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戦後経済と日本文学(2)(2009)

3 グローバル化した自己
 因習的な経済小説と違い、いわゆる純文学は新たな方法論を提示することで文学に寄与する。けれども、少なくとも、この一年間に発表された若手の小説を読む限り、ヘンリー・ジェイムズに舞い戻り、それを超えるものでもない。一例として挙げると、喜多ふありの『けちゃっぷ』や安戸悠太の『おひるのたびにさようなら』は、テレビやインターネットを用いながら、真偽をめぐる想像力の問題を扱っている。

 いかに新奇な大道具小道具を使っても、ヘンリー・ジェイムズを知る読者であれば、ずいぶんと古典的な作品だと思わずにはいられない。ヘンリー・ジェイムズは中期の作品群において想像力の問題をテーマに据えている。まず、『ねじの回転』(1895)はアルフレッド・ヒッチコックを思い起こさせるサスペンスである。お屋敷で愛らしい子供たちを教えることになった女性家庭教師は、あるときから死んだ下男たちの幽霊を見るようになり、監督を強化するが、実は、それが彼女の妄想だったのではないかという真偽の決定不能性を巧みに描写する。また、彼は、『ほんもの』(1892)において、肖像画とモデルとの関係を再考し、『じゅうたんの下絵』(1895)では、ヒュー・ヴィアカーの小説の本質を見逃していた批評家によるその謎解きを描いている。むしろ、現代の読者にとっては、ヘンリー・ジェイムズの方が新鮮に感じられるかもしれない。

 しかし、現実の社会はヘンリー・ジェイムズの問題設定ではもはや捉えきれない。それを今回の金融危機をめぐって顕在化したレバレッジや証券化などが象徴的に示している。その意味で、この一年間の新作は、根本において現代的ではない。

 まず、「レバレッジ(leverage)」であるが、投資において信用取引や金融派生商品などを用いて、手持ちの資金よりも多い金額を動かすことである。貸し手から集めた元手資金に加えて、金融機関から借り入れをすることで、元々の投資額と比べて、より効率的な運用利回りの提供を可能にする。外国為替証拠金取引、いわゆるFX取引も、基本的には、レバレッジである。レバレッジは自己資本と比較して得だけでなく、損も巨額になる危険性がある。そのため、倍率設定が重要となる。実際の運用では、ファンドが担保を無限連鎖的に広げてしまうことがしばしば起きる。

 購入した資産担保証券をさらに担保として資金を借り入れ、その資金で別の資産担保証券を購入するといいう作業が繰り返される。ベア・スターンズ傘下の二つのヘッジファンドの場合、投資家から集めた資金が約16億ドルだったのに対し、銀行などから借り入れていた資金は200億ドルにも上っている。また、ゴールドマン・サックスならびにメリルリンチ、モルガン・スタンレールの米国の三大投資銀行は、03年頃までのレバレッジ比率が20倍前後だったのに、07年では、30倍以上にも達している。レバレッジ比率は総資産を株主資本で割った比率である。経済において、楽観的な現実主義は最も好ましいが、楽観的な空想主義は破滅を招く。民間部門の金融ビジネスにおけるレバレッジは大幅に減少しておくと予測される。しかし、今回の金融危機に対する政府の財政出動には、レバレッジを利かせた財政運営が見られる。レバレッジの危険性は依然として世界から消えていない。

 次に、証券化は企業金融の証券化と資産金融の証券化の二種類に大別される。前者は企業が直接金融によって資金調達を活性化させることである。後者は、1990年6月の証券取引審議会報告によると、「企業が保有している特定の資産を分離して、その資産から発生する現在または将来の確実なキャッシュ・フローを裏付けとして証券化」することで、以下で説明する証券化商品はこちらに属する。さらに、これは金融資産の証券化と実物資産の証券化に分けられる。

 金融資産の証券化は金融機関と個人との相対取引によって発生した個別債権を集め、均質な証券商品に組み直し、流動性を高くする手法である。なお、流動性とは現金化という意味である。不動産担保融資の債権を証券化したモーゲージ証券のほか、消費者ローン証券やオート・ローン証券などがこれに当たる。一方、実物資産の証券化は不動産など一件あたりの取引金額が高く、流動性の低い資産を対象とし、それを均質な証券に小口化して流動性を高める手法である。いずれもたんに流動化を高めるだけでなく、証券としての法規制に従わざるを得なくなるため、情報開示が向上し、投資家にとって購入しやすくなる。

