三島由紀夫『鏡子の家』に合うBGM
時折、小説と音楽が妙にシンクロすることがある。まるでその曲が小説のテーマ曲として作られたのではないかと推察してしまうほどに。ひと度、二者の共鳴に気づいてしまったらば、次に小説を手に取るときには、その曲をバックグラウンドで再生することが欠かせなくなる。あるいは、そればかりではなく、音楽を聴く際に、小説の台詞や情景が浮かんできてしまう。
ぴったりの小説、ぴったりの音楽が見つかることはとても珍しいことだから、発見した時のハッピーはひとしおである。
要するに僕の言いたいことは、三島由紀夫の『鏡子の家』とthe HIATUSの『Tales Of Sorrow Street』がそれに当たるということだ。
the HIATUSの『Tales Of Sorrow Street』は、娼婦の歌であると作詞作曲者の細美武士が公言している。かたや三島由紀夫の小説に登場する鏡子は娼婦ではない。しかしそれでも、娼婦のもとに通い詰める寂しい男の姿が描写されている歌詞は、『鏡子の家』の登場人物たちを彷彿とさせる。ニヒリズムを抱えた男たちが鏡子の家を訪ね、束の間だけ自己を解放し、またあくる日から虚しい現実を生き抜く。そんな彼らの姿が、なけなしの金を持って女を買いに行く男の姿にぴたり重なるのだ。
細美武士と誕生日と同じくして、拙著ノンフィクション小説『ロックスター』の主人公でもあるギタリストのヒサが、「もう世界なんて終わってしまえばええのにと思うことが時々ある」と言っていた。そして「ある時、うちの母親がテレビ見ながら、それと全く同じことをぼやいてたことがあったんよね」とも。
誰もがニヒリズムを背負って生きている。誰かが重みに耐えきれず死んでいる。現代日本は、一億総『鏡子の家』社会と言っても過言ではない。では、どうすればいいのだろうか?
僕の場合、もしニヒルな闇が襲ってきたら、『Tales Of Sorrow Street』を聴いて鏡子の家に行こうと思う。音楽の中なら、鏡子の家の経済状況はいつまでも変わらないし、仮に転勤でニューヨークに飛ばされようとも、通い続けられる。
最後に余談をひとつ。
『Tales Of Sorrow Street』の歌詞の和訳をネットで検索すると、いくらか誤った和訳を目にした。”I”の訳し方が肝だ。「わたしは」と訳すべきところが、「僕は」と誤訳されている場合が多かった。”I”が誰なのかを見極めるポイントは、女性コーラスにあると思う。UCARY & THE VALENTINEが歌っている箇所は、娼婦の台詞。細美武士がひとりで歌っている箇所は、客の男の台詞と捉えると、腑に落ちる。
※この動画ではUCARY & THE VALENTINEは登場しません。