宗教4世問題

7月初めに安倍元首相が暗殺され、国内では何かと宗教が話題になっているので今のうちに”今現在”の自身の信仰心について改めて考える。
以前から自身の信仰に対する態度についてきちんとまとめておいたら良いのではと考えていたのでここに記すことにした。あくまで主観であるのであしからず。
私は学会4世で親戚みんな学会員のような家系ではないが曽祖母が60才の時に入信したのがきっかけで、その信仰が曽祖母から祖母、そして母からその子供(私と弟)に引き継がれている。
物心つく前から題目は聞いているし、私は就学前から題目をあげていた。
信心するにあたって、よく「確信」という言葉が使われるが私自身もいくつもの確信を得てきた。
「〇〇が欲しい」「〇〇に会いたい」というようないわば私利私欲の塊でしかないような願いから、不登校だけどきちんと勉強したいからワンツーマンで教えてくれる人に出会いたいとか大学に入学したいとか片親で貧困家庭のために人によっては難しいかもしれないようなことが私にとっての確信であった。いまでは「運」に恵まれてきたと思っている。
20歳の時、急遽家を出て寮生活をしていた時もただでさえ朝早い仕事なのに毎朝1時間近くご本尊に向かって「今日もミスをせずに1日がスムーズに楽しく過ごせますように」などと祈る。
あくまで自力本願の宗教であり、いわゆる「神」と呼ばれるような人格神のようなものを信仰しているわけではないものの、所詮は仏教なので「宇宙の法則」的なものがあって、お題目をあげるとその法則と合致するから上手くいくんだみたいなことは度々親に言われていた。実際、数十分から数時間も同じ言葉を繰り返していたらトランス状態になるのは当たり前だと思う。そして私はそれを理解して題目をあげていた。10時間唱題会に参加するととてもハイになれる。
ある時期から瞑想やマインドフルネスというものが流行り出して、題目は瞑想と同じようなものなんだなと考えるようになった。題目をあげると本当に心がすっきりして前向きな気持ちになれる。
それがマインドフルネスで言われる「今を受け入れる」ということなのかもしれない。マインドフルネスについてはよく知らないが。
宗教あるあるだと思うが都合の良いことが起こると、教義的には自力本願なのだが「ご本尊様のおかげ」やら「ご本尊様は見守ってくれている」(第3代会長の”池田先生”もこのフレーズに追加されることが多い)と言い、熱心に祈っていたが上手くいかなかった場合は「これもご本尊の思し召し」やら何やらと学会員のなかではよく言われる。
私は活動に熱心であったときも、教義に対しての疑問はずっと持っていた。それは前世や来世というスピリチュアル的な要素についてだ。
宇宙の法則という言葉もモロ、スピっているようにしか思えず、人間の内面的なところ=脳と「宇宙の法則」というものをうまく結びつけることができないままでいた。
親に聞くとそういう疑問の答えは全部本に書いてあるというので学会関連の本を一時期読み漁ったが「これがその証拠だ」と私が納得できる答えは見つからなかった。
余談だが、もしかしたら「宇宙の法則」はあるのかもしれない。そして仮にあるとすればそれらは数式で表せられるのではないかと思っていたりする。きっと球体に関わる何かかな?別に詳しくはないので適当だが、そんな感じかもしれない、知らんけど。ただその法則が見つかる前に人類が滅ぶ可能性の方が高いのではないかなとか考える。球体ではなくひもかもしれないが。人類は神になることはできないというのが持論であるが、結局ところは法則なんていうのも人間が考えた概念でしかなく、存在しないのではないのではないか説が個人的には優位ではある。

今の私に信仰心はない。
以前から親には「あんたは頭でっかちなだけでわかっていない」と”Don’t think feel”でやれと言われてきた。
うちの親は信仰に対して自由ではあって、疑問や批判に理不尽に怒ったり、いわゆる”話の通じない人”ではなかったのでしょっちゅう信仰に対する議論をする。ここ最近は特に日本の学会組織は腐敗しており、幹部と呼ばれる人たちの末端会員への無意識的に見下したような発言。また誰もが知っているであろう全く連絡を取らない知人や、たまたま少し話しただけの人に公明党に投票してくれと懇願するF票獲得だけに熱心になる学会員は大勢いるが、親もそういう行動に疑問を持ち始めたようである。私は脱会はしていないが、公明党には入れないと地域幹部にキッパリ伝えてもわざわざ家にきて票獲得を狙うような、選挙の為の宗教になっている。
中堅幹部は中年層の人が多く、これは偏見であるが彼らの世界は狭い。特に婦人部の幹部たちは学校を卒業したらすぐに結婚のち出産でそのままずっと専業主婦というような、まともに社会で働いたことのないような人が多数いる。
特に創価学会の学校(創価小、中、高、大学)を出た人は特にそういうイメージがある。つまり学会の世界しか知らないのだ。それゆえ信仰に疑問を持つこともなくエスカレーター式に幹部になり、個人的な悩みや貧困などといった苦労を患っている会員に対して偉そうに「指導」する側になる。これは本当にある話だ。
彼らに創価学会の歴史や歴代三代会長の哲学が身に沁みているなれば、苦労して困っていると相談する人に「指導を受けろ」などと言わないだろう。
また「あなたのこと祈っているからね」というのも非常に頻繁に使われる言葉である。母親によれば以前は「(私も大変苦労しているから)一緒に祈ろう」が普通だったという話を聞くと、現在の創価学会には完全なるヒエラルキーが存在していることがわかる。昔は幹部も自分の経験や苦労を共有することが普通だったようだ。最初は組織をまとめるための係としての幹部であったものが、組織が大きくなるにつれて幹部であること=権力となってしまっていると断言してもいいだろう。
「祈っているからね」は決して偉そうな言葉ではない、ではなにが問題か。
それは完全に社交辞令のように使われているからである。幹部に何か話をするとすぐこの言葉が出てくる。この言葉の捉え方は人によって変わるだろうが、上の優れた人間が下の劣った人間に対して使われているように私は思う。
また学会における”指導”は私には今でも引きずっているトラウマとも関連している。同じ集合住宅に住んでいた学会員の家庭の息子は明らかにうつ病でひきこもりであった。しかし彼の家族は世間体のためにそれを隠し学会幹部から”指導”を受けることになるが、結局彼は自殺してしまった。
私の母親は彼の家族や組織幹部に通院を何度も勧めたが、彼の親は息子に”指導”を受けさせる選択をしたのである。
この事件は当時小学生だった私に深く傷を残し、いまでも残っている。
気がつけば自殺した彼よりも年上になってしまった私のまわりにはいまだに死がふわふわと私のあとをつけてくるのである。

うちの家系は自由だった。学会員特有の価値観に囚われず広い世界を持っている。信仰に対して疑問をなげかければ必ず何かしらの答えをくれた。お互い無意識に信仰の本質ということについて語り合える家系であった。今の私に信仰心はほぼ無くなってしまったが親はそれを受け入れてくれている。
親は近頃のニュースのためか学会に対してのカルト意識も強まっているようで、とりあえず公明党を支持することをやめてほしいと願うばかりである。

以上

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