 証券化の仕組みはいささか複雑である。証券化は資金調達やバランスシート調整を目的として行われる。

 その際、「オリジネーター(Originator)」と呼ばれる原債権者から債権を切り離し、発行される証券の信用力を債権者から独立した資産によって裏付ける。それはオリジネーターが「資産担保証券(ABS)」の発行者に債権を譲渡するということである。そうすると、オリジネーターの企業としての信用度とは無関係な信用力を持った証券が生まれリ。通常、資金調達ではバランスシート上の資産と負債の両方である貸方を参照する。しかし、債券をABSに譲渡して証券化しているため、バランスシートから対象資産をオフバランス化でき、借方、つまり資産部分だけを活用する。オリジネーターにとって、これにより財務面がすりむかされる。譲渡後も、オリジネーターは「サービサー(Servicer)」として当該債権の管理・回収を行う。従って、オリジネーター原債務者と従来通の事業関係を継続できる。債務者にも、変化は感じられない。

 ABSの発行者は、投資家に元利払い義務を負う法的責任がある。そのため、事業目的を証券化だけに限定した「特別目的媒体(SPV)」を設立し、投資家に余分なリスクを被らせないようにする。SPVの形態には会社や信託、組合などがある。ABSの信用力を高めるために、さまざまな手法がとられる。優先的な弁済順位を付けたり、プールした債券からの元利回収の一部をSPVの勘定に積み立てたり、より格付けの高い「新陽保管者(Credit Enhancer)」による保証や追加担保の差し入れをしたりするといった具合である。

 証券化商品を広く投資家に販売するためには。当該証券の格付けが必要となる。なお、専門機関による債権の格付けは満期の際の不履行リスクを評価しているのであって、中途解約を保障しているわけではない。また、債権において、地方債や社債がその国の国債以上に格付けられることはない。販売を担当するのは証券販売引受業者、すなわち証券会社や投資銀行である。彼らは、販売後も、「マーケット・メーカー’Market Maker(」として流通市場での格付けを行い、証券化商品の流動性の維持を図る。

 しかし、この作業が繰り返されていくと、来は情報の開示性を高めるはずだった証券化商品は不可視化してしまう。証券化商品上で債券は何度も何度も切り貼りされ、サブプライム・ローンのようなハイリスクな債券がミドルリスクやローリスクなものと入り混じる。どの証券化商品に不良資産が含まれているかを判別することは難しい。景気後退等によって不良債権が生じると、どの商品にどれだけ該当するものが含まれているのか見つけるのが困難であるので、金融機関はお互いの経営状況に対して疑心暗鬼に陥る。おまけに、自己資本に乏しい投資銀行は、証券化商品をつくるために、レバレッジで債券購入の資金を調達している。それにも、比率を上げる目的で、切り貼りが繰り返されている。そういった金融商品が世界中にばらまかれる。

 経済はさまざまに関係しているので、自分のあずかり知らぬところで起きた事件や出来事が回りまわって、かかわってくるというのは、後に触れるショックの数々からも明らかなように、よくある。また、バブルに踊った金融機関が巨額の不良資産を抱え、しかも景気の悪化に伴い、優良債券も不良化し、債務が次々と膨らむ事態もしばしば目にする。しかし、今回の金融危機は不良債権が細切れにされて証券化商品として世界中にばらまかれたという点で新しい。時間をとめられたとしても、汚染舞の混入した可能性のある菓子や焼酎からそれを抜き出すのと同様、不良債権を見つけ出すのは難しい。

 経済がグローバル化し、人・カネ・モノ・情報が世界中を駆けめぐり、社会はペースト化している。グローバル社会で、成長するために、企業は一傾向に偏重することなく、人種や民族、宗教、性別、障害を入り交えて人材を採用する。多種多様な価値観・認識の対話の力によって市場を創出しようとするからである。ヘンリー・ジェイムズ流の想像力の問題設定は牧歌的であり、この「ペースト化した社会」では有効ではない。自己もグローバル化してしまい、他者と入り混じっている。切り刻まれた自己がさまざまな自己と混ぜ合わされてさらに細切れにされ、世界中にばらまかれる。ジョゼフ・ナイは相互依存論を展開しているが、世界は相互浸透さえしている。

