾したが、労働自体には肯定的である。実際、彼はロック以来の労働価値説に基づいて自説を展開している。

 そのマルクスと対照的に、主流派経済学は労働に対して消極的意義しか認めない。これはジェレミー・ベンサムの功利主義を踏まえている。近代は価値観の選択を個人に委ねているため、近代人は理想を必ずしも共有していない。しかし、いずれの価値観であっても幸福を求め、不幸を避けることでは共通している。個人は平等なのだから、価値観の間に優劣はない。それならば、社会における幸福と不幸の総量を計算できる。社会が追及する公共の利益は幸福を増やして不幸を減らすこと、すなわち最大多数の最大幸福である。幸福は個人によって異なる。ただ、そうした効用の追及には概してコストがかかるものだ。それを用意するためには働かざるを得ない。労働は効用獲得の手段である。それは苦痛で、効用ではない。主流派経済学の労働観はこのように否定的である。

4 人間のすべき仕事
 ダナハーの『オートメーションとユートピア』は主流派経済学の発想を推し進めたものだ。労働が効用でないなら、それを機械に任せてしまえばよい。自らの価値観に基づいて幸福を追求することこそ人間的生き方だ。ダナハーの主張は古代ギリシアの「スコレー」の復活であるかに見えるが、実際には異なっている。前近代は共同体主義なので、すべての認知行動が規範によって評価される。スコレーの過ごし方もそれに従っていなければならない。一方、ダナハーの世界は近代を経てるので、生き方も個人に委ねられている。

 機械化自体は効用の増大として正当化できる。機械を導入すれば、生産の質・量ともに向上する。また、危険な作業を機械が代行することで、人間はそこから解放される。さらに、確かに機械は人間から既存の労働を奪うが、生産の拡充に伴い新たな仕事を生み出す。労働の機械化は社会にとって効用を増加させる。こうした議論はロックの労働に関する理論とも整合性が維持される。生産労働がすべてオートメーション化されても、研究開発や経営は人間が担当する場合も同様である。イノベーションやマネジメントという仕事が人間に残るからだ。

 言うまでもなく、AIが自律的に進歩するようになったとしたら、理論の再構築が不可欠である。その時は、人間ではなく、機械がそれを組み替える役割を担わざるを得なくなる。過去と現在に関する質量ともにそろったデータがあれば、野村総研の報告書が示す通り、いかなる社会が到来するのかはAIにも予想できる。しかし、いかなる社会を目指すのかはAIに考えられない。なぜなら、そこには価値観があるからだ。AIに追求すべき幸福はない。人間にはやるべき仕事がある。
〈了〉
参照文献
今道友信、『アリストテレス』、講談社学術文庫、2004年
賀川昭夫、『現代経済学 改訂版』、放送大学教育振興会、2009年
城塚登、『ヘーゲル』、講談社学術文庫、1997年
山岡龍一、『西洋政治理論の伝統』、放送大学教育振興会、2009年
John Danaher, “Automation and Utopia: Human Flourishing in a World without Work”, Harvard University Press, 2019

「日本の労働人口の 49%が人工知能やロボット等で代替可能に~ 601 種の職業ごとに、コンピューター技術による代替確率を試算 ~」、『野村総合研究所』、2015 年 12 月 2日配信
https://www.nri.com/-/media/Corporate/jp/Files/PDF/news/newsrelease/cc/2015/151202_1.pdf
「AIを発明者と認めず 人間だけに特許権 英・最高裁が判断」、『TBS』、2023年12月22日00時37分配信
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/908394?display=1

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