4 飽和化
 グローバル化において想像力もその対応が求められる。グローバル化した想像力である。自分だけでなく、地球の裏側を含むさまざまな立場を創造する必要がある。その想像力によって自己はグローバル化する。「グローバル化した自己」に関する意識が希薄なのは、若手の小説家たちだけではない。2009年4月12日付『朝日新聞』の「耕論」における東浩紀と中島岳志の意見も、同様に少し前の認識に若い批評家も依然としてとらわれていることをよく物語っている。

 東は、今日、左=リベラルや右=保守という枠組みの意味は失われていると指摘する。80年代末まで、左翼は反権力・反ナショナリズム・福祉国家志向で連帯することになっていたが、そういった「パッケージ化」はもはや有効ではない。反貧困を唱えるワーキング・プアは政府機能の拡大を望まない点で反福祉国家であり、外国人労働者排斥を支持するナショナリストである。また、中島も、1975年生まれ前後の書き手は、左や右といった分類されるのを内向きであるとして嫌っていると言う。色分けされた既存の雑誌ではなく、ネットを通じて、「シングル・イッシュー」、すなわち個々の問題についての言論が主流になり、それぞれに異なる論客が影響力を持つだろう。グランド・セオリーはもはや有効ではないというわけだ。

 『動物化するポストモダン』や『中村屋のボース』の作者を始めとして、1990年代に選挙権を獲得した層は、イデオロギーによる一貫性に対して反発を覚える。現実はそんな白黒はっきりするようなものじゃないだろうというのが口癖だ。二項対立でとらえたがる先行世代都違って、自分たちは複雑で入り組んだ議論をしていると自認する。もっとも、国際政治の舞台では、東西冷戦の最中であっても、米中接近や中越戦争などのように、必ずしもイデオロギーに縛られてはいない。

 イデオロギーに束縛されることを忌まわしく思うため、彼らはシングル・イッシューへの発言を行う。各問題への発言をまとめようとすると、著しく断片的であるが、矛盾とは認識されない。それを語っている自己の一貫性は確信しているからである。いかなる問題であっても、自分が語れば、それは自己自身において統一されている。その結果、コミュニケーションは一方通行にしかならない。また、彼らはしばしばネットに連帯や議論の可能性を見出す。

 しかし、インターネットは、元々、体系的知識を持った専門家・研究者が学術目的で使っていたため、その出自から生じる問題点がある。総合的・体系的・批判的認識を志向していないまま利用すると、独善性・衝動性・断片性に陥る危険性が高くなる。黎明期の時点ですでにそれは研究者の間ですでに表面化している。ソーシャル・スキルが大幅に制限されるため、一旦口論が始まると、感情的になり、しつこく、エスカレートする。

 どろどろした人間関係というのがあって、日本人がどうもその魅力に抗しがたく、とくに団塊の世代を含むそれ以前の人々は、ポーズとしては嫌がりつつも、そういうつながりに浸かってしまう。一晩中酒でも飲んで友たちと人生について、哲学について、日本の将来について語り明かすというのは、ひょっとすると、今でもやっている人がいるのではなかろうか。
 ネット世代は、そこから遠いところにいる。彼らはネットの画面上だけの関係で十分であるらしい。未知の人と話すときは、まずネットで検索してその人について知ろうとする。そこで得た情報で満足する。そういう情報がないと、不安になるのかもしれない。そのかわり、相手についてあってから探りを入れるというような面倒なことはしないで清む。初対面時に必要だった風格とか押し出しとかは、必要とされない。
 ネットの関係は、始まるのも早いのだが、あまり後を引かない。すぐに切っていい。あっさりと、さっぱりとしている。
 人間関係でのにおいや触覚を必要としていない。動物ではなく、まるで野菜のようなのだ。さくさくという野菜を切る音を彼らが好んで使っているのには、そういう背景があるのではなかろうか。
(金田一秀穂『気持ちにそぐう言葉たち』)

 正直、これは「物語自己」そのものである。東西冷戦というイデオロギー対立が終わった後、世界各地でエスニックや宗教に基づくナショナリズムが勃興する。それはアイデンティティを求める衝動であるが、ポストモダンを通渇しているため、体系的ではない。1990年代に世界に広まったこの自己意識を東や中島は語っている。

 第二次世界大戦後の世界を東西冷戦というイデオロギー・ポリティクスが支配する。1960年代後半から後に「ポストモダン」と呼ばれる潮流が現れ始め、1980年代に最盛期を迎える。ポストモダンにおいて、自己は多様化・可変化・断片化として把握される。ケネス・J・ゲーガンはそれを「飽和した自己(Saturated Self)」と命名している。近代は社会を一元化しようとしたが、実際には、多元化している。人々は多様な世界を生き、可変的・多重的な複数の自己を経験している。けれども、テクノロジーの進展などにより、これら複数の自己は分離したままでいることは困難である。さまざまな自己が同居せざるをえない。「社会的飽和(Social Saturation)」、すなわち社会的状況・関係が複雑に入り組んだ飽和状態に達し、一方で、多種多様な自己が群居する状態、すなわち「群居化した自己( Populated Self)」が蔓延する。両者がお互いに対応しようとする以上、社会も自己も飽和化し続ける。

 東西冷戦が終結し、イデオロギー・ポリティクスに代わってアイデンティティ・ポリティクスが世界各地で噴出すると、「物語自己(Narrative self)」が受容される。人は危機に直面したとき、物語の形式によって自己を救済・回復する。しかし、この物語は、ポストモダン思想を経験しているので、内容が固定的ではなく、可変的である。場面に応じてつくりかえられる。思いつきや思いこみが入り、場当たり的でですらある。一貫性がないけれども、それを語る自己は一つであり、そこで自己の絶対性が確認される。ポストモダン状況下で群居していた自己と他者は、この自己の物語りによって、再構成される。

 カール・マンハイムは、『イデオロギーとユートピア』(1929)において、イデオロギーを「全体的イデオロギー」と「部分的イデオロギー」に二分している。前者は一集団や一階級、一世代に全体的意識構造を提供する。自由主義や社会主義は体系的であり、これを代表する。一方、後者は意識的な虚偽や隠蔽、偽造を含み、全体としては支離滅裂であるが、部分的に見れば、説得力があるように見える。この典型がナショナリズムである。それは部分的であるため、いかなる思想とも結びつけるという強みがある。イデオロギー・ポリティクスは全他的イデオロギーの対立であり、アイデンティティ・ポリティクスは部分的イデオロギーの衝突である。

 けれども、相互依存・相互浸透が進展している世界では、自己と他者が入り混じっている以上、自己の一貫性から思考することは十分でないどころか、自身にとっても不利益な帰結が到来する危険性さえある。個人的合理性は必ずしも社会的合理性にはつながらないと言うのが経済学の教えるところである。しかも、地球温暖化問題を前提として、経済も動かなければならなくなっている。今やアイデンティティ・ポリティクスではなく、エコロジー・ポリティクスの時代へ突入している。むしろ、人と人とのつながりや集いから考えを始める方が賢明である。言うまでもなく、それらは非常に多種多様であるし、新しいあり方もつねに生まれているため、改めて解剖して検討しなければならない。自己はこうしたつながりや集いから見出される。

 シングル・イッシュー傾向は全体像が見えにくくなった現状に対する苛立ちから生じている。しかし、シングル・イッシューとしての考察は本質的ではない。地球温暖化をシングル・イッシューとして論じることはできない。経済活動という予測困難な現象も考慮しなければならないからである。ペースト化した社会では、個々の問題ではなく、それらの連関を論じる必要がある。連関性から経済活動を認識することの重要性は、18世紀にフランソワ・ケネーが教えている。それには、連関を明らかにするための協同作業を行う知的集合体が不可欠である。対話の力が出発点となる。

 経済に着目すると、次期社会のベータ版を見ることができる。日本文学はもっと経済にとり組んでもよい。